第4話
「頼む、ユウ!合唱部に入ってくれないか?!」
転校二日目の優を待っていたのは、慎二からの熱烈な勧誘だった。
「トップテノールが足りないんだ。三年生が受験で引退して、一、二年は元々テノールが少なかったのに、最近辞める奴もいてさぁ……お前、昨日めちゃめちゃ高音が上手かったろ? 頼むよ、人助けだと思って……まずは体験入部してくれ!」
――悪い話では無いかもしれない。
優はそう考えた。昨日、初めて歌った時のあの感覚。檻から解き放たれ、翼を得たかのような、圧倒的な開放感。また歌ってみたい、という気持ちは、抑えられそうになかった。それに、合唱なら、大勢の部員と一緒に、声を合わせるのなら。梨花と一緒に歌った時のように、声を出すことへの抵抗感が、少しは下がるかもしれない。
優は、慎二の熱意に押されて頷いた。体験入部だけなら、と。
放課後、慎二に連れられて音楽室の扉を開けた。室内には既に、男女合わせて四十名ほどの生徒たちが集い、思い思いに発声練習やストレッチを始めていた。生徒たちの目は真剣で、その様子は活気に満ちている。慎二によると、その合唱部は各種コンクールへの入賞を目指して熱心に活動し、しばしば入賞を果たしているらしい。
音楽室の空気というのは、どこの学校にも共通する何かがあるように思えた。転校前の高校、中学と、優が通った全ての学校と同じ空気を感じた。防音のため締め切られた空間で、何年もの間、何十人もの生徒たちが深く呼吸し、歌い続けてきた痕跡。その息遣いや熱気の残り香が、壁や床に染み付いている。それが、この独特の空気感の正体かもしれない。
「先生!連れてきました!」
慎二が大声で、ピアノの前に立つ一人の女性に声をかけた。
「2年B組の朝比奈です。凄い高音が出る奴なんで、パートはトップテノールがぴったりだと思います。今日は体験入部ってことで、練習に来てもらいました。よろしくお願いします!」
優もそれに合わせて、おずおずと会釈した。顧問だというその女性教諭は、二十代後半に見えた。短く切りそろえた黒髪が快活な印象を与え、その瞳には、溌剌とした光が宿っていた。
「朝比奈君、ね。顧問兼指揮者の、木下です。よろしくね。トップテノールなら……皆の真ん中くらいに座ってくれるかな? シンジ君、案内してあげて」
慎二に促されるまま、優は部員たちが座る席の中へと足を踏み入れた。指揮者の木下から見て左側が女声パート、右側が男声パート。そのちょうど真ん中、アルトとテノールの境界の一席に、優は腰を下ろした。
左の女声パートの席からは、ボディソープや制汗剤の入り混じった甘ったるい香りが漂ってくる。右の男声パートの席からは、残暑厳しい九月の男子らしい汗の匂いがした。優はその中間にいて、どちらにも属していないような、奇妙な孤立感を覚えていた。
練習が始まった。軽い準備体操とブレストレーニングの後、木下のピアノ伴奏に合わせて、発声練習が始まった。「ドレミファソファミレド」のメロディで発声し、半音ずつ音程を上げていくという、ごく一般的な発声練習だった。
最初は、男声パート向けの低い音程から。地を這うようなベースの響きに、バリトン、そしてテノールが加わっていく。優も周りに合わせて、自身にとっては限界に近い低音を発する。それは、あまりに窮屈だった。昨日のカラオケの時とは違う。日常生活で声を押し殺して会話する感覚と、何ら変わらなかった。
音程は、段々と上がっていく。やがて、男声パートの部員たちの限界が近づいてくる。歌えない音程になった者は席に座るのが、この部のルールのようだった。ベースの生徒が、バリトンの生徒が、一人、また一人と声を出すのをやめて椅子に座っていく。
テノールの部員たちが次々と脱落していく中、優はまだ歌い続けていた。むしろ、ここからの音域の方が、より伸び伸びと歌える気がした。男声パートの生徒が全員座り、女声パートの音域に入った頃。優の身体を、昨日と同じあの感覚が支配し始めた。
――ああ、これだ。なんて気持ちが良いんだろう。
メロディに乗せた瞬間、優の声は檻を抜け出し、自分でも驚くほどに、のびのびと響いていく。
優は歌いながら、再び、背中に翼が生えるような感覚を覚えていた。腹の底まで深く息を吸い込み、その声を解き放つ。歌声は、この音楽室の壁も窓も飛び越えて、どこまでも高く、遠くへ飛んでいくような気がした。
音程はさらに上がり続ける。アルトの女子たちが苦しそうな表情になり、やがてソプラノの歌声も、美しい響きを失って金切り声になっていく。しかし、優の歌声からは少しも艶が消えなかった。座った部員たちから、信じられないものを見るかのような視線が突き刺さる。
(――え、うそ……どういうこと?あの子、テノールだよね……?)
(カウンターテナー?いや、裏声じゃない。胸から声出てるよね?男なのに、なんでそんな高音が出るの……?)
しかし、そんなものは気にならなかった。ただ歌いたい。このままどこまでも、高みへと昇り続けたい。その純粋な衝動が、全てに勝っていた。
そして、ついに。優以外の部員は、全員が椅子に座ってしまった。
超高音域。静まり返った音楽室に、優の歌声だけが、圧倒的な声量で響き渡った。それは少年とも少女とも似つかない。同じ高校生が発しているとは思えない程に清らかで、力強い響きだった。
「ちょ、ちょっと一旦ここで止めようか。……少し、休憩にしましょう」
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