第16話 血も村も運命も

夜が明ける少し手前だった。


意識の底に沈んでいた鈴の耳に、

遠くで波が寄せるような音がゆっくりと戻ってくる。


(……あれ……どこ……)


ゆっくりと瞼を開くと、

自分が大嶽丸――夜華の膝に頭を預けていることに気づいた。


「……鈴、起きた?」


「よ……ばな……」


掠れた声で名を呼ぶと、夜華が少しだけ笑った。


薄く光る朝の空の下で、

昨夜の地獄のような惨劇を思わせる大社は、

まるで最初から存在していなかったかのように崩れていた。


柱は黒く焦げ、

鳥居は折れ、

人の気配はどこにもない。


鈴はゆっくり身を起こそうとして、

胸の奥がずきりと痛むのを感じた。


「っ……!」


夜華の腕が支えた。


「無理しないで。まだ呪いが残ってる」


「……呪い……?」


夜華は鈴の左肩にそっと触れた。


布の隙間から覗いた肌には、

淡く赤黒い模様――まるで狐の手のような跡が浮かび上がっていた。


「これは……?」


「狐が鈴を連れ戻すためにかけていた呪印。体調が悪くなったり、熱が出たりしてただろ?」


(……そう……だ。村に来る前からずっと……)


「この数ヶ月、ずっと……」


「全部あいつの仕業だ」


夜華の赤い瞳が怒りで揺れた。


「解けるの……?」


鈴の声は不安で震えていた。

夜華は迷いなく頷く。


「ほとんどは俺が壊した。だが……」


夜華の指先が、鈴の肩の模様に触れた瞬間――


ビキッ……!!


稲妻のような痛みが鈴を貫き、思わず叫び声が漏れた。


「っ――!」


「ごめん。……今のは根の部分だ。あとひと押しすれば消せるが……鈴の身体が耐えられない」


「……残っちゃうの?」


「少しだけ。けど害はない。ただ……」


夜華はほんの少しだけ目を伏せた。


「鈴が狐に選ばれていた証のように、消えずに残るかもしれない」


鈴は自分の肩に触れた。

重くて、痛くて、苦しくて、

だけど……


(……夜華が……全部戦ってくれたんだ……)


その跡は呪いであると同時に、

自分が救われた証にも思えた。


「……大丈夫。夜華がそばにいてくれるなら」


その言葉に夜華の瞳がわずかに揺れ、


「……ああ」と静かに返された。


「ここに居続けるのは危険だ。残りの村人がどう動くか分からない」


夜華の言葉に、鈴はこわばった指で白無垢を握る。


「……帰らなきゃ。家に」


「鈴……」


「おじいちゃんの……いない家に……」


涙が出そうだった。


でも、帰らなきゃいけない。

ここから逃げても、何も終わらない。


夜華は鈴の手を握った。


「行こう。鈴の家まで、俺が送る」



村の道は、夜明けに照らされて静まり返っていた。


夜華が周囲に結界を張り、

鈴を隠すように村の中心を抜けていく。


家に近づくほど、

鈴の胸は重くなる。


あの家の扉を開けたら、

すべて向き合わなきゃいけなくなる。


(……でも、逃げたくない)


祖父の死、狐の呪い、自分が選ばれた理由。

全ての始まりと終わりが、この家にある。


鈴は震える指で、玄関の戸を開いた。


ギィ……


そこにいたのは。


「……鈴……?」


蒼白な顔の母と、肩を落とした父だった。

母は鈴を見ると、口元を押さえた。


「あ……よかった……生きて……」


でもその目は血走り、焦りと狂気が混ざった信者の目をしていた。


「ああ、鈴!!無事だったのね……良かった……良かった……!」


母が泣き叫びながら駆け寄ろうとするのを、夜華が前に出て遮る。


「来るな」


それに対して声を上げたのは

後ろから様子を見ていた父だった。


「どけ!!!貴様は……貴様が鈴を惑わせたんだ!!」


「惑わせた?笑わせるな」


夜華の目が一瞬だけ冷たい光を帯びた。

父は声を荒げる。


「天守様はまだ怒っておられる!今ならまだ間に合う……!鈴、お前が冥婚の儀を受ければ……村は救われる!お前を許してくださる!!!」


母も泣き叫ぶ。


「鈴!!戻ってきなさい!!あなたは村のために生まれたのよ……!!あなたさえ儀式に戻れば、全部……全部元どおりに……!」


夜華が一歩前へ進む。

赤い瞳に怒りが宿る。


「ふざけるな。鈴はお前らの道具じゃない」


しかし父と母は夜華の声すら聞いていなかった。


「鈴!!冥婚の儀をしなさい!!それがおまえの役目!!」


「天守様はあなたをお選びになったのよ!!今なら……!今ならまだ……!」


鈴はゆっくりと立ち上がった。

涙は――出なかった。


「……お母さん、お父さん」


震える指をぎゅっと握る。

胸の奥が、すうっと冷える。


「私、もう戻らない」


ふたりが固まった。


「私は生きたい。私の意思で、私の人生を選びたい。もう……誰の供物にもならない」


母の顔が絶望に染まる。


「鈴……!!何を言って……!」


「私、全部捨てる。村も、血も、運命も。……全部捨てて――夜華と生きる」


「そんな権利、お前にあるものか!!!」


「あるよ」


鈴は夜華の手を握った。


「だって私の命は……私のものだから」


夜華が静かに微笑んだ。


「そう、お前の命はお前のもんだ。」


両親は崩れ落ち、泣き叫び、哀れなほど取りすがるが

鈴の決意は揺らがなかった。

夜華がその手をしっかりと引き寄せる。


「鈴。行こう。」


その瞬間、鈴は宿命から抜け出した。

夜華の隣に立つ、自分の足で。

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