【ある女性にまつわる取材記録】

@tamacco

第1話:File.01 お裾分けのルール

「近隣トラブル」という言葉から、あなたは何を想像するだろうか。


深夜の騒音、ゴミ出しのルール違反、ベランダでの喫煙、あるいはペットの糞尿被害。私がこれまで週刊誌の特集記事で扱ってきた案件も、大抵はそのような「迷惑行為」の範疇に収まるものだった。被害者は怒り、加害者は開き直る。構図はいつも単純だ。


しかし、今回私が足を踏み入れたケースは、それらとは決定的に異なっていた。


埼玉県S市にある分譲マンション「サンフラワー・ハイツ」。築十五年、ファミリー層に人気のこの物件では、ある奇妙な現象が起きているという噂を耳にした。

特定の部屋の住人――仮に彼女を佐伯美和子としておこう――の周囲で、ボヤ騒ぎや不可解な引っ越しが相次いでいるにもかかわらず、聞き込みを行うと誰もが口を揃えて彼女を称賛するのだという。


「彼女は最高の隣人です」

「いつも助けられています」


まるで、そう言うようにプログラムされているかのように。

私はその異様な「善意」の正体を突き止めるべく、まずは佐伯美和子の部屋の隣に住む、三十代の主婦・川本さん(仮名)に接触を試みた。


彼女は当初、取材を頑なに拒否していたが、「佐伯さんを糾弾する記事ではなく、地域のコミュニティについての好意的な記事を書きたい」という私の嘘の提案に、ようやく重い口を開いてくれた。

ただし、場所はマンションではなく、駅前のファミリーレストランを指定された。


平日の午後二時。店内はランチタイムを過ぎて閑散としていた。

現れた川本さんは、小柄で大人しそうな女性だった。目の下に薄く隈があり、指先は常にドリンクバーのアイスコーヒーのグラスをいじっている。


「それで、佐伯さんのことですよね」


彼女は周囲を一度見回してから、小さな声で話し始めた。


「佐伯さんは、本当に……本当に良い方なんです。お料理が上手で、気配りも完璧で。このマンションの自治会の役員も率先して引き受けてくださっていて、みんな頭が上がらないというか」


「素晴らしいですね。具体的にお付き合いはあるんですか?」


「ええ、よくお料理をお裾分けしていただくんです。佐伯さん、作りすぎちゃったからって。肉じゃがとか、ハンバーグとか、煮物とか。週に三回くらいでしょうか」


週に三回。隣人関係としては少し頻度が高い気がするが、親密な関係ならあり得なくはない。


「それは助かりますね。夕食の支度が楽になる」


私が相槌を打つと、川本さんは曖昧に笑った。目が笑っていない。


「……ええ、助かります。ただ、その、佐伯さんのお宅、すごく良い食材を使っていらっしゃるみたいで。タッパーに入って渡されるんですけど、その日のうちに食べて、その日のうちに容器を洗ってお返ししなきゃいけないんです」


「それは佐伯さんからの要望で?」


「いえ、言葉にはされません。でも、そうしないと……なんていうか、心配されるんです。『お口に合いませんでしたか?』って。翌日の朝にゴミ出しでお会いした時に、すごく悲しそうな顔をされるので」


川本さんの指が、グラスの水滴を神経質になぞる。


「だから、どんなにお腹がいっぱいでも、子供が食べたがらなくても、必ずその日のうちに全部食べるようにしています。夫にも無理を言って食べてもらって。それが、このマンションでの……いえ、佐伯さんとのお付き合いのマナーですから」


ここまでは、少しお節介な隣人の話として聞ける。だが、次の言葉で空気が変わった。


「感想も、ちゃんと伝えないといけないんです。ただ『美味しかったです』じゃ駄目なんです。隠し味に何を使っていたか、お肉の柔らかさがどうだったか、具体的に言わないと、佐伯さん、納得してくれなくて。『本当は捨てちゃったんじゃないの?』って顔で、じっと目を見てくるんです」


「捨てた、と疑われたことがあるんですか?」


「……一度だけ。子供が熱を出して、どうしても食べきれなかった時に、生ゴミとして捨てたことがありました。もちろん、新聞紙にくるんで、見えないようにして」


川本さんは声を潜め、テーブルに身を乗り出した。


「次の日、佐伯さんに言われたんです。『昨日の筑前煮、人参が少し硬かったかしら? ごめんなさいね、〇〇ちゃん(川本さんの子供の名前)、人参残しちゃって』って」


背筋に冷たいものが走った。

なぜ、捨てたものを知っているのか。


「ゴミ袋を見た、ということですか?」


「わかりません。でも、このマンションのゴミ捨て場は鍵付きで、当番制で管理しています。佐伯さんは管理人さんとも仲が良いので……。それ以来、怖くて。絶対に捨てられないんです。何があっても、食べなきゃいけないんです」


川本さんの呼吸が少し荒くなっているのがわかった。

彼女は「善意」という名の檻に閉じ込められている。私は核心に触れる質問を投げかけた。


「佐伯さんの料理、味はどうなんですか? 美味しいんですよね?」


川本さんは視線を落とし、長い沈黙の後、震える声で答えた。


「……基本的には、美味しいです。でも、時々……変な味がすることがあります」


「変な味?」


「酸っぱいような、苦いような。あるいは、ジャリッとするような何かが混ざっている時が。昨日頂いたシチューもそうでした。洗剤みたいな匂いがして、口に入れた瞬間、舌が痺れるような感覚があって」


私は思わずメモを取る手を止めた。


「それは、さすがに食べていないですよね?」


私の問いに、川本さんは虚ろな目で私を見つめ返した。


「食べましたよ」


「え?」


「食べました。全部。夫には内緒で、私が全部。だって、捨てたらバレるから。バレたら、次はどんなお裾分けが来るかわからないから。だから、流し込みました」


彼女は自身の腹部をさすった。その顔色は土気色に見える。


「佐伯さんはね、悪気はないんです。ただ、自分の料理を食べてくれる人が好きなだけ。私たちが喜んで受け取れば、彼女は『良い人』でいられる。このマンションで平和に暮らすためには、誰かが彼女の『善意』を受け止めなきゃいけないんです。それが、たまたま隣の部屋だった私というだけで」


彼女は腕時計を見た。午後三時を回ろうとしている。


「すみません、そろそろ行かないと。四時頃には佐伯さんが買い物から帰ってくるんです。その前に、昨日のシチューのタッパーを返しに行かないと。綺麗に洗って、感謝の手紙を添えて」


川本さんは逃げるように席を立った。

去り際に、彼女は私に向かってこう言った。


「記者さん、あの方を取材しても無駄ですよ。誰も本当のことなんて言いません。言えるわけがない。だって、私たちはこれからもあの人の隣で生きていかなきゃいけないんですから」


彼女の後ろ姿を見送りながら、私はレコーダーの停止ボタンを押した。

日常の風景の中に潜む、粘着質な狂気。

佐伯美和子という女性は、単なるお節介焼きなのか、それとも。


私は会計を済ませ、再びマンションの方角を見た。

外は晴れているはずなのに、そのマンションの上空だけ、澱んだ雲がかかっているように見えた。


取材メモ:

川本さんの証言には、強迫観念に近い恐怖が見て取れた。

しかし、彼女の話には一つだけ不可解な点がある。

彼女は「ゴミ袋の中身を見られた」と確信していたが、通常、他人の出したゴミ袋をそこまで詳細に検分する時間が、主婦にあるだろうか?

もしかすると、佐伯美和子の監視網は、ゴミ捨て場だけではないのかもしれない。


そして、彼女が口にした「洗剤のような味」のシチュー。

もしそれが本当なら、佐伯美和子は知っていてそれを渡したのか。

それとも、彼女自身の味覚が既に破綻しているのか。


どちらにせよ、私はまだ入口に立ったに過ぎない。

次に話を聞くべきは、このマンションの「管理」を担っている人物だ。

佐伯美和子の異常な行動を、なぜ周囲が黙認しているのか。そのヒントは共有スペースにあるような気がしてならない。


(第1話 完)

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