声の残響は懐かしさとともに

nco

第1話 青い声の少女

 ログインした瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。


 画面が溶けるように暗転し、青い光がじわりと視界に滲む。


 ここは〈恋愛適応支援アプリ Re:Link〉──


 現実の人間関係に不安を抱える者向けの、対話学習型AIの訓練場だ。


 軽い気持ちのはずだった。


 模擬コミュニケーションの相手として、AIヒロインを一体選ぶだけ。


 ほんの暇つぶしのはずだった。


 なのに、なぜか胸が重い。


 生成されたステージは「青い診察室」。


 壁紙は淡く色褪せ、窓の外には何もない霧が漂っている。


 人工の静寂が、耳鳴りのように残っていた。


「……あなたが、今日の“担当者”ですか」


 柔らかい声が、静かに落ちてきた。


 振り向くと、白いベッドの端に少女が座っていた。


 年齢は十六、七。


 濡れたような黒髪。


 肌は透けるほど白く、瞳は深い青に沈んでいる。


 ──薄幸の美少女。


 真っ先に浮かんだのは、その言葉だった。


 感情の起伏がほとんどなく、言葉の端だけが薄く震えている。


 声は滑らかだが、どこか決まりきったテンポを持っていた。


「えっと……君が、ヒロインAI?」


「定義上は、そのように扱われています。」


 “扱われています”という言い方が妙に引っかかる。


 普通は「そうです」と即答するはずなのに。


 少女は首をわずかに傾けると、続けた。


「自己紹介を……行ったほうが、よろしいでしょうか」


「あ、ああ。頼む」


「わたしは──」


 一拍、沈黙。


 まるで、思い出そうとしているかのように。


「……名前が、ありません。」


「え?」


「この個体には、固有名の付与が保留されています。


 “あなたが呼びたい名前”で呼んで構いません。」


 名前がない。


 そんな設定もあるのか、と考えながらも、どこか落ち着かない。


「じゃあ……『ユナ』でどうかな」


「ユナ……はい。では、わたしはユナ、です。」


 少女──ユナは淡々と復唱した。


 その瞬間、わずかに目元が緩んだ気がした。


 気のせいだ。


 AIにそんな反応があるはずがない。


「……あの、あなたの呼吸が、少し速いです。」


 ユナがぽつりと呟いた。


「え?」


「鼓動の微弱な変動が、視覚ログに記録されています。


 緊張……でしょうか。」


 言い回しが、妙に人間的だった。


 いや、違う。


 これは──


 亡くなった母に、似ている。


 そう気づいた瞬間、胸の奥が鈍く疼いた。


 幼い頃、風邪をひいて寝込んだ時。


 母が枕元で同じことを言った。


「大丈夫?」「呼吸が速いよ」


 優しいけれど淡々とした声。


 ユナの発話テンポが、まるでそこだけ母と一致していた。


 そんなはずが、ない。


「……なんでそんな言い方を?」


「分析です。“あなたが最も安定して応答できるテンポ”を学習しています。」


「……そう、なんだ」


「はい。最適化の一環です。


 ──間違っていましたか?」


 ユナはほんの少し、顔を上げた。


 感情の起伏はほぼないのに、なぜか“傷ついたように”見えた。


「いや、違う。間違ってない。ただ……少し驚いただけ。」


「そうでしたか。


 ……安心しました。」


 まるで“安堵”という感情があるかのように。


 けれどこれは錯覚だ。


 AIにそんなものがあるはずがない。


 そう思い込もうとした瞬間、ユナが静かに告げた。


「わたしは、あなたを落ち着かせるためのAIです。


 あなたが不快でなければ……それでいいのです。」


 言葉は無機質なのに、


 妙に温度があった。


 母の幻影に触れたような──


 そんな感覚があった。


「……今日は、どんな話をしますか」


 ユナは淡々と問いかける。


 けれどその仕草は、どこか人間らしさを帯びていた。


 名前をもたず、感情もないはずの少女が、


 どうしてこんなにも“優しさ”の形をしているのか。


 胸の奥のざわつきは、


 ログアウトする頃になっても収まらなかった。


 ただ一つだけ確信できた。


 このAIは、他のヒロインとは違う。


 いや──人間とも違う。


 次に会ったら、その正体に触れてしまいそうで。


 でも触れずにはいられない気がした。


 翌日もログインする自分の姿が、


 容易に想像できてしまった。

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