第23話 それは遺志であり意志である
海はまだ荒れていた。
しかし先ほどまでの狂気は少し薄れていた。
アレンが涙を拭って顔を上げると、
夜華が静かに周囲を見渡した。
「……潮の流れが変わったな。鈴の声が、誰かの恐怖を和らげた」
アレンも頷く。
「うん。鈴ちゃんが声を拾ったおかげで……沈んでる子が、ほんの少し生に引き戻されたんだと思う」
鈴は胸に手を当てた。
(……まだ呼んでる。私を……)
霧の白い膜が、海面一帯を覆っている。
波の底からちいさな、ひどく弱々しい声が鈴を呼ぶ。
――……ずず……ちゃ……ん……
震えている。
怯えている。
でも確かに、鈴を、誰かを待っている。
鈴はそっと顔を上げた。
「アレンさん……夜華……もう1回!」
夜華は目を細め、鈴の背に手を添えた。
「気をつけろ。あの呼び声は『助けて』と同じくらい、『連れて行きたい』って願いでもある」
アレンも舟のへりに手を置き、まっすぐ鈴を見た。
「僕と大将が支えるから。鈴ちゃんは名前を呼んであげて」
「名前……」
鈴は目を閉じ、波の音の奥
――少女の声を探した。
(……あなたの。名前……)
生きていた頃に呼ばれた。
家族が、友人が呼んだ。
自分が自分であるためのもの。
その断片が、鈴の胸にひっかかった。
――……み……お……
(……みお……?)
鈴はそっと海へ向けて囁く。
「……みお、ちゃん?」
海が、一瞬だけ静まり返った。
そして――
ちゃぷん。
波が、涙のように揺れた。
『――……っ!!』
少女の魂が、確かに反応した。
「当たりだ……!鈴ちゃん、続けて!」
アレンの声に押されるように、鈴は強く呼びかけた。
「みおちゃん!!聞こえる!!もう大丈夫!私が、私たちがいるよ……だから、こっちに来て!!」
その瞬間だった。
海底から、何か巨大なものがうごめいた。
黒い影。
冷たい気配。
無数の手のような孤独が、少女を離すまいと蠢く。
夜華が即座に鈴を抱き寄せ、低く唸った。
「……くそ。孤独の海がより深く喰らい付いてきたな」
アレンが船縁を蹴り、海面へ身を乗り出す。
「みおちゃん!!俺たちが助ける!!もうひとりじゃない、聞こえるかい!!」
海は激しく荒れ、霧が裂け――
その中心に、“少女の手”が一瞬だけ浮かんだ。
白い、冷たい、小さな手。
鈴の胸が刺されたように痛む。
(こんな小さな手で……どれだけ怖かったんだろう……)
震える指が、海をかき分けて伸びてくる。
――……す……ず……ちゃ……ん……
鈴は涙をこぼしながら、その手へ身を乗り出した。
「みおちゃん!!ここだよ!!掴んで!!」
そこへ、海底から巨大な
波の拳のようなものが飛び出した。
夜華が瞬時に鈴を庇い、牙を剥いた。
「下がれ、鈴!!!」
アレンも海へ飛び込み、蹴り上げるように影を散らす。
「クソッ……!!その子を離せって、言ってるだろッ!!」
海が悲鳴のように唸った。
少女の手が揺れる。
引き戻されそうになる。
「いや!!みおちゃん!!離れないで!!!」
鈴は必死で手を伸ばした。
指先と指先が触れた瞬間。
みおの声が、たしかにはっきりと鈴に届いた。
――……こわい……
――……たすけ、て……
鈴の瞳が揺れる。
「助けるよ!!絶対に!!」
夜華が後ろから支える。
「鈴!!手を離すな!!!」
アレンが海中で叫ぶ。
「境界が開いた!!今なら引き上げられる!!」
海が裂ける。
異界の水と現世の潮が混じり、
暗い海底に少女の姿が見えた。
長い髪が漂い、制服が破れ、
恐怖で強張った顔で涙を浮かべている少女。
鈴の心臓が止まりそうになる。
(……こんなところで……ひとりぼっちで……)
(……大丈夫だよ、みおちゃん……)
(……あなたは今日、絶対に助かる……)
鈴は限界まで手を伸ばし――
「みおちゃん!! 掴んで!!!!!」
だが――
少女の光は、ゆっくりと沈んでいく。
冷たい海が、少女を引き込もうとする。
指先が触れる。
触れたのに、掴めない。
(まただ……!また同じ……!もう誰も……失いたくないのに……!)
アレンの瞳が絶望に染まった。
「……届かない……また……っ」
「みおちゃん!!」
鈴が叫んだ時だった。
――誰かの声が、海面の向こうから届いた。
「俺の手を掴め!!」
鈴とアレンの視界に、
海の色を割るように差し込むもうひとつの影が降りてきた。
黒い影。
いや――
白い救命灯を背負った現世の青年だ。
「え……」
アレンの瞳が驚愕に揺れる。
しかしそれはほんの一瞬で、すぐに状況を把握し、指示を飛ばした。
「その下に、女の子がいる!引き上げるんだ!大丈夫、君ならできるよ」
「見つけてあげて、その子を。手を取ってあげて。君ならできるよ」
青年は迷いなく少女へ手を伸ばし、
鈴とアレンの届かなかった、最後の距離を埋めた。
その掌は、少女の細い手をがっちりと掴んだ。
水が震えた。
海が悲鳴をあげた。
――たすかった……
少女の声が小さく小さく、海に染みていく。
夜華が目を見開いた。
「現世の人間が……黄泉に干渉するなんてな……!」
アレンは震えた声で呟いた。
「まさか……現世の荒れ狂ったあの海の中を、突っ込む人間がいたとは……」
青年は少女をしっかり抱き寄せながら、
再び海の中へと消えていった。
静かな海
それは全てが終わったことを告げている。
ふと、鈴の耳に届く声。
少女の声でもない、男の声。
『俺はただのしがない保安官だった。
ただそう、憧れの人物がいる
ただの平凡な保安官だ。
俺の憧れの人というのは、はるか昔
この日本海の近くで沈んだ艦隊から
冷たい海の中、近くの無人島まで
何十何百往復をしてその数120人あまりの人間を救った
――海の英雄・アレン大佐
――俺の憧れで、目標だった。
ある時俺は巡回の最中に1隻の船を見つけた。
SOS信号を発した、レーダーに映らない幽霊船。
船員は引き返そうと言った。
でも俺はどうしてもそれを見過ごすことが出来なかった。救命用のボートをだし、独断でその船へと向かった。
するとどうだろうか。
どこからともなく聞こえる呻き声。
荒れた海の底から感じる妙な気配。
間違いない、この下に、誰かがいる。
俺はたまらず海に飛び込んだ。
――それが罠とも知らずに。
ただ、憧れの偉人を真似たかっただけの
薄っぺらい自己満足だったんだ。
「その下に、女の子がいる。引き上げるんだ。大丈夫、君ならできるよ」
不意に聞こえた青年の声。
知らないはずなのに知っている声。
「見つけてあげて。その子を。手を取ってあげて。君ならできるよ」
違う、これは自己満足なんかじゃない。
あの人の生き様を見て
あの人から継いだ
俺の意志だ。』
ああ、そういう事だったのか。
「さっきの彼、アレンさんが憧れの人……なんですって」
アレンの呼吸が止まった。
鈴は涙をにじませた目で、凪いだ海を見た。
「語り継がれたアレンさんの生き様を見て、アレンさんから継いだ、彼自身の意志だ。って」
アレンは震えた声で呟く。
「……きみ……まさか……俺の意志を……継いだって……」
鈴がアレンへと向き直り、微笑んだ。
(……やっと……アレンさんの……“救えなかった”が……)
夜華の声が静かに響いた。
「救われたな、アレン。お前の意志は死んでいなかった。」
アレンは震える手で自分の顔を覆った。
「……こんなの……反則だよ……泣くななんて……無理に決まってる……」
海が静かに引きはじめる。
海へと戻った少女と青年を守るように、
淡い光が三途へと満ちていく。
鈴は微笑みながら呟いた。
「……アレンさん。あなたの信じたかった未来……ここにあるよ。」
アレンは涙を流しながら、深く頷いた。
「……ありがとう……鈴ちゃん……」
こうして――
少女は助けられた。
アレンが届かなかった最後の意志は、
確かに彼の生き様に憧れ、継いだ青年へと継がれ
今も現世へと残り続ける。
そして海は、静かに――狐の呪いごと、波を鎮め始めた。
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