星屑のホテル〜おばあちゃんと孫娘、1年間限定の入れ替わり物語。
宮田 あゆみ
第1話 プロローグ 凛目線
ネイビーのローバー・ミニのハンドルを握り、夜の山道をゆっくりと下っていた。30年前のクラシックカーだ。
フロントガラスの向こうには、さっきまで頭上を埋めつくしていた星々が、まだかすかに瞬いている。
助手席では、絹代おばあちゃんが膝にそっと手を添え、目じりをほころばせている。
「凛、連れてきてくれてありがとうね。天の川もはっきり見えた。本当に綺麗な星空だったわ」
「来てよかったでしょ?寒かったけどね」
標高1500メートルのびろうど山にある鏡湖は9月とは思えない程冷え込んでいた。
コートとマフラーで身を包んでも、夜の湖のほとりは吐く息が白く、星を映した水面が淡く揺れていたのを思い出す。
暖房を効かせた車内には、ショパンのノクターンが響きわたり、帰り道に彩りを添えていた。
「さっき、大きな流れ星にお願いしたのよ。凛が素敵な人に出会って、早く結婚できますようにって。凛は美人でスタイルもいいのに彼氏すらできないんだから」
「…もう…その話はいいから!私まだ27歳だよ?」
「“まだ”じゃなくて“もう”でしょ?私も美香もその歳には結婚していたわよ」
「うるさいなぁ」
美香とは母の事だ。現在父と共にシンガポールに赴任中。その為、家ではおばあちゃんと2人暮らしだ。
彼氏いない歴はもう5年以上になる。
その理由は、自分でもよくわかっていた。
相手に求める条件が高すぎるのだ。
身長も学歴も収入も高く、イケメンでハイスペックな男性。
そのくせ私は、プログラマーで年収はそこそこだが、口下手で、ウジウジしているくせにプライドだけはやたら高い。要は“性格に難あり”なのだ。
なんでこんな風になってしまったのだろうか?
その事については、おいおい説明するとしよう。
「……て言うか……道に間違えたっぽい…」
こんな感じで少し天然でもある。
後は山を下っていくだけのはずなのに、道は蛇行を繰り返しながら緩やかに登っていく。
Uターンできるところまで行ったら引き返して、スマホのナビで確認しよう。
──そう思ったとき、ヘッドライトの先に淡い光につつまれた建物が浮かび上がってきた。
ひらけた丘の上に、ぽつんと佇む石造りの建物が見える。
近づくと、屋根にはドーマー窓がいくつもあり、小さな窓からオレンジ色の灯りがこぼれていた。
建物には尖塔まであり、まるでおとぎ話に出てくる小さなお城のよう。
更に近づくと、私は建物と同じ材質で作られた石造りの塀に埋め込まれた、看板を読み上げた。
「星屑のホテル?」
「素敵じゃない?凛、ちょっと寄ってみない?」
「えっ?確かにかわいいけど…」
「カフェとかやっているかもしれないでしょ?」
「もう夜の9時だよ?」
「じゃあバーかな?」
「おばあちゃん、お酒なんか飲まないでしょ?私も運転だし…」
「ノンアルコールとかあるでしょう?ちょっとだけ覗いてみましょ?」
「まあ…確かに気になるけど…おばあちゃんが先に入ってよ」
「うんうん、おばあちゃんに任せなさい」
おばあちゃんはいつもこんな感じだ。好奇心旺盛で物怖じしない。人懐っこく、誰にでも好かれる。
私とは正反対だ。
車を駐車場に停めると、ローバー・ミニのエンジンが静かに息をひそめた。
外に出ると、夜の空気がひやりと肌をなで、さっきまで見ていた満天の星空が再び現れた。虫達の鳴き声だけが静かに響きわたっている。
「うわっ!すごいロケーション!」
星空をバックに立つホテル。「星屑のホテル」という名前にふさわしい。高そうなホテルだが、こんなところに1度泊まってみたいものだ。
おばあちゃんは足腰が悪いので、私が横で軽く支えながら歩く。
玄関には石畳の車寄せがあり、奥には重厚な木製の扉が控えている。両脇にはランプが灯され、やわらかいオレンジ色の光が石壁ににじんでいる。
その重厚な扉を目の前にして私は立ち止まった。
「…なんか入りづらい雰囲気…やっぱりやめようよ〜」
私はマフラーの端を指先でいじりながら、思わずつぶやいた。
「こんなに素敵なところを素通りするなんてもったいないわ」
そう言うと、おばあちゃんは真鍮の取っ手に手を伸ばして扉を開けた。
扉を開けると、そこは外の冷たい空気とは別世界だった。
シャンデリアの灯りが淡く揺れる小さなロビーには、紺色のふかふかの絨毯の上に、アンティークの肘掛け椅子が並んでいる。奥には火のついた暖炉がロビー全体をじんわりと温めていた。
正面のカウンターには、雰囲気のある初老のコンシェルジュが座っていた。黒いベストに藍色のタイを締め、いぶかしげな表情でこちらを見ている。
「いらっしゃいませ」
抑えた声が、ホテル全体の静けさを破らないように響いた。
私は思わず背筋を伸ばしたが、おばあちゃんは気にする様子もなく、にっこりと笑ってカウンターに歩み寄った。
「こんばんは。ここは本当に素敵なところねぇ。あの、ちょっとだけお茶できるかしら?」
「申し訳ございません、本館は宿泊専用となっております」
バリトンボイスのコンシェルジュは丁寧に答えたが、その口調にはわずかな固さがあった。
「ほら〜」私は心の中でつぶやいた。
「まぁ残念。でも、もしかして……お部屋の空きは?」
おばあちゃんは、まるで近所の商店の店主に尋ねる様な気軽さだ。
「それでしたら……ちょうど1室だけ、キャンセルが出ております。朝食付き5万円でご案内できますが」
「凛、どう?」
おばあちゃんが振り返って私に尋ねた。
それにしてもフットワーク軽すぎだ。このインテリアで5万円ならそこまで高くはないだろう。明日は日曜日で仕事は休みだし、泊まってみたい気持ちはもちろんある。
「………」
私は答えに詰まった。
値段はまあ、いいとして、泊まり道具なんて何も持ってきてはいない。
「お部屋にはメイク落としや基礎化粧品、軽いフェイスパウダー、パジャマワンピースもご用意しております」
私の思いを読んだかの様にコンシェルジュはそう呟いた。
「じゃあ、安心。凛、決まりね。もちろんおばあちゃんが払うから」
「うん!」
思わず返事をした。
確かに、このホテルすっごく興味ある!
「ありがとうございます。お支払いは前払いになります。カードもお使いいただけます」
「じゃあ、カードでお願いね」
おばあちゃんが差し出したカードを、コンシェルジは優雅な手つきで受け取った。小さな機械にカードを滑らせる所作さえ、まるで儀式のように滑らかだった。
支払いが終わると、コンシェルジュは革のクリップボードに挟んだ書類を1枚、カウンターにそっと置いた。
上質な紙にびっしりと文字が並ぶ「宿泊約款」と書かれたページには、文字がびっしりと書かれていた。
「読み終わりましたら、こちらにご署名をお願いいたします」
「はいはい、こういうのは大抵どこでも同じね」
一条絹代
おばあちゃんは、サラサラと署名した。
私もその“宿泊約款”に目を落としたものの、文字の海にすぐ視線を泳がせてしまった。
そこには、何か大切なことが書かれている。
──そんな予感だけが胸に残った。
コンシェルジュは書類を丁寧に閉じ、「では、ご案内いたします」と静かに一礼した。
階段を登り、コンシェルジュが古びた鍵で、ティンカーベルの彫刻の施されたドアを開ける。
カードキーではないのが、雰囲気に合っていて嬉しい。
案内された3階の部屋は、息を飲むほど美しい空間だった。
深い藍色の絨毯とアンティークの家具たち。
壁には金の額縁にゴッホの『星月夜』がかけられている。このホテルの雰囲気にピッタリだ。
やわらかいシャンデリアの光が空間を包み、窓の外には月明かりをまとった庭がひっそりと広がっていた。
彫刻の施された真鍮のツインのベッドには厚いマットレスに清潔なリネンがかけられている。
奥の扉を開けると、バスルームには小さなペンダントライトが灯り、猫足のバスタブが鎮座していた。磨かれた真鍮の蛇口がランプの光をやさしく反射している。
「まぁ、素敵なお部屋じゃない」
おばあちゃんは目を輝かせて室内を見回した。
私は1歩踏み込みながら、胸の奥で小さな高鳴りを覚えた。
「では、ごゆっくりお過ごしください…朝食はロビー横のレストラン『アンドロメダ』で7時からになります」
「はい、わかりました」
おばあちゃんがそう答えると、コンシェルジュは静かに一礼して部屋を出ていった。
──まるで、星が連れてきた秘密の場所みたいだ。
おばあちゃん“大きな流れ星”にお願いしたって言っていたし。
いきなりの急展開に戸惑ったが、こんな絵本の様なホテルに、大好きなおばあちゃんと泊まれるなんて、本当に夢の様だと思った。
部屋ではソファーに腰掛け、コーヒー片手に、iPhoneから小さくショパンをかけた。
ただひたすらボーっとしているだけで幸せだった。
眠るのがもったいないから「今夜は眠らないで、ずっと起きていようかな」と思ったくらいだ。
それに引き換え、おばあちゃんは自分で泊まりたい、なんて言ったくせにお風呂に入ると「疲れた、おやすみ」と言ってすぐに眠ってしまった。
結局私は、深夜過ぎまで“何もしない贅沢な時間”を堪能した。
そして「明日の朝食も楽しみだな」そう思いながら静かに眠りに眠りについた。
* * *
朝は窓から差し込むやわらかな陽射しと、小鳥のさえずりで目を覚ました。
部屋の素敵なインテリアも昨日とは違う“朝の装い”だ。
ああ、なんて心地いい朝なのだろう。
豪邸の目覚めってこんな感じなのかな?
ああ、お金持ちになりたい。
その為にはハイスペ男子と結婚しなきゃな……。
そう思ったのも束の間、ベッドから立ち上がり、伸びをした瞬間に腰と鈍い痛みが走った。
膝も重く視界もどこかぼやけている。
違和感の正体は、すぐに分かった。
ツインのもう片方のベッドには、私、凛が、まだ静かに眠っていたのだ。
鏡を見るまでもなかった。
私は“絹代おばあちゃん”の身体になっていたのだ。
でも、これはきっと夢に決まっている。
昨夜の星空と素敵なホテルの魔法にかけたれた、少し不思議な夢。
私はそう信じて疑わなかった。
この時までは…。
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