私は最高

雨宮 瑞樹

最高の女

 女の中には、男を前にした時だけ出現するスイッチがある。

 赤色は、強い女。

 黄色は、甘え上手な女。

 紫色は、聖母の女。


 そうやってターゲットを決めた男の前で、女は男を落とすために何かしらのスイッチを押している。一般的な女のスイッチは一つか二つ。しかし、私にはその辺の女たちとは違って何十もの色のスイッチを操る最強の女だ。

  

 私は、日本屈指の大手電機メーカーの受付嬢として活躍している。

 仕事は、とんでもなくつまらないもので絶望したことは何度もあったが、男だけは面白いほどよく釣れた。それだけが、私をここに留まらせている理由だ。

 今年でこの仕事を始めて今年の夏で七年目を迎えるが、相変わらず男の誘いは絶えない。私の美貌と魅力は衰えるどころか増すばかり。

 

「真由美さん。今日ご飯でもいかがですか?」

 今日も声がかかった。頭の中の来客リストを開いてみる。それなりの名の知れた企業に勤めているが、いつも初対面だと思ってしまう影の薄い営業の男だ。名前も平凡すぎて覚えていない。

「うーん」

 悩むふりをしながら男の全身にチェックを入れる。全体的に平たく目も小さめで、記憶にすら残らない普通の顔。

 一応、スーツや鞄、靴を確認してみる。案の定どれもヨレヨレでひどい有様。身に着けるものに気を遣えないのは、自己評価が低い証拠。付き合った相手を大事にするなんて到底できるはずもない。よくも私の横を歩けると思ったのか、理解に苦しむ。早速現れたダークな青色スイッチを押すことにした。

「暇じゃないので」

 男は、はずかしくなったのだろう。顔を真っ赤にして走り去っていった。


 そんなやり取りをいつも隣で見ている後輩の藤島彩は、感嘆の声を上げていた。

「先輩って、すごいですよね。未だに色々な人からお誘いを受けて」

 白く丸い顔に奥二重の黒目がちな瞳をキラキラさせて言った。頭はスポンジくらいスカスカだが、後輩である彩も同じ受付嬢に配属されるくらいの一般的な美貌の持ち主ではある。当然私の足元にも及ばないが。

「まぁ、私だから仕方ないわよね」

 女たちはいつも私に嫉妬して、敵意を向けてくるが彩にはそれが見えない。寧ろ、更に瞳を輝かせてくる。

「さすが、先輩! 先輩をお手本に私も頑張ります」

 素直に私を見習えるところは、なかなか可愛いとは思っている。

「せいぜい頑張って。彩ちゃん見た目は、悪くないんだから、男なんてすぐできるわよ。何なら誰か紹介しようか?」

「ありがとうございます。だけど、私……彼氏いるので、大丈夫です」

「あら、そうだったの? 隠さないで教えてくれればよかったのに」

「恥ずかしくって」

 

 彩は何を思い出したのか頬をピンクに染めていた。

 彩と知り合って二年目になるがこの時、初めて彩は男の前で、よくありがちなピンクのスイッチ入れることを知った。やっぱり彩の頭はスッカスカだということを改めて認識する。

 そんなスイッチが通用するのは、せいぜい高校生くらいまでだ。二十四にもなる女が純情なふりをしたって、まったく似合わない。それに全く気付いていない彩のボンクラに呆れながらも、先輩らしい品の良い笑顔を浮かべて、他人の男の話なんて全く興味はないが、聞いてやる。

「馴れ初めは?」

「私、登山サークルだったんですけど入って二年目くらいに、OBも参加する行事があって、そこで知り合ったんですけど……」

「へぇ」

 胸のところまで伸びている毛先が少し乱れているのを見つけて、直しながら仕方なく頷く。その後も一人で盛り上がって、ぺちゃくちゃ喋り倒していく。どうせ、さっきの男と同じようなクタクタスーツを着た冴えない男なのだろう。空気を読めない彩はその続きを話し続ける。

 彩は、基本的に私に従順だ。けれど、時々こうやって図に乗ることがある。そろそろ、いい加減我慢の限界だ。

 彩ぐらい鈍感女でもわかるくらいため息をつくと、彩はやっと気づいた。

「あ。すみません。こんな話」

 小さな頭を下げ下げる。顔を上げた時は、さっきのことはなかったかのようなけろっとした顔。頭が空っぽの人間は、三歩歩かずとも忘れてしまうらしい。彩ほど都合のいい脳みそを拝めるのは、今までもこれからもそうないだろうと思えるほど、何を言っても彼女に響かない。そんな彼女を、嫌いではなかった。

「そうだ! 私より、先輩の話聞きたいです! 今まで数々お付き合いされてきた中で一番忘れられない人っていますか?」

 質問された答えを素直に探ってみる。高く積みあがっていた思い出を少し切り崩してみたが、出てきたのはどれも色褪せていて、欠点だらけの男ばかり。金は持っていても、顔はいまいち。逆もまた然り。どの男たちも短命で終わった。そこまで回顧して、一番底にあった日に焼けた肌によく似合う白い歯を見せ笑う男がふわりと蘇った。唯一私がのめり込んだ彼。

「強いて言うならやっぱり、高校の時の彼かしら。爽やかな笑顔に、優し気な目元、容姿、スタイル何もかもが抜群だった。私が唯一告白した人」

 まだ未熟で、恋というものをあまり理解していなかったあの頃。押したのは熱く恋焦がれた深紅のスイッチ。この時、初めてのスイッチの存在を知った。渾身の力を込めて押した時のことは、鮮明に覚えている。

 青々とした空の下の高校の屋上に彼を呼び出した。ドキドキ心臓が煩いほど脈打って、息もできない緊張感の中、思いをぶつけた。最初は戸惑ったような様子を見せていたが、彼は輝く白い歯をみせて頷いてくれた。彼の名前だけは絶対に忘れない。

 雨宮優斗。

「一度、実家にお邪魔したことがあったんだけど、重厚な門扉が私を迎え入れてくれたわ。その奥に進めば、見渡す限りの圧巻の日本庭園。その横に立つオシャレな豪邸。初めて触れる未知の世界が広がっていたわ」

 金だけではなく、プラチナまで手に入れてしまったような気分になった。私の価値は一気に高騰して、同級生たちは羨望の眼差しを向けてきた。快感だった。やっぱり私は一般人とは格が違う。確信を得た瞬間だった。

「その後は、どうなったんですか?」

 あの日の冴えない女たちと同じ目をして、彩は質問してくる。

「彼、海外に住むことになってね。別れちゃった」

 付き合って二週間後のことだった。あまりに突然な話で、唖然とした。『彼に遠距離でもいいから』と妥協案を提示したのだが、彼は申し訳なさそうにいった。

「君の大事な時間を近くにいない僕が奪うのは、申し訳ないんだ」

 私のことを一番に考えて、別れを告げたのかと知ったとき、やっぱりどこまでも彼は素敵だと思った。何ならこのまま結婚してしまえばいいと思ったが、まだ高校生である手前、さすがにそこまでいえることなく終わった。

「だから、私はそれ以上の男を見つけることにしているのよ」

「前向きな先輩、カッコいいです!」

 

 そんな話をしていた時、遠目からでも際立つ、背も高く肩幅の広いスタイル抜群の男が視界の端に飛び込んできた。

 初めて見る顔だ。高級スーツにバッグに革靴。更には、端正な顔立ちの金髪に淡いブルーアイと来ている。ネクタイもシルク仕立てなのか光沢感がある。

 私は急いで、この男性の瞳と同じ色のスイッチを押して微笑んだ。共鳴してぱちりと目が合った。彼がそこで、目を細めてはにかんだ。それが太陽のように輝いていた。

 胸の導火線に着火する音がした。ボッと勢いよく、火が付き全身に熱が回って、体がカッと熱くなった。同時に頭の中で彼に合いそうな英語を用意する。

 以前付き合った男は、下の中あたりで、到底私に釣り合う相手ではなく乗り気ではなかったが、英語の塾講師をしているというので、気がかかわった。授業料タダで英語習得できるのであれば、仕方ないと妥協した。しかし、そんなヤツと付き合うのは忍耐が必要で、結局一か月ももたなかったが。こんなことなら、もう少し付き合って英語習得しておけばよかった。

 そんな後悔が浮かんできそうになるが、考えてみれば美貌さえあれば、言語の壁なんか問題じゃない。私は純白スイッチを押して、微笑んだ。

「あの、すみません。開発部の鈴木さんとアポイントを取っているのですが、何階でしょうか」

 彼は見た目通りの甘い声で、思いがけず流暢な日本語が飛んできた。全身に熱が駆け巡り、勢いを増していく。

「そちらのエレベーターで四階に上がっていただいた、突き当りが開発部でございます」

 重ねて彼の金髪と同じ色のスイッチを入れて笑顔を見せれば、彼は私の笑顔に心を射抜かれたように目を丸くして、人懐っこい笑顔を零した。

 私は確信する。彼こそが私の求めていた運命の人だ。

「ありがとう」

 彼は長く美しい指先を背広の内ポケットに移動させて、名刺とペンを取り出し、裏に電話番号らしき数字を書き加えて私に差し出してきた。甘い笑顔を添えて。思わず見とれてしまうが、それを両手で貰い受けた。少し厚い名刺を手が汗ばんだ。彼は私の耳もとに、顔を寄せて先ほどよりももっと甘い声で囁いた。

「よかったら、ディナーでもいかがですか?」

 銀色のスイッチを押して、キラリと目を輝かせれば彼は、目を細めた。目じりに出来た小皺が更に何重にもチャーミングに魅せてくる。この瞬間、私の目の前に特大虹色スイッチが出現した。

「連絡待ってます」

 彼は踵を返し、春風を吹かせて去っていく。スーツの背は、皴一つ作られていない。その後ろ姿もスマートだ。それをじっと見つめていたら、彩がはしゃいだ声を出していた。

「真由美さん! 私、あの方テレビで見たことあります! ドラマかな? ともかく、テレビで、最近見ましたよ!」

 彩が興奮気味にそういう熱を貰い受けるように、気持ちが高ぶった。手の中に上等な紙質の名刺へ目をと落とす。

 文字の羅列。必要としているすべての情報が記載されていた。所属企業は、マーブルとある。マーブルといえば、世界トップのソフトウェア企業だ。それだけで、胸が高鳴るのに、それを止めにかかってくる。

『ジェレミー・E・ローフォード』

 まさか。

 止まりそうだと思った心臓が今度は、信じられない速さで打ち始めた。

「ローフォードって、マーベルの創始者じゃないですか! 創始者はご年配ですから、息子さんかもしれませんね! あ、思い出した! ニュースで、彼の顔見たのかもしれません!」

 彩の声で、私は特大虹色スイッチを押していた。

 

 就業時間終了後、早速彼に電話を入れるとワンコールで応答し、指定されたフレンチレストランへと向かった。

「連絡くれると思わなかったから、嬉しいよ」

「私も、まさか連絡先を教えてくれるなんて思っていなかったからビックリしたわ」

 甘さを漂わせつつ、確信をより強固にするための詮索を入れることにした。高級フルコースの前菜のテリーヌを口にしながら、尋ねる。

「ねぇ、もしかして、あなたってマーブル創業者の息子?」

 ジェイミーが美しく操っていたナイフとフォークが止まった。綺麗な淡いブルーをぐるりと一周泳がせ、再び私に視線を戻してじっと見つめてくる。少し淡いブルーが少し鋭くなった気がしたが、すぐに元に戻り、観念したようにため息をついた。

「そうだよ。でも、今はプライベートの時間だ。仕事の話は、抜きにしよう。君との時間が、惜しいから」

 大きな会社よりも私が大事だという。私の胸は、天まで高鳴る。

「嬉しいわ」

 彼を見ると恥ずかしそうに目を伏せて笑っていた。

 その顔にうっとりとしながら口の中にあったテリーヌを咀嚼した。身も心も蕩けてしまいそうなクリームの味が口の中に広がっていく。この人とこれから過ごしていく濃密な時間が、動き出したような気がした。

 彼は淡いブルーアイをまっすぐに向けて、見つめてくる。それだけで、魅了されてしまうのに顔まで美しいというのだから、反則だ。濃厚なワインを飲み、気分は更に上がっていけば、数々のスイッチが完全に水没してしまいそうだ。

 

 私は、ずっと初恋を忘れることができていなかった。その後に付き合ってきた数々の男たちがタッグを組み、彼に挑んだとしても到底優斗には及ばなかった。彼を追い越せる男がいつ現れるのかとずっと心待ちにしていたが、それを遥かに飛び越えるジェイミーがやってきた。

 重厚な門扉。広い日本庭園。その横に建つ豪邸。あれは、所詮砂塵の楼閣だ。

 優斗は海外に行ったのだ。その後どうしたのか知らないが、私という素晴らしい女を捨てたからには、碌な人生を送っていないだろう。狭いアパートで寂しいといいながら時を過ごしていたに違いない。

 考えてみれば、私はそもそも日本庭園なんて、興味なかった。わびさびなんて、意味がわからない。古臭すぎてカビが生えたところが、風情とかよくいうが理解できない。。そうだ。私は日本には合わない女なのだ。こんなちっぽけな島国では、収まりきれない世界の女だ。

 だから、今後は日本ではなくジェイミーと共に、海外の大邸宅で彼と過ごす。時には、ベルサイユ宮殿顔負けのフランスにあるという別荘に行って、有名人や財界人たちを集めてパーティーをするのだ。そこに私も出席すれば、みんな私の美しさに息をのむことだろう。そして、みんないうのだ。

「ジェイミー。ヴィーナスを手に入れて、君は世界一幸せ者だな」

 そういわれた彼は、誇らしげに私にキスを落として、また歓声に沸くのだ。

 描いていた夢は制御できないほど、膨張していく。歓喜の渦の中で溺れ、スイッチはすべて吸い込まれて、反応が悪くなっている。けれど、スイッチはもう必要ない。ほしいものは、この胸の中にあるのだから。

 

 翌日、幸せに浸りながら職場へ出勤しようと電車に乗ろうとホームに行くと彩の姿を見つけた。

 せっかくだ。早速昨日の甘い話を聞かせてやろう。きっと、彩は目を爛々に輝かせて、一段と強い羨望の眼差しを送ってくることだろう。近づいていこうとしたら背の高い隣の男と談笑していることに気づいた。

 前に彩が言っていた冴えない彼氏か。男の顔はこちらを背にしていて見えない。だが、その後ろ姿から予想していた下の下ではないことはわかった。仕立ての良いスーツにそれなりに高そうな鞄、革靴。

 まぁ、彩にしてはいい物件を捕まえたってところか。値踏みしながら、彩がこれまで私に隠してきた彼氏とやらの顔くらい見てやろうかと思った。が、男は彩にばかり顔を向けていて、ここから見えない。どうせなら、二人の間に割って入ってやろうかと思ったが、その直前に電車のドアが閉まる警告音が響いて、仕方なく隣のドアから電車に乗り込んだ。会社最寄り駅につくまで、一度くらいこちらに男は顔を向けるだろうと思っていたが、ずっと談笑していて男の顔は確認することができなさそうだ。会社の最寄り駅に着く直前、私は満員電車の人混みを掻き分けた。だが、二人の所へ辿り着く前に、到着してしまいドアが開いた。彩は男に笑顔で手を振り、人の流れに乗り外へ出た。それを送り出す男。私も降りなければ。そのまま車内に留まる人々を強引に押し退ける。やっと彩の男の真横に行く。そして、顔をみた。

 その瞬間。私も男も凍り付いたように固まって目を見開く。私はその名前を驚きとともに吐き出していた。

「……優斗くん」

 彼は目を見開いた。そして、口を開こうとした瞬間、電車の発車ベルが鳴り始めていた。不安定なピンヒールで転びそうになりながら慌てて電車を降りる。振り向けば、もう私への興味はなくなったかのように、少し先を行く彩の背中を見つめて微笑んでいた。そのまま電車は走り去っていた。ホームにはもう誰もいなかった。

私の足は、転びそうになったせいか痛みで悲鳴を上げていた。


 ずっと海外にいるんじゃなかったの?

 もう戻ってこれないから、私と別れたんじゃなかったの?

 どうして、彩なんかと一緒にいたの?


 出社し着替えを済ませて、カウンターに向かう。先に彩がそこに立っていた。足が鈍く痛む。とても、声をかけたい気分ではなかった。

「おはようございます」

 艶々した弾んだ彩の声が飛んできて仕方なく返す。

「おはよう」

 少し硬い声が出る。だが、そんなの気付きもしない、彩は笑顔を向けてきた。

朝食べたパンが、消化しきれずに胃が不快に渦巻いて、やもやしてくる。

 この不快さを解消するために、聞こうかどうか迷う。

 聞いてどうする。聞いたところで、なんの解消にもならない。あれは、間違いなく優斗だった。ならば、もう記憶から消し去り、なかったことにしてしまえばいい。その方がずっと賢明だ。そう思ったが、こういう時に限って、ダメな女はわざわざ私の触れてほしくないところを、無神経に揺さぶってくる。

「先輩。私、今日彼と一緒に出勤してたんですけどその途中で昨日のニュースの話になって……」

 そういいながら、スマホをポケットから取り出した。スマホはカウンター内に持ち込まない決まりになっている。彩もそれは承知していて、一度も持ってきたことはなかった。それなのに、どうしてこういう時に限って、持ち込んでくるのだ。イライラした叱りつけてやろうと口を開く。その時飛び込んできた、彩の手元のスマホが灯りホーム画面。腕を組んで、彼と一緒に写っている写真だった。それを見た途端、ぶわっと頭に血が上った。その勢いで、口から溢れた。

「ねぇ、その人。雨宮君?」

「え……なんで、優斗のこと先輩知ってるんですか? もしかして、先輩が前話してくれた初恋の相手……もしかして、優斗?」

 いつも鈍感なくせにこういうことばかりは、やけに敏感な彩の従順だった瞳が、勝ち誇ったような色に変わっていた。頭に上っていた血が今度はさっと引いていく。

「あ……ごめんなさい」

 彩が私に気遣って頭を下げた。その小さい中身が空っぽの後頭部を睨みつける。そのまま、足で踏みつけてやりたい衝動に駆られるが、頭に還ってきた血液で昨夜の出来事を思い出した。

 そうだ。私は手に入れたんだ。優斗を上回る最高の男を。日本なんかじゃ収まらない。世界一の男。だから、あんな男いらない。彩にのしつけてくれてやる。少し冷静さを取り戻し、余裕たっぷりにいってやった。

「いいのよ。もう終わったことだから」

 だが、上げてきた彩の顔は、満面の笑み。その瞬間。無数の浅黒いスイッチが出現した。私は迷わずそれらのスイッチを全て押す。同時に私の右手は、彩の頬を思い切りひっぱたいていた。


 広いロビーに大泣きする彩の声が特大に響いて大騒ぎになった。まだ就業前だったロビーにいた社員も集まって、警備員までやってきた。そして、大袈裟に泣き喚く彩にすべての同情が向いて、私には何故か冷やかな視線が送られていた。

「悪いのはこの子よ!」

 事実を訴えるほど、傷の舐め合いをするように彩への同情こ声が重なっていた。ふざけるな。

 私はカウンターの机を叩き、ロッカーに行き荷物を全部まとめて会社を出た。


 優斗と会った電車で痛めた足がズキズキ痛い。彩を右手のひらがひりひりする。

 怒りを振り落とすように早歩きで歩いていたら、スマホが鳴った。彩からだった。冗談じゃない。出るはずがないだろう。頭がカスッカスにも程がある。

 無視して歩く。すると、スマホがまた数度震えて、止まった。メッセージを伝える知らせだ。

 どうせ、彩からだろう。謝罪の文言だろうが、開きたくもない。だが、ホーム画面のプッシュ通知に冒頭部分の言葉が目に入ってきて愕然とした。

『先輩を嫉妬させるためにスマホを持ち込んだわけではありません。持ち込んだのには、理由が……』

 嫉妬? 冗談じゃない。ふざけるな。どこからどうして、そんな言葉が出てくるのか全く理解できない。彩の頭の中はスカスカのスポンジどころか、すっからかんの空っぽだ。頭の中で、彩の頭をハンマーで叩き割る。少しはスカッとするかと思ったが、手応えが全くない。余計に力が有り余って行き場を失ってむしゃくしゃした。

 この怒りを鎮めてくれるのは、やっぱり彼しかいない。早速、ジェイミーに電話を入れた。

 ワンコールで出てくれるだろうと思っていたのに、なかなか出てくれない。十、二十……呼び出し音が重なって、イライラが最高潮に達したとき、電話の奥でやっと繋がる音がした。

「もしもし? ジェイミー私よ」

「あぁ、真由。どうしたの?」

「今から会えない?」

 少しの沈黙の隙間から、電話越しからでもわかるほどざわざわとした空気が漂ってきて眉を顰める。

「ちょっと、今立て込んでるんだ」

 ジェイミーが少し声を潜めながらそいう後ろが更に騒がしく聞こえてきた。オフィスとは、違う違和感。アナウンス音。思い当たる場所は一つだった。だが、あの時の優斗の悪夢だけは、再現したくない。ジェイミーは違う。絶対違う。嫌な予感を覆してくれることを祈りなが尋ねる。

「今どこにいるの?」

 少し間を置いて、彼は答えた。

「空港だよ」

 声が遠くなって、頭が真っ白になり、絶句する。

「急遽イギリスに出張することになったんだ。大きな商談が入ってね。そのあと、本社があるアメリカに飛ばなくちゃならない。しばらく、忙しく飛び回ることになると思う。……だから、日本にはいつ帰れるかわからない。もしかしたら、戻れないこともあるかもしれない」

 遠くから聞こえてくる声が、今度は真っ黒な波となって襲い掛かってくる。

 落胆と絶望、失望ありとあらゆる黒いものが一緒くたに覆い被さってくる。もう何も聞きたくない。体中針でさされたように痛い。痛くて、痛くて、視界が滲んだ。が、突然、不意に彼の甘い声が、すべてを抱きとめるように響いた。

「でも僕は、君を心の底から愛しているんだ。君がいなければ、仕事だって手につかなくなってしまうし、どんな風景を見ても色褪せて見えてしまう。そんなの耐えられない。だから、真由。一緒にアメリカに来てくれないかな? 実は、君には秘密にしていたんだけど、一緒に住む新居の目星をつけてあったんだ。ハリウッドにあるプール付き三階建ての家だよ。結構広いから、勿論ハウスキーパーも付ける……だから、お願いだ。僕と結婚してくれ」

 突如復活した無数のスイッチ。全部集まって、一つのスイッチに変わっていく。その色は透明。キラキラ輝くダイヤモンドのように輝く。あまりに眩くて目が眩む。私は眩しさに目を瞑って、力いっぱいそのスイッチを押した。その途端、私の中のスイッチは爆弾の起爆装置だったかのようにドカンドカンと大爆発をしていった。今まで、積み上げてきたあらゆるものもが粉々になって壊れ、私は叫んだ。

「もちろんよ!」

「そうか、よかった! すぐに不動産屋に連絡を入れるよ!」

 弾んだ声を置いて、電話が切れた。その途端、世界が目が痛くなるほど眩く輝きだした。今日一日色んなことがあった。いや、今日一日だけでなくこれまで歩んできた人生嫌なことが大半だったきがする。だが、その終着点がここだった。理解した途端、身体がふわふわ浮わついく。

 そこに、またジェイミーから電話がかかってきた。契約したという報告だろう。画面をタップした。

「真由。大変だ。不動産屋に電話したら、僕が目をつけていた物件に、手付金を払う予定の客がついてしまっているらしいんだ。どうにかして僕を優先してくれと頼み込んだら、今すぐ手付金を払ってくれれば、その客を断ってくれるって話になったんだ」

「そうなの? じゃあ、早くお金を……」

「あぁ、そうなんだ。だから、僕が今すぐ振込をしたいところなんだけど、飛行機はもうすぐ日本を発ってしまうんだよ。振り込む時間がない。僕がイギリスに着いたらすぐにお金は返すから、三百万円支払い頼めないかな? ドルじゃなくても円でいいって言っているから」

「わかったわ。三百万円ね?」

「ありがとう。送金先は今すぐメールするよ」

「わかったわ」

「世界一、愛してるよ。真由」

「私もよ。一生愛してる」

 彼から送金先のメールが届く。私は、この先の未来のために急いて、銀行に向かい指定された口座に三百万円を振り込んだ。

 

 ほっと息をついてテレビをつける。

 ニュース画面が映る。そこに、ちょうどジェイミーが画面いっぱいに映っていた。トップニュースを飾る時間だ。それだけ影響力のある人のなのだ。そんな人が、私の夫となる。私も、この画面に彼と一緒に映るの日は近い。

 誇らしい気分だ。雲の上に来たみたいに、下界の人間なんてもうどうでもよくなってくる。これからは、私はアメリカへ行く。一生日本語とは無縁になるかもしれない。もう日本語なんて捨ててしまおう。

「今日のトップニュースです。先日……」

 すべての脳内言語を英語に切り替えれば、テレビから聞こえてくる音も、文字もすべて霧がかかって雑音に聞こえてくる。頭の中は、バラ色の結婚生活。そこに突き進んでいけばいい。

 テレビから聞こえてくる雑音を被せて、私は心の底から叫んでいた。

「I 'm the best! Don't you think so, too?」

『ジェイミーと名乗る国際ロマンス詐欺の男性に逮捕状が出ました』



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私は最高 雨宮 瑞樹 @nomoto99

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画