第3話
夏休みが始まった。ウキウキで過ごしたいのに、現実はそうもいかない。
勉強机の上に鎮座している課題プリントは、エベレストのように山積みになっている。
このおぞましい課題の多さは進学校だから? これがあと三年も続くかと思うと、流石に頭が痛くなる。
そもそも「宿題の必要性」について議論するべきだと思う。……いくら論理的に繕っても、結局はやりたくないに尽きるんだけど。
あれこれ考えても仕方がないので、課題の内容も見ずに通学鞄の中へ詰め込んだ。
「行ってきます」
家を出る前に両親の遺影の前で手を合わせる。
妹はもう部活に出かけているし、叔母の真弓さんは昼過ぎまで起きてこないだろう。リビングにはウイスキーの空き瓶が転がっていたから。
マンションから高校までは歩いて十五分程度。
防潮堤を横目に海岸線を歩いていく。潮風があっても七月末の暑さは過酷だった。夏休みなのに近くの公園には誰もおらず、黒い野良猫だけがベンチの下でだらんと伸びている。小学生の頃はここでラジオ体操をした気がするが、最近は音すら聞こえないから無くなってしまったのだろうか。
いつも満杯の自転車置き場には、錆びた自転車が数台だけ停まっていた。正門をくぐっても騒がしい声は聞こえてこない。人気がない学校というのも違和感がある。
閉まっている事務室に、薄暗いホール。換気されていないためか生暖かく淀んだ空気。窓越しに見える校庭ですら誰もおらず、運動部も休みの様だった。
そんな非日常感に少しワクワクしながら四階へ上がっていく。
まぁ、やることはいつもと変わらないんだけど。
廊下の突き当たりにある空き教室。少し古びた引き戸を開けると、冷たい空気が足元を心地よく包んできた。
教室の中央に置かれた一つの長机。そこでは松永が文庫本を広げていた。彼女の正面にはアボカドコーラなる奇怪な缶ジュースが置かれている。
「悪い、少し遅れた」
「気にしないでくれ。そもそも志和には来る義務もないからね。文芸部の活動実績を作りたいだけだから、ボクひとりでも問題はないんだ。付き合わせているのはボクの方だ」
「そう言ってくれると助かる」
松永の正面に座るのも気まずいし、真横というのも距離感が近い気がする。したがって俺の定位置は松永の斜め前だ。
汗をボディーシートで拭き一息つくと、課題と自販機で買ったペットボトルのコーヒーを取り出した。
「相も変わらず志和は真面目だな。初日から課題に手をつけるなんて。それが好成績の秘訣か?」
「これが勤勉だったら良いんだけどな。他にやることが無いからやってるだけだし。褒められたもんじゃないだろ? それに松永が好成績とか言わないでくれ」
俺がそう言うと、松永は悪気など一切ないように首を傾げる。
「それはどうしてだ?」
「……俺より頭が良いのに、好成績と言われると嫌味に聞こえるから」
中間考査も期末考査も。廊下に張り出される順位では上位にいた気がする。
「そんな事を言っても、ボクが出来るのは文系だけだぞ?」
それで成績上位にいるのはどういう事だよ。
「――そうだ、ボクから提案……というかお願いがあるんだが」
松永は文庫本の厚い装丁を手でなぞっていた。
彼女が自分から提案するなんて珍しい。
「志和が良かったらなんだが、今度ボクに数学を教えて欲しいんだ。駅前に喫茶店があるだろう? 前に入ったら存外良い雰囲気でね。その……どうだろうか」
俺が松永に教えられることがあるかは疑問。
でも、どうせ暇だし、せっかく数少ない友人が誘ってくれたんだ。断ることも無いだろう。
「別にいいよ。どうせ夏休み中はバイト以外の予定もないから」
俺の答えを聞くなり、松永は口元をほころばせにこやかに笑った。
「そうか、それは良かった。日にちについてはまた連絡するよ」
どうも調子が狂う。いつもは小馬鹿にイジってくるのに、そう素直さを出されると、どうして良いのか分からなくなる。
あまり意識したことは無かったが、黙っていれば顔は整っているし、纏っている雰囲気も落ち着いている。
ずっと素直なままだったら、もっと可愛いんだけどな。
「あ~……でも」
松永は目線を上へとずらす。
「なんだ?」
「志和に喫茶店は似合わないと思ってね。どうする? サイ○リヤにでもしておくか?」
前言撤回。やかましいが過ぎるだろ。何だコイツは。
「何言ってるんだよ……ここら辺にサ○ゼは無いだろ?」
松永はフフッと嘲るように笑った。
「似合わないことは否定しないんだな」
松永には辞書の『可愛げ』のページを見せてやりたい。でも「志和はこれだな」とか言って『可哀想』を指さしてくるところまで読めてしまった。俺の脳内までやかましい。
その後は会話が弾むことは無かった。教室は本をめくる音と、ペンが走る音だけが響いていた。無言でも気まずくない関係は気楽で良い。というより、お互いに話題が無いだけなんだけど。
無理に会話すると「最近、野菜高いよな」とか「昨日作ったナスの揚げびたしがさ~」くらいしかネタがない。俺の会話レパートリーが主婦すぎる。
なるほど、確かに喫茶店は少し似合わないかもな。スーパーの前にあるベンチくらいでちょうどいいらしい。
日が傾き教室が赤く染まった頃。
着信音と共にスマホに『
松永の方を伺うと、本を見たまま「どうぞ」と返答が来た。
「どうも」
面倒な予感がしながら電話を取ると、叔母の声は早口で焦っていた。
『透君、ちょっとお願いがあるんだけど、今大丈夫?』
松永に続いて真弓さんもか。今日はやたらと頼まれる日だな。
二つ返事で承諾すると碌な目に合わない事は知っている。まずは用事の内容を聞かなくては。
「要件は?」
『南乃花ちゃんの着替えを
なるほど、そう来たか。
結論から話すと混乱することもあるらしい。
「あ~……何があったの?」
『南乃花ちゃんが部活中に怪我しちゃって、
「ん~……。ん?」
早口言葉かな?
分かったのは部活で怪我をしたことだけ。それなりに大事と思ったが、電話の奥から『そんな大したことじゃないから落ち着いて』と妹の声が聞こえてくる。
「要するに南乃花が入院するってことか。それで着替えが必要と」
『そうなの! 私が家まで行けたら良かったんだけど、一回職場に戻らなきゃいけなくて。あのクソ上司が本当にさ』
真弓さんの声色が酷く冷たくなる。
危うく地雷を踏みぬくところだった。さっさと話を戻そう。
「分かった。着替えは何日分?」
『そうね……。遠出の時に使ってるバッグあるでしょ? 黒いやつ。とりあえずアレに入るだけ持ってきて欲しいの』
となると自転車で運ぶのは厳しそうだ。両手で抱えるほどの大きさだからカゴに入るわけが無い。歩きで彩雪病院まで行くとなると……結構遠いな。
「分かった。いま学校だから時間かかると思うけど」
『ありがとう~! 本当にごめんね。私が行ければ良いんだけど』
「良いって別に」
電話を切るとため息がでた。
これが身内からの頼みでなければ、適当にあしらっていたのに。
「何かあったのか? あまり良い話では無いようだが」
「妹が怪我して病院にいるらしい。入院するから着替えをもってこい、だとさ」
松永は本から目をあげる。
「……それは大事だね。大丈夫なのかい?」
「南乃花は大したことないってさ」
「そうか……。志和妹にお大事にと伝えてくれ。部室の鍵はボクが返しておくから、気にしないで大丈夫だ」
机に広げた問題集を鞄にしまっていく。
「悪いな。今度埋め合わせるから」
「別に良いさ。いや……そうしたら勉強会が埋め合わせという事にしよう。これでお相子だ」
松永は名刺サイズの紙を出してきた。表紙にはコーヒーカップが描かれており、裏面は簡単なメニューが載っている。問題集の中にそれを挟み込み、鞄にしまった。
「じゃあ、そういう事で頼む。悪いな」
「あぁ、また今度」
夕方なのに外はまだ暑かった。家から病院まで二十分はあろうかという道のりを歩いていった。冬ならまだしも、これからは二度と歩きでは向かいたくない。お見舞いに行くはずが、熱中症になる。
……後で知ったのだが、駅から出ている無料のシャトルバスがあるらしい。地元民が知らないバスって何だよ。
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