追放王女ヴィクトリアの帰還

清水 実行

序章

王女の追放

 王の間の玉座に、十八歳にして王位を継いだばかりの一つ上の兄、エドマンドは座っていない。空の玉座の隣には、昨年夏に身罷った父王アゼルスタンの妃であり、今は摂政として国政を取り仕切っている母、エマが立っている。


 豪奢なドレスに身を包み、キラキラと光る髪飾りをあしらった長い栗色の髪と、青みがかった黒い瞳。齢を重ねて尚も変わらぬ美しさと評判のその顔は、完全に勝ち誇っていた。


 対してその向かい、一段低い御前に跪いて顔を俯けている一人の少女。背中まで届く長い金髪と、膝丈の囚人用ドレスから伸びた白い手足は牢の埃に汚れ、それでも海のように深い青と新緑の森を思わせる緑色をした色違いの左右の瞳は、力強い輝きを放っている。


 美しさにおいては彼女も負けていなかった。だが、置かれた立場においては完全に決着がついていた。


「王女ヴィクトリア。そなたを川向うの地への国外追放と処す」


 摂政の下した裁きに場が騒然となる。


「なんと、セヴァン川の先とは――」

「まさか、それほどに姫様を――」

「いかに摂政殿といえ、これはいささか――」


 ざわざわと騒ぎ立てる王宮の重臣たち。ヴィクトリアは彼らに視線を巡らせつつ、ひっそりとため息をついた。


 無理もない反応だろうとは思う。

 大陸の南部を東西に分かつ大河、セヴァン川。その向こう岸には、およそ五百年前、魔王と呼ばれるものに率いられ、東側へ侵攻してきた亜人たちが住んでいると言われている。


「……となれば、姫様は事実上の極刑……無体なことを。それではあの女と――」

「……しっ、よせ。摂政殿に聞かれてはまずい……」


 思わず口走ったことを悔やむように重臣たちは口を噤み、目を伏せた。誰も摂政に逆らうつもりなどない。事実上、国のすべてを差配するのは兄王ではなく彼女だからだ。この裁判の場にはそんな摂政に右に倣えの重臣しか集められていないのを、ヴィクトリアは知っている。


 ここに味方は誰一人いない。それでも、ヴィクトリアは毅然と顔を上げた。


「お待ちください、母う――摂政殿。我が祖が定めた『不可侵の法』をお忘れですか?」


 その言葉に、王の間が水を打ったような静けさに包まれる。


 不可侵の法。それは決して彼の地に踏み入らぬよう定められた、このアシリング王国の鉄則。定めたのは、後に勇者と称された王国の開祖アルフレッド・アシリングだ。


 勇者は魔王を討ち果たすと、一生涯をかけてセヴァン川流域に壁を作り上げた。すべてを拒絶するように高く、強固な石造りの壁。その存在が故に、川を挟んだ東西は今も隔絶されたまま、平和が維持されている。それはこの国において、赤ん坊でさえも聞かされる英雄譚である。


「あなたなどに言われずとも存じています」


 エマは小さく鼻を鳴らし、冷たい目でヴィクトリアを見下ろす。


「なればこそ、あなたの罪がいかに重いか理解できましょう?」


「私は兄様を……陛下を排斥しようなどと、考えたことさえありません」


 エドマンドがこの場にいないのは、病を得て伏せっているからだと言われている。その病というのが緩やかな毒によるものであり、その毒をもって兄を殺そうとしたのがヴィクトリアである――という体でこの裁判は開かれている。


 もちろん、ヴィクトリアは身に覚えがない。毒を売ったという商人も、その証文にヴィクトリアの筆跡によるサインがあることも、ヴィクトリアの命で兄の食事に毒を盛ったという使用人の女も、一つとして心当たりがない。


 しかも、突如に捕らえられてこうして裁判に至り、刑が確定するまでわずか一日だ。異例の速さはすなわち、この件の裏に後ろ暗いなにかがあると考えるべきだろう。


「見苦しい。確たる証は出揃っている。本当に残念だけれど酌量の余地はありません」


 エマの目はおよそ母親が娘に向けるものではなく、明らかな敵意に満ち満ちている。本当に残念などとよくぞ言えたものだと、ヴィクトリアは顔を俯けて舌打ちをした。


 怒り、そして諦め。身を焦がすような激情と、氷のような平静と。相反した二つの感情が胸に去来し、ヴィクトリアにある確信を抱かせる。


――ああ、やはりこれはあなたの絵図なのですね、母上……いえ、摂政エマ。


「裁判は以上。明日、速やかに実行を。諸将はすぐに公務へ戻るように」


 エマはそこでため息とともに言葉を切り、逡巡するような間の後、わざとらしく沈痛な面持ちで先を続ける。


「ヴィクトリア。あなたが妾腹の子であることは事実。しかし私はあなたを陛下と等しく、娘として期待を込めて接してきたつもりです」


 空虚な言葉だった。それが事実でないことなど王宮中の誰もが知っている。

 だから、ヴィクトリアも仮初の言葉を返す。これまでずっと、そうしてきたように。


「もったいないお言葉にございます、母上」


 皮肉を込めて母上を強調すると、エマの片方の眉がぴくりと上がった。しかし、すぐに涼しい顔に戻る。そして小さく、周囲には聞こえない程度の声で、呟く。


「……卑しい使用人の子が……」


 唇を読みながらヴィクトリアは聞こえよがしに鼻を鳴らした。


 ヴィクトリアとエマの間に血の繋がりはない。ヴィクトリアの産みの母はホルザという名の使用人だったという話で、彼女はヴィクトリアを産み落とした後、遠い異国に追放されたらしい。先の重臣の発言はこれを受けてのものなのだろう。


 もっとも、それが真実かどうかは分からない。誰も口にしない。いずれにせよ――


 卑しい使用人の子。王の不義の子。

 宮中のヴィクトリアの肩書には、王女である以上にそれが付きまとうということ。


 ヴィクトリアはエマから母としての愛情を感じたことはなく、むしろ成長するにつれ嫌悪から憎悪へと変貌していったようにさえ感じていた、ということ。


 これは厳然たる事実だった。


――母上、どうして、あなたはそんなにも私のことが憎いの? あなたの腹から生まれ出でなかったことが、私の罪だとでもいうの?


 物心ついて以来、ヴィクトリアはずっと心の中でエマに問い続けてきた。そして、その答えはこの日、この場所に出た。


 罪なのだ。エマにとってヴィクトリアの存在そのものが、あってはならないものなのだ。


 ヴィクトリアの心に虚しさが込み上げる。そして、エマがたまらなく憐れだった。


――私をこの世界から消し去るために、人を使い、あらぬ罪を作り、真実を曲げる。あなたはそこまでするのね。それほどにあなたは私のことが……


 ならば、別に構わない。むしろせいせいするというものだ。


「連れて行きなさい。速やかに。猿ぐつわを忘れずにね。魔法を使われたら困りますから」


 エマが手をかざし、それによって近衛たちはヴィクトリアの両腕を掴んだ。


「……失礼を」


 近衛の一人がヴィクトリアの口に猿ぐつわを噛ませてくる。冷たい布の味に眉をしかめつつ、ヴィクトリアは立ち上がった。そして、じっと睨みつけてやると、近衛たちは手を放し、気圧されたように後ずさる。


――自分で歩くわ。心配しなくても逃げたりしないから。


 もはや昔語りでしか知ることのない亜人たちの土地。人間など一人もいない土地に放り出されるとなれば、なるほど事実上の極刑には違いない。それでも。


――関係ない。未練もない。どこでだって……私は生き抜いてみせる。


 ヴィクトリアは踵を返し、堂々と胸を張って、自らの足で王の間を出た。


 この時、ヴィクトリアは知らなかった。誰も知りようがなかった。

 この追放がアシリング王国を、この大陸の有り様を変える、その契機になったことを。

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