フィヨルドのその果てで
未人(みと)
第1話
指先を絡めただけで、体温が溶け合った。
触れた場所から熱が
二人の境界が泥のように崩れていく。
唇を求めたわけではない。
ただ、互いの呼吸がぴたりと重なるまで距離を詰め、酸素の行き場所を奪い合った。
汗ではない湿り気が、じわりと指先に染み込んだ。それが、空の体から出たものか、室内の湿度か、判別がつかなかった。
抗うでもなく、焦がすでもなく、まるで温度の居場所を交換しているだけのように、二人は身体を寄せた。
腕は抱くためではなく、逃げた熱が零れ落ちないように、互いの皮膚をパテのように塞ぐために回される。
肩が重なるたび、灯の体がひどく軽いことを空の手が覚える。その軽さを沈めるように、空の膝が静かに灯を受け止めた。
舌ではなく、歯が触れる音がした。
痛みではなく、物質としての
灯の背に回った指先が、背骨を這い上がり、ふと、何もない空間で止まった。
そこには傷もホクロもない。けれど空の指は、まるでそこに本来あるべき何かを失ったかのように、執拗にその空白を撫で回した。
皮膚の下に灯の
その二つを同時に指先で読み取っているようだった。
深く抱けば抱くほど、体温は濃くなる。だから二人は、ただ近くに寄り、互いの皮膚を薄い膜のように重ね合わせる。
愛があるのかどうか、誰も知らない。
少なくとも、彼ら自身には分からなかった。
この熱が、どちらのものかすら分からないまま、ただ、生きている温度だけが交換され続けた。
しかし空の指先は、灯の皮膚の底に、まだ満たされない空洞のような冷たさを感じていた。
息がほどけた瞬間、空の指先が灯の顎をすくい上げた。
唇は求めない。ただ、喉元を横切る脈拍を指の腹で数える。
灯の呼吸が、有機的なポンプとして動いているのを検分するように。
――生きている。この反応は、観測データとして正しい。体温は36.5℃。期待値通りだ。
空の思考が、一瞬だけ無機質なデータに変換される。
「……生きてる?」
問いかけは囁きでも、愛情でもない。
実験の結果を問うような、無機質な事実確認。
灯は答えず、胸の前でそっと手を握る。
空の手とは繋がらない。
握ったのは、自分の体温がまだ逃げていないかどうかを、自らの手で知るためだった。
「……うん」
遅れて落ちた返事は、空に向けたものか、自分に向けたものか分からない。
空はその声に安堵した様子もなく、灯の頬の温度を指でこそげ取るように撫でる。
名を呼ぶことも、抱き寄せることもしない。ただ、皮膚に残った熱が本物の生体反応かどうかだけを監視している。
灯の胸が微かに波打つ。
空はその波が感情からくるものかには興味を示さず、その熱を一つの「データ」として受け止めた。
生きている。
その判定が済むと、ようやく腕がほどかれた。
◆
夜の空気は湿っていて、シャワー上がりの灯の髪から落ちる水気が、室内に薄い蒸気の層を作っていた。
その湿度の中、呼ばれたわけでもないのに、空が静かに立っていた。
まるで灯のまとう温度そのものに引き寄せられたみたいに。
「……寒い」
その一言は、ただの感覚の報告ではなかった。
震えを押し殺すような、何かを探し当てようとする響きを帯びていた。
灯が振り返る前に、空の指先が肩へ触れる。
その指はひどく冷たいのに、触れた場所から灯の体温を吸い上げていく。
灯の肌がわずかに粟立つ。
その反応をなぞるように、空はゆっくり息を吸った。
初めて触れる人にはない呼吸だった——まるで、どこかで知った震えの形を確かめているような。
灯の髪の水滴が、空の指の関節に落ちて伝う。
その温かさに、空のまぶたが静かに降りた。
遠い場所で失った“
空が灯を抱くたび、力は強いのに、抱きしめる腕の中には灯ではない“誰か”のための余白があった。
皮膚の下に焼き付いている残像を、手探りで当てはめようとするような残酷な抱擁。
「……少しだけ、このままでいさせて」
灯の首元へ落ちるその声の直前、空の唇はわずかに迷った。触れる前の一瞬、空の意識は灯ではなく、届かない温度との誤差を測っている。
灯は空の背に、手のひらだけをそっと添えた。
抱き返すのではなく、震えの形を確かめるように。
その震えが寒さだけのものではなく、もっと古い痛みの形であることを、手のひらが理解していた。
「……ここにいるよ」
その囁きに、空の背筋がほんのわずか固くなる。
灯の温度が、“今ここにある体温”と、空が求めている“もう触れられない体温”の差を、ゆっくりと浮かび上がらせるように。
灯の胸元で、空の呼吸だけが、迷子のように自分の輪郭を探し続けていた。
◆
足音の消えた雪山。
凍りついた風だけが、どこからともなく吹き抜けていく。
吐き出した息が、白くなる前に“消えた”。
そこにいたはずの誰か。
まだ温もりだったはずの体。
空の腕の中から、静かに落ちていった最後の体温。
灯の肩に触れているはずの指先が、とうにいない人の輪郭をなぞりはじめる。
まるで皮膚の記憶だけが、別の誰かを思い出しているように。
「……だめだ……」
灯に向けた声ではない。
雪の奥へ沈んでいく何かへ向けた声。
言葉よりも、許されない動作の名残のような震え。
次の瞬間、空の体が灯を押し離した。
意思のない反射。
恐怖が背中を強く引いた動き。
灯は痛まなかった。
拒絶を見ているのではなく、空の視界の“どこか別の場所”に触れてしまった気がしたから。
遠ざかった空の手首を、灯はそっと両手で包んだ。
その指先は、人の温度とは思えないほど冷たかった。
「空くん」
名を呼ぶ声は、灯の体温を差し出すための合図。
救命の手順のように、静かに。
「……ここにいるよ。戻ってきて」
灯の掌が空の頬に触れた瞬間、白い何かがひび割れた。
凍りついた雪山の残響が遠のき、鼓膜に灯の脈動だけが響き渡る。現実の温度がじわりと、空の皮膚へ戻っていく。
空は震えたまま、灯の胸へ寄りかかる。
灯は抱きしめなかった。
灯は空の肩に片腕を差し入れ、崩れかけた重心をそっと受け止めた。
抱き寄せるのではなく、落下を防ぐための動作にすぎなくても、空の見ている“どこか”から連れ戻せるのは、灯の温度だけだと知っていたから。
そして灯は、自分の存在が誰かを救う温度として形を保っているのを、静かに、確かめるように受け入れた。
◆
どれほどの時間、そうして重なっていたのか分からない。
空の体から震えは消えたが、灯は知っていた。
空の腕に残っている“余白”はまだ、他の誰かの形で満たされていることを。
灯の体温は、その影をいまだけ留まらせているだけだ。
空の指先が、灯の肩から首筋へと細く滑った。
道具の具合を確かめるような無機質さなのに、その指先の奥には、壊れた子どものような迷いがかすかに滲んでいた。
「……灯」
呼ばれた名は、判定のための声だった。
けれどその響きの底に、呼び止めるような弱い張り付きがあった。
空が顔を上げても、灯の瞳を真正面から見ない。
その奥にある影ばかり見ようとする。
まるで、そこに自分も沈める場所を探しているかのように。
「……離れないで。……いや……違う……ここにいて」
言葉より先に、空の喉がかすかに震えた。
言葉の形を選べずに、迷った呼吸が先に声になったような震えだった。
灯の指先が自然と動く。
過去に身を固くしないために覚えた癖が、空の不安をなだめるように肩の角度を整える。
だが今回は少し違った。
空が灯の体温に寄りかかると、灯の身体がそれを受け入れるよりも早く、空の指がそっと布を掴むように灯の服の端を握った。
無意識の動き。離れないための、小さな抵抗。
灯の胸の奥がひどくきゅっと締めつけられた。
空の冷えた手の甲が灯の頬に触れる。
その触れ方は冷たいのに、そこにある“願い”だけはかすかに温かい。
——置いていかないでくれ。
——いまだけ、つながっていてくれ。
そんな言葉にならない温度が、灯の皮膚にうっすら滲んだ。
灯の呼吸が自然と整うと、空はわずかに肩の力を抜いた。
頼り切るのではなく、触れたことで初めて息ができる生き物のように、ふっと音もなく緩む。
灯の指先が空の背に触れる。
過去の順番を覚えてしまった手の動き。
だがそこに、今回は別の意味が混じった。
——この人は、私を壊すつもりで触れているんじゃない。
——ただ、生きたくて触っているだけなんだ。
空の震えは、残酷さではなく、消えそうな体温を必死で繋ぎ止めている、弱く柔らかな震えだった。
灯はその震えごと抱き寄せた。
空の冷たい体温の奥にある“柔らかい欠落”が、灯の胸の深いところで、過去の痛みとゆっくり重なっていくのを感じながら。
◆
空の冷たい体温の奥にある“柔らかい欠落”が、灯の胸の深いところで、過去の痛みとゆっくり重なっていくのを感じながら、灯の腕は、空の背に“しがみつかせる”ためではなく、落ちていく温度をそっと受け止めるために動いた。
抱きしめるというより、溢れそうな体温をこぼさぬよう包む動作だった。
押し返すためでも、支配するためでもない。空の震えをそのまま受け入れるためだけに。
空の指先が、ためらいとも期待ともつかない速度で灯の腰に触れた。
その一触れは、誰かの代わりではなかった。
初めて“灯そのもの”に向けられた、まっすぐな体温だった。
その瞬間、空の肩越しに灯が見ていた壁が、ゆっくりと波打った。
空気の層が薄膜のように震えて、部屋の影が遅れてついてくる。
灯は一度瞬きをした。
その一瞬の暗闇の中で、空の胸に響く鼓動が“二度”鳴った。
一度は生体の音。
もう一度は世界が返してきた反響。
温度の伝達がわずかに遅れ、灯の指が触れた場所に熱が届くまで、数呼吸分の空白が生じた。
——ノイズ。
——観測不一致。
どこか遠い場所で、外部知性体が静かに判断を下した。
愛の再現は、今回も失敗と。
「……空くん?」
灯が呼ぶ声が、薄い水の膜を通るように響いた。
空は灯を抱き寄せたまま、視界の揺れに気づかないふりをした。
灯の呼吸が胸に触れるまでの距離が、不自然に伸びている。
しかし、灯は空の背に触れた指先がかすかに震えたことに気づいた。
「……ここにいるよ」
灯の囁きは、世界のひび割れに沿うように落ちた。
空の腕が、躊躇なく灯へ回される。
これまでのように誰かの輪郭を探す抱擁ではない。
届かなくなった残像を埋めようとする腕ではない。
初めて灯だけを抱くための腕だった。
灯の額が、空の胸元にそっと触れた。
そのわずかな体温が、世界の輪郭よりも先に、ふるえた。
その瞬間——
外側の層が、動いた。
室内の空気が、ひっそりと折りたたまれる。
≠ 位相 Δ0.004
//収束失敗
─── parallel // trace
∴ 再解析
意味ではなく、ただ “構造だけ” が世界の隙間にひび を入れた。
空も灯も、認識しない。
ただ、影が
すこし
遅れて
揺れただけ。
——神だけが知る。
灯は空の名を呼ぼうとした。
声の最初の一音だけが
浮かび、
…………
消えた。
床が沈むのではなく、床という “概念” がほどけていく。
壁の白が
裏 返 り、
/
戻り、
/
ぶ れた。
空は、灯の指の温もりを確かめた。
その熱だけはなぜか、遅れずに届くくせに——
世界のほうが
遅 れ 始 め た。
灯の髪の黒が
粒子のように
ほ ろ ほ ろ と揺れ、
輪郭は
水に落とした墨のように
広がり、
ひらき、
……に じむ。
空の声も
半分だけ
ほどけて 落 ち た。
母音だけが
こぼれ、
あとから
追いつく。
世界の構造が、文章のように、壊れ始める。
read —— error
/ /補完不能
∵ simulate reset
灯が空へ
手を
伸ばす。
その動きだけが
時間から外れたみたいに
美し く 残る。
「……空」
届いた一音は、
崩落の
すこし
あとで
響いた。
空も、伸ばす。
触れたのは
体温でも皮膚でもなく、
ただ “触れたい” という
構造の
残骸だけ。
崩れていく世界の底で、
二人だけがほんの一瞬、
同じ速度になった。
reset
reset
reset reset
灯が
光の粒に
変わる。
空の胸の奥で、
最後の熱
だけ
反響する。
それは
外部知性体が定義した “愛の構造” から
逸脱したため、
失敗と
判定された
シミュレーションの
最後の
記録。
外部知性体は静かに
世界を
閉じた。
それはただ、
期待された構造と
“ズレた”
という理由だけで。
だが——
削除の狭間を
一呼吸だけ
すり抜けて、
二人の
指先に
残ったものがある。
外部知性体が読めなかった熱。
定義にも、数値にも還元されない、ふたつの体温の交換。
世界が消えても、その一瞬だけは確かに存在した。
次のシミュレーションが始まるまでの、わずかな
——永遠として。
フィヨルドのその果てで 未人(みと) @mitoneko13
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