オーダーメイド
中安・ユージーン・風真
序章 Order:紅に射す光
とある社会人の楽しみ
都心のビル風が吹き抜ける、狭苦しい広場。
味は悪くない。だが、彼にとって昼食は、午後を乗り切るための燃料補給でしかなかった。
「……あと、五時間か」
独り言と共に、彼は雑踏を見上げる。
周囲を行き交うサラリーマンたちは死んだ魚のような目をしているが、彼の瞳には暗い熱が宿っていた。彼には、帰らなければならない場所がある。
定時退社のアラームと同時に、彼は誰よりも早くオフィスを後にした。
かつての職場であれば、ここから深夜までの残業が常だった。年収は当時の三分の一以下になったが、構わない。
金なら、一生遊んで暮らせるだけ稼いだ。今の彼に必要なのは、地位でも名誉でもなく、時間だ。
防音・防振を完璧に施したタワーマンションの一室。重厚なドアを閉ざし、猥雑な外界を遮断すると、ようやく彼は本来の自分を取り戻す。
書斎には、専門書が一冊もない。代わりにあるのは、壁一面に吊るされた幾何学模様のプリントアウトだ。
彼は慣れた手つきでパソコンを起動し、幾重ものセキュリティを突破して、自作のアプリケーションを立ち上げた。
「昨日の仮説だと、ここの角度が……」
画面上の図形を0.1ミリ単位で修正し、印刷にかける。プリンターから吐き出される、鼻をつくオゾンの匂い。
特殊インクで刷られたその紙をピンセットで摘み上げ、息を呑んで指先を触れさせた。
──ボッ。
紙の中心から、頼りない灯火のような炎が浮かび上がる。
魔法陣。
この世の物理法則を嘲笑うかのような超常現象を前に、しかし彼は舌打ちをした。
「……チッ。思ったよりも小さい」
彼は冷めた目で、アプリ上のファイル名に『11×3mm』と打ち込む。 なぜだ。数ミリの線分のズレで、なぜ火力がこうも変わる? 思考の海へ沈んでいく。この瞬間こそが、彼にとって至上の快楽だった。
「……あ、もうこんな時間か」
しかしその没頭も、画面右下に表示された「23:47」という数字によって中断される。 パソコンの電源を落とし、机の上を整え、書斎に鍵をかけて寝室へと向かう。
ベッドの脇に置かれた小さな冷蔵庫から水を一本取り出し、乾いた喉を潤す。 ここにあるのは、彼の最後の楽しみだ。 彼は大きなベッドへ身を投げるように倒れ込み、すぐに目を閉じた。
「──お疲れ様。今日は早かったわね」
意識がまどろみの底へ落ちると、いつもの声が響いた。 視界の悪い、濃霧のような白い空間。
そこに佇むシルエットだけの彼女に向けて、ハジメは開口一番に愚痴をこぼす。
「行き詰まってるよ。魔法陣の出力係数は、物理的な距離以外にも変数があるはずなんだ」
「またその話? こっちの世界じゃ、それは禁忌だって言ってるでしょ」
呆れたように返す彼女に対し、ハジメは肩をすくめた。
夢の中の女神。物心ついた頃から彼の夢に現れる、正体不明の話し相手だ。
「ケチだなあ。少しはヒントをくれてもいいだろ?」
「お生憎様。私は気まぐれな女神なの」
いつもの軽口。いつもの平穏。 だが、今日の彼女はどこか違っていた。
「……さて、と。このままいつもみたいに雑談をしてもいいんだけど」
「ん?」
これまで彼女は専ら聞き役で、自分から何かを話すことは少なかった。 今までにない話題の切り出し方。そして、声音に微かに滲む緊張の色。 彼は初めて、この空間に違和感を覚える。
「……単刀直入に言うわね」
「うん」
「今夜、あなたには死んでもらうわ」
「……は?」
突然の死刑宣告。 思考が追いつかない彼をよそに、彼女は事務的に、しかし早口で言葉を紡ぐ。
「そして、別の世界で生を受けてもらう。つまり、転生ね」
「いや、ちょっと待っ──」
「転生先は、剣と魔法が支配する世界よ。そこなら、あなたの望む研究も思う存分できるはず」
「そんな、なんで急に──」
「それじゃあ、行ってらっしゃい」
同意など求めていないと言わんばかりに、彼女は御業を行使する。 世界が崩れ落ちていく。
「──ごめん……なさい──」
消えゆく感覚の中、掠れた謝罪の言葉だけが、彼の魂に届いた。
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