第22話 伸ばした腕は水底へ

闇に沈むはずなのに、

鈴の視界には光が差し込んだ。


(……ここ……どこ?)


耳に届くのは、激しい波と風の音。


次の瞬間――

鈴の足元に甲板が現れた。


古い木の板。

激しく揺れる船体。

怒鳴り声。

そして――銃声。


(……夢……?違う……これ、誰かの記憶……?)


背後から走り抜ける兵士たちが、

鈴の身体をすり抜けていった。


「アレン大佐!!敵弾がっ!!」


「落ち着け!!まだ沈むまでに時間はある!!」


はっとして振り向く。


そこにいたのは――

若い頃のアレンだった。


今よりも幼さの残る傷のない顔。

けれど瞳は今と変わらない。

誰かを死なせたくない、そんな想いが込められた瞳だった。


アレンが叫ぶ。


「負傷者は?!」


「後部甲板に多数!!海に投げ出された者も!!」


「全員拾う!!全員だ!!」


「で、でも大佐!!このままじゃ船が――!」


「沈んだら泳げばいい!!それより仲間を死なせるほうが俺は絶対後悔する!!」


その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。


(……これ、アレンさんの……)


轟音が轟き、船体が大きく傾いた。

兵士が次々と海へ落ちていく。


一際大きな揺れとともに船体はいとも容易く崩れ落ちた。


暗く冷たい海の中、1人早々に意識を取り戻したアレン。

鈴はその目線に引きずられるように、揺蕩う海に身を投げた。


冷たい。

深い。

息が苦しい。


けれどアレンは、苦しさを表情に出さず

必死に仲間の腕を掴み、

近くの陸へ運び、押し上げ、また潜る。


(……こんな……何十回も……)


距離だってそう近くない。

冷たい海の中、何キロと離れた離島まで何十何百往復と。


腕は震え、唇は紫色になりながらも

彼は一度も、諦めなかった。

どの命も決して見捨てなかった。


(どうして……そんなに……)


その問いの答えのように、「誰か」の声が闇の中で聞こえた。


それは自力で陸へ上がった他兵士たちの声。


――アレン大佐、戻ってください!もう限界だ!!

――大佐!もう十分だ!!あなたが死んだら意味がない!!


それでもアレンは笑って言った。


「俺ならできるって、お前ら言っただろ。信じてくれたんだ。なら――最後まで応える。それに俺は……誰1人諦めたくない。」


(……アレンさん……)


海の底で、最後の隊員の姿を見つける。


手を伸ばす。


暗い海が引きずる。


アレンはもう体力が残っていない。

それでも――必死に手を伸ばした。


(……届け……届け……!)


あと少しで指が触れる。


だが、波が――アレンを引き裂くようにさらっていった。


指先は触れたのに。

触れたのに――掴めなかった。


その瞬間、鈴の胸にアレンの“痛み”が流れ込んだ。


(……助けられなかった……)


(……もうすこし……もうすこしだったのに……)


(……ごめん……)


(……ごめん、ごめん……)


鈴は叫びたくなるほど胸が痛んだ。


「アレンさん……そんな……」


視界が揺れる。


海の底から伸びる手。

沈んでいく光。

アレン自身の息が止まりかける感覚。


(……死ぬ……)


最後にアレンが見たのは――

空色の海と、仲間たちのいる方向だった。


「……助けられな、くて、ごめ……」


その呟きと共にアレンの身体は

暗く冷たい水底へと、永遠に溶けていった。


鈴の喉が苦しくなり、声が漏れる。


「……アレンさん……そんな、アレンさん……」


その瞬間。


暗闇が砕けた。


鈴の意識が水面近くに押し戻される。

遠くで、夜華の荒い息とアレンの必死の声が聞こえた。


「鈴!!」


「鈴ちゃん!!しっかり!!」


鈴は泣きながら目を開いた。

けれど、最初に漏れたのは――


「アレンさん……っ……あれん、さん……ひとりで……ずっと……」


そう零し泣き出す鈴に、アレンの顔が凍り付いた。


深い海のように静かだった彼の瞳が、

初めて――恐怖に揺れた。


「……なにか見たの……?俺の……」


鈴は濡れた頬のまま、強く頷いた。


「見たよ……全部……あなたが……死ぬまでに、どれだけ助け続けて……どれだけ苦しかったか……」


アレンは震えながら目を伏せた。


「……見られたくなかった……一番……情けない記憶なのに……」


「違う!!」


鈴は首を振り、涙の声で言う。


「違うよ……アレンさん。あれは――あなたが一番、強かった瞬間だよ」


アレンの目が大きく揺れた。

鈴は続ける。


「助けたかった。助けようとした。ギリギリまで。それは失敗じゃない……アレンさんの信念で、生き様だよ……!」


「情けなくなんてない!!あれを情けないっていう奴がいたら……!!私がそいつをぶん殴る!!」


夜華は黙ってそのやり取りを聞いていたが、

静かにアレンの肩へ手を置いた。


「お前が背負ってきた痛みを鈴も知った。もうひとりじゃないぞ、アレン」


アレンは、堪えきれずに笑った。


「……鈴ちゃん。そんな優しい言い方されたら……もうダメだよ……」


「おい、やめろ。惚れるな、俺の鈴だ。お前は自分を蔑ろにしたんだから鈴に1発殴られるくらいでちょうどいい。」


「えっ、いや、夜華、それはその場のノリというか」


「確かに。自分のこと情けないって言っちゃったからなあ。優しくで頼むよ、鈴ちゃん。」


「アレンさんまで悪ノリしないでください!!」


海面の上で、三人を包む水の檻が静かに震えた。


笑い声に包まれた辺り一帯。


隠れるようにアレンは

――涙をひとつだけこぼした。

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