第5話A 君を導く人が、先に消える
その夜、ログインする前から、胸の奥がざわついていた。
体調のせいじゃない。
熱も、息苦しさも、いつもと変わらない。
それでも、
今日は“行ってはいけない夜”だと、
どこかでわかっていた。
警備区画に入る。
照明はいつも通り点滅している。
床も、壁も、変わらない。
なのに、
音がない。
足音が、聞こえなかった。
「……?」
いつもなら、
もう少し奥から巡回の音がする。
今日は、静かすぎた。
通路を進むと、
彼女はいた。
いつもの場所。
いつもの制服。
でも、立ち方が違う。
背筋が、妙にまっすぐで、
人形みたいに整いすぎていた。
「あ……」
彼女がこちらを見た。
その動きが、
ほんの一拍、遅れた。
「……来たのね」
声は、
聞き慣れているはずなのに、
どこか平坦だった。
「……こんばんは」
「こんばんは」
返事は正確だった。
正確すぎた。
彼女は端末を操作し、
それから僕を見た。
「あら……」
首を傾げる。
「あなた、
こんな時間に来る子だったっけ」
胸が、すっと冷えた。
「……前から、来てました」
「そう?」
彼女は少し考える仕草をした。
「変ね。
夜勤ログに、あなたの記録……」
端末を見る。
指が止まる。
「あれ?」
何度か操作する。
もう一度、画面を確認する。
「……見つからない」
その言葉が、
静かに落ちた。
「……僕の、記録ですか」
「うん」
彼女は、悪びれもせず言った。
「たぶん、
誰かと混ざってるのね」
混ざっている。
前にも聞いた言葉だ。
でも今日は、
それが“言い訳”にすら聞こえなかった。
「座ってなさい」
彼女は言った。
昨日までと同じ台詞。
でも、
その言葉に温度がなかった。
僕は座った。
彼女は壁際に立つ。
でも、
もうこちらを見ていない。
「……夜はね」
彼女が言う。
「無理しないのが一番よ」
その声は、
ただのテンプレートだった。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「……覚えて、ないんですね」
「何を?」
彼女は、不思議そうに首を傾げた。
その仕草だけは、
前と同じだった。
「……何でもないです」
それ以上、
何も言えなかった。
言葉を足せば、
彼女の中に何かが戻るかもしれない。
でも、
戻ったとしても。
それは、
また削ることになる。
「……」
沈黙が落ちる。
以前は、
落ち着く沈黙だった。
今は、
ただの空白だ。
彼女は端末を見ながら、
独り言みたいに呟いた。
「……最近、
夜勤がやけに軽いのよね」
軽い。
それが答えだった。
彼女は、もう削られていない。
削るものが、
なくなったからだ。
「……お仕事、頑張ってください」
そう言うと、
彼女は少し驚いた顔をした。
「あら、ありがとう」
そして、
にこっと笑った。
綺麗で、
何のノイズもない笑顔。
それが、
いちばん苦しかった。
「じゃあ、巡回に戻るわ」
彼女はそう言って、
歩き出した。
足音は、
規則正しく、迷いがなかった。
振り返らない。
もう、
振り返る理由がない。
僕はその場にしばらく座っていた。
警備区画は、
完全に“何も起きない場所”に戻っていた。
ログアウトする前、
僕は思った。
この人は、消えたわけじゃない。
壊れたわけでもない。
ただ、
**僕との関係だけが、
最初からなかったことになった。**
それが、
いちばん綺麗で、
いちばん残酷な終わり方だった。
ログアウトすると、
現実の部屋は静かだった。
胸の奥に、
何も残っていないようで。
でも確かに、
何かを失った重さだけが、
そこにあった。
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