地獄の天使〜自称無辜の罪人は救済を求める〜

蓬田律

第1話

 私は死んだ。


「……まじかぁ」


 夫が浮気をしていた。私が買い物に出かけた隙に、若い女を連れ込んでよろしくしていた。問い詰めようとしたら、夫に突き飛ばされて、運悪く後ろにあった斧に頭をぶつけた。でも、私だってそんなに大人しく死ねない。死んでやりたくない。だから、酒瓶を投げつけてやった。ざまあみろ、町娘だからって、馬鹿にしてんじゃねーよ。クソ野郎……──。


 目が覚めたら、暗くて寒くて、何も無い場所に居た。


「なに、ここ……」


「目を覚ましましたか。貴方は殺人の罪で、地獄へと落ちます。異論はありませんね?」


 とても美しい純白の、いわゆる天使と呼ばれる存在が、そこには在った。その天使は、3対の羽と体に3つの目をもつ、最上位の天使・セラフィム。私が、声を発するよりも先に、地面が崩れ落ちた。そして、再び意識が飛んだ。


 ふと意識が戻った時、私は地獄に居た。地獄がどんなところかなんて、見たことの無い私でもわかるほどに、そこは地獄だった。空は赤く、大地は黒く、空気は淀んで、人々は飢えていた。


「そこの、おんなぁ……金目のモノ、全部ヨコセ!!」


「いっ、いやあああああ!!」


 私は走って走って走って逃げた。地獄の大地は、とにかくでこぼこで何度も転びそうになった。でも、ここで転んだら絶対に貪り食われる。そう思った私はもつれそうになる足を、必死で動かした。


「もう、無理っ……!」


 息が上がる。燃え盛る地獄の空気を吸い込む度に、喉と肺が焼けるように痛む。周りに誰もいないことを確認して、私はその場にしゃがみ込んだ。


「ねえ、大丈夫……?」


 その時、私は誰かに声をかけられた。少しの恐怖心を抱きながら顔を上げると、そこには燃えるように真っ赤な髪の女の子がいた。


「だ、大丈夫。心配してくれて、ありがとう、

はぁ、えっと……」


「あたしはイレガ。少し前からこの地獄に住んでるの。貴方、新入りよね? とりあえず、よろしく。そうだ、名前は?」


 イレガは地獄には似合わない穏やかな笑顔でそう言った。しっかりと会話が成立し、朗らかに笑うイレガの姿に私の恐怖心は少しずつ薄れていった。


 ゴーン、ゴーン、ゴーン──。


 教会で聞くような厳かな鐘の音が、荒れ果てた地獄の大地に響き渡った。イレガはそれを聞くと、慌てて立ち上がった。


「嘘、もうそんな時間なの!? どうしよう……と、とりあえずあたしについて来て!」


「え? う、うん。分かった」


 言い終わるやいなやイレガは、脇目も振らずに走り出した。私はイレガに置いていかれないように、急いで後を追った。


 暫く走り続けて、イレガはようやく立ち止まった。私たちの目の前には真っ黒で大きな教会が建っていた。教会の前には、多くの人々が列を成している。


「す、すごい人の数……ここは一体なんなの……?」


「あー、良かった。間に合った……。ごめん、今説明するね。ここは天使様の教会なの。天使様はね、罪人のあたしたちを唯一、許してくださるの」


 教会をじっと見上げるイレガは、どこか廃退的な雰囲気を纏っている。私がイレガに声をかけようとしたその時、教会全体が眩い光を帯びた。イレガも、周りの人々も地に頭をつけ、微動打にしなくなった。


「え、なに? なんなの!?」


「ちょ!? 早く頭下げて!! 天使様がいらっしゃるの!」


「うわぁ!?」


 平伏していたはずのイレガが顔を上げ、私の頭を掴んで下げた。あまりの勢いに、私は額を地面に強く打ちつけてしまった。しばらくの間そうしていると、無風だったこの場所に強い風が吹き付けだした。風の吹く音の中にバタバタと布がはためく音が混ざっている。


「面を上げなさい。わたくしが許可します」


 凛とした女性の声が、私の耳に届いた。瞬間、風がやんだ。イレガが顔を上げるのが横目に見えて、私もそれに習って顔を上げた。


「貴方の罪を告白しなさい。貴女方の罪は、わたくしが全て、受け入れましょう。さあ、貴方の罪は?」


 私の隣にイレガのいう天使様が居た。艶やかな黒髪にスラリと高い身長、純白のワンピースに黒いヴェールを纏ったその姿は、確かに天使のように美しかった。しかし、ワンピースに浮かび上がる赤黒い3つの目と、裾に付着した何時のものか分からないどす黒い血痕が、それを否定していた。


「あたしの、罪は……違法ドラッグを使ったこと、です。人生の苦しさから、逃れるために、あたしは、モルヒネを……」


「貴方の罪はわたくしが全て受け入れます。そして、許しましょう。もうなんの心配も要りません。ほら、わたくしの目を見て……」


 天使様を前にして、イレガは震える声で自身の罪を告白した。天使様は慈愛に満ちた笑みを浮かべて、イレガの頬を撫でた。


「ああ……天使様。心の底から、お慕い申し上げます」


「イレ、ガ……?」


 恍惚として天使様を見つめるイレガに恐怖を感じて、私は思わず名前を呼んだ。


「見ない顔ですね。貴方、名前は?」


「! ……っ」


 答えられなかった。イレガの様子がおかしいのは、きっと天使様の力のせい。名前どころか声を聞かれただけでも、私もイレガのようになってしまうのではないかと、恐ろしかった。


「ああ。いえ、大丈夫です。貴方の名前は今から『フロー』です。よろしいですね?」


「え、あ……はい。天使様」


 私が何も言えないでいると、隣に居たイレガに顔を上げさせられた。そして目が合ってしまった。私と天使様の目が。


「いい子ですね。フロー、こちらにおいでなさい」


「はい。天使様」


 何も起こらなかった。今だって私は自分の意思で天使様の元へ行ったのだから。天使様は、恐る恐る近づいた私の頭を、撫でてくださった。


「本当にいい子ですね、フロー。……ああ、可哀想に。貴方は何も悪くないのに、地獄へと落とされてしまったのですね……。フロー、わたくしの教会にいらっしゃい」


「え?」


 私は天使様のヴェールに包み込まれた。頭がぼうっとして、体がふわふわと浮いている。まるで、空を飛んでいるかのようだった。なんで私は、天使様を怖いだなんて思ったんだろう……。こんなにも美しくて、優しい人なのに。


「……きて、起きてください。フロー」


「あれ、ここは……」


 目が覚めると、天使様が私を覗き込んでいた。


「天使、様?」


「おはようございますフロー、ここがわたくしの教会です。そして、ここが貴方の部屋です」


 天使様の神でさえも羨むような、美しい顏を前に、私は思わず後ずさった。当然のようにあると思っていた床は無く、私は頭から落ちた。


「きゃあ!?」


「フロー! 大丈夫? どうしたのですか? 急に後ろに下がったして……」


 床にぶつけた頭をさすりながら体を起こした私の目に入ったのは、天幕のついた大きなベッドだった。隣を見ると、天使様が私に手を差し伸べてくれていた。


「あ、ありがとうございます。天使様」


「天使様だなんて……貴方もこの教会に住むのですから、他人行儀な呼び方はやめましょう」


「え、で、ではなんとお呼びすれば……」


 天使様が私をベッドに戻してそう言った。私が戸惑っていると、天使様が優しく抱きしめてくれた。


「わたくしはサング・クレデリー。これからは、サングとお呼びなさい」


「はい、サング様」


 夢見心地だった。天使様のお名前を私ごときが知ることが出来るだなんて、これ以上の幸せは無いと思っていた。


「フロー、わたくしはこれから仕事なので、暫くここにはいません。この教会は好きに見て回っていいです。でも、廊下の1番奥の部屋だけは、入ってはいけません。いいですね?」


「はい、分かりました」


 私がベッドの上でこくこくと頷くと、サング様は満足そうに笑って部屋から出て行った。


「……暇だ」


 サング様が居なくなると喋る人がいない。窓の外を眺めても、目に入るのは荒れ果てた土地ばかりで、私は見るのを辞めた。暇を持て余した私は、教会を見て回ることにした。


「礼拝室とかは、現世のものと同じ……特に変わったものは無いのか」


 何か面白いものはないかと、しばらく教会の中を歩き回っていたが、教会の造りは現世のものと大差なかった。違いを強いて挙げるならば、壁も床も天井も真っ黒なことくらいだ。


「あの部屋って……」


 サング様が入るなと仰った部屋だ。人間というのは、止められれば止められるほどやりたくなってしまう生き物だ。悪い事だと分かっていながらも、好奇心を抑えられず、私はドアノブに手をかけた。


「……あれ、? 何も、ない」


 部屋の中は真っ暗で、何も無かった。サング様がああいうからには、何かしらあるだろうと思っていた私の目論見は、大いに外れた。


「あれー? 君、こんな所で何してるの? そこはクレーのお部屋だよぉ。入っちゃダメって、言われなかった?」


「だっ、誰!?」


 私が驚いて振り返ると、犬の耳と尻尾が生えた少女が、にっこりと笑っていた。


「あたちはドッグ・ザ・ヘッド。クレーからはドグシーって呼ばれてる。よろしくね、生首さん!」


「え? 生首?」


 ドグシーが、チェンソーを構えて笑っている。私の記憶はそこで途切れている。




「金髪に真っ青のキレーな瞳……これだけでもイタリアで死んだ甲斐が有るわ!」


 ドグシーが血溜まりの中で、服や髪を赤く染めながら、フローの生首を撫で、髪を梳いている。


「また教会をこんなに汚して……! ちゃんと片付けておきなさい!」


「はーい!」


 そこに帰ってきたサングは、呆れたようにそう言うと、さっさと奥へ行ってしまった。


「地獄に天使なんて、居るはずないのにね。ほぅら、これであなたも寂しくないわ。ずぅっといっしょよ」


 ずらりと並べられた生首たちの隣に、フローの生首が置かれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

地獄の天使〜自称無辜の罪人は救済を求める〜 蓬田律 @Harumiti17

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画