3重の血統者 蠱毒を生き抜いた少年は孤独な王になる

悪玉菌

第一章 蟲毒

第1話 幸せな家族

世界は、静かに終わりへと向かっていた。


――けれど、その朝の黒崎家の食卓には、そんな気配は一つもなかった。


「零(れい)、味噌汁こぼすわよ、そんなにぼーっとしてたら」


キッチンから、母の声が飛んでくる。


ダイニングテーブルの上には、湯気を立てる味噌汁と、焼きたての鮭、きれいな黄色の卵焼き。十二歳の少年――黒崎零は、箸を持ったままニュース画面を見つめていて、ハッと我に返った。


「あ、悪い、母さん」


「んもう。ほら、雪菜(ゆきな)に手本見せてあげて。お兄ちゃんなんだから」


「れーにい、こぼしたらだめー」


向かいの席から、妹の甲高い声が飛んできて、零は思わず苦笑した。


妹、黒崎雪菜。五歳。ふわふわとした茶色がかった髪に、ぱっちりした大きな目。食パンを両手で抱え込むようにしてかじっているその姿は、どう見ても小動物だった。


「お前だってこの前、ミルクこぼして床べちゃべちゃにしたろ」


「それはゆきな、まだちっちゃいからいいの!」


「理不尽だな、おい」


零が肩をすくめると、キッチンから母――黒崎茜が笑いながら振り返った。


「女の子は特別なの。ね? 雪菜」


「とくべつ!」


雪菜が得意げに胸を張る。胸、といってもまだペタンコで、その仕草がまた可笑しい。


そんな三人のやり取りを、新聞――ではなく、薄いタブレット型のニュース端末を片手に父・黒崎誠一が眺めていた。四十代手前、少し伸びた無精ひげに、寝癖のついた黒髪。スーツのジャケットは椅子の背に掛けられ、ワイシャツの袖を肘までまくっている。


「零は男だからな。多少こぼしても大丈夫だ」


「ちょっとあなた、そういうこと言うと雪菜が調子に乗るでしょ」


茜がじろりとにらむと、誠一は「冗談だよ」と笑って両手を上げた。


その笑い声は、どこにでもある、ごく普通の家庭の朝の光景――のように見えた。


窓の外に、黒くそびえ立つ結界塔の姿がなければ。


テレビではなく、キッチンカウンターに据え付けられた壁面モニターが、朝のニュースを淡々と流している。零がさっきまで見ていたのは、それだった。


『――本日午前零時現在、日本国内における魔界浸食率は、 9% と発表されました。世界全体では、ついに52%を突破。国連魔界対策機構の発表によりますと――』


画面の隅に小さく映るグラフ。世界地図の半分以上が、黒ずんだ赤色に塗りつぶされている。十年前、「審判の日」と名づけられたあの日以来、地図から消えた都市は数知れない。


零は、箸を動かしながら、無意識に窓の外へ視線を向けた。


マンションの十階。東側の窓からは、遠くに東京湾が見える。昔は青い海が広がっていたはずのその一帯は、今は高い防壁で囲われ、空には薄く紫がかった霞がかかっていた。湾岸沿いに林立する黒い塔――魔素を吸収し、結界を維持するための「魔素制御塔」。その一本が、朝日に鈍い光を返す。


世界の終わりは、たしかにそこにあった。けれど。


「零、冷めちゃうわよ」


「あ、うん」


目の前の味噌汁から立ちのぼる湯気に意識を引き戻され、零は慌てて箸を動かした。


父の誠一が、ふとニュース端末に目を落とし、低くつぶやく。


「……52%、ねえ。あと十年持つのか、これ」


「やめてよ、朝から縁起でもない」


茜が眉をひそめると、誠一は「悪い悪い」と軽く頭をかいた。


「でも、ほら。新しいSランクハンターが出たってさ。日本人で、二十歳。こいつが派手に活躍してくれれば、多少は希望が持てるだろ」


画面が切り替わり、銀髪の若い男が映し出される。大剣を肩に担ぎ、炎のようなオーラをまとったその姿が、キャスターの興奮気味な声とともにクローズアップされた。


『――通称〈紅蓮の騎士〉。ヨーロッパでの大型ゲート鎮圧で、単独でAランク魔物3体を撃破。専門家は「歴史上最強クラスのハンター」と評しています――』


「すげー……」


零は思わず呟いた。画面の向こうで、男は笑っていた。恐怖を知らないような、まっすぐな笑顔で。


――ハンター。


十年前の「審判の日」以降、魔界から漏れ出した「魔素」によって、一部の人間が異能力に目覚め始めた。彼らはハンターと呼ばれ、魔物と戦い、ゲートを封鎖し、人類を守る存在として持てはやされている。


零のクラスにも、「ハンターになりたい」と公言しているやつが何人かいた。男子の間では、ヒーローやスポーツ選手と同じぐらい、ハンターが憧れの的だ。


「れーにいも、はんたーなるの?」


雪菜が、パンをもぐもぐしながら聞いてくる。


「え? いや……俺は別に……」


言いかけて、零は誠一と茜の視線に気づいた。二人は顔を見合わせ、同時に笑い出す。


「零はヘタレだからねえ。ハンターよりも、研究者とかの方が向いてるんじゃない?」


「ひどくない? 母さん」


「だって、小学生の時、避難訓練で泣きそうになってた子はどこの誰?」


「あ、あれはサイレンがうるさかっただけで……」


「零、お前は泣きながらも、ちゃんと雪菜の手を握ってたろ」


誠一が、優しい声で言った。


「ああいうのを、勇気っていうんだ。強い力があるかどうかより、大事なもんだぞ」


「……別に。普通だし」


零はそっぽを向いた。けれど、胸の奥が少しだけ温かくなる。


雪菜が、そんな兄の袖を引っ張った。


「れーにい、れーにいはゆきなのヒーローなの!」


「ヒーローって、お前……」


「まもってくれるヒーロー!」


にかっと笑う雪菜。その笑顔が、零は昔からたまらなく好きだった。


こんな世界でも、まだ笑っていられる。――この小さなテーブルの上だけは、十年前から何も変わっていないみたいに。


それが、零にとっての「普通」だった。



朝食を終え、慌ただしく身支度を整える。


「ほら零、弁当忘れないでね。今日は好きな唐揚げ入れといたから」


「マジ? やった。ありがと、母さん」


キッチンから受け取った弁当箱は、黒地に赤のラインが入ったシンプルなやつ。中身を想像するだけで、少し気分が上がる。


「雪菜は保育園だから、あとで一緒に行くわね」


「やだー、れーにいといっしょがいいー」


雪菜が椅子から降りて、零の足に抱きつく。


「小学校と保育園は違うだろ。途中まで一緒に行ってやるからさ」


「ほんと?」


「うん。途中の角までな」


「やくそく!」


雪菜が零の指に自分の小さな指を絡めて、「ゆびきりげんまん」と口ずさむ。


そんな妹の頭をくしゃりと撫でてから、零は玄関へ向かった。


玄関には、避難用の簡易マスクと携帯用の防護ポーチが、家族四人分ぶら下がっている。魔素濃度が高くなった時や、近くでゲートが発生した時に使用するためのものだ。


それを見ながら、零は靴ひもを結んだ。


小学校低学年のころは、これを見るだけで不安になった。いつサイレンが鳴るかわからない。いつ、ニュースの中でしか見たことのない「魔物」が、この世界にあふれてくるかわからない。


でも、今は――慣れてしまった。人間は、どんな地獄にだって慣れてしまう生き物だ。


そう言ったのは、誰だったか。


「おーい、零。ちょっとこっち来い」


リビングから父の声がして、零は顔を上げた。誠一が、ネクタイを結びながら立っている。


「ん?」


零が近づくと、誠一は自分の胸ポケットから、小さな黒いカードを取り出した。つや消しの表面に、銀色のラインと、見慣れないロゴマーク。


魔素制御庁・湾岸第七管理区。


「それ、なに?」


「社員証みたいなもんだ。今日から、ちょっと職場が変わるんだよ」


「転勤?」


「まあ、そんなところだ」


誠一は苦笑した。


「前に話しただろ。東京湾の方で、新しい魔素処理プラントができるって。そこに出向だ。しばらくは夜勤も増えるかもしれん。帰りが遅くなる」


「ふーん……身体、気をつけろよ」


零が言うと、誠一は少し意外そうな顔をしてから、ふっと笑った。


「お、今日はやけに心配してくれるじゃないか。やっぱり父さんがいないと寂しい?」


「べ、別に。母さん一人だと大変だろうし。雪菜の面倒とか」


「はいはい、照れ屋さんね」


後ろから茜が口を挟む。


誠一は、そんな二人を眺めながら、少し真面目な声色で続けた。


「でも、心配ないさ。湾岸は結界塔も多いし、ハンター部隊も常駐してる。安全面は、今までの職場よりむしろ厳重だ」


「……でっかいゲート、近くにあるんだろ?」


零は、ニュースで見た映像を思い出す。東京湾の海上に、巨大な黒い「穴」が口を開けている映像。そこから、常に薄赤い霧がたなびいている。


「ああ。『湾岸第七ゲート』な。まあ、俺はあくまで設備管理だから、ゲートそのものに近づくわけじゃない。――約束する。ちゃんと無事に帰ってくるよ」


最後の一言が、妙に胸に引っかかった。


約束する。ちゃんと無事に帰ってくる。


そんなの、当たり前なのに。


零は、その違和感を言葉にできないまま、ただ「そっか」と頷いた。


「れーにい、いこー!」


玄関から、雪菜の声がする。小さなリュックを背負い、防犯ブザーをぶら下げて、玄関マットの上でぴょんぴょん跳ねていた。


「はいはい。じゃ、行ってきます」


「行ってきまーす!」


「いってらっしゃい。気をつけてね」


「零、雪菜から絶対に目を離すなよ」


「わかってるって」


父と母の声を背中に受けながら、零は玄関の扉を開けた。



マンションの廊下に、一歩出た瞬間。


空気が、少しだけ違う。


室内より、わずかに冷たい。わずかにざらついている。


低い位置に設置された空気清浄装置が、淡い青色の光を放ちながら、かすかな唸り音を立てていた。魔素濃度を常に監視し、一定値を超えると自動で吸着・中和する装置だ。


――これが、普通の日常。


零は、雪菜の手を握り、エレベーターへと向かった。


エントランスを出ると、マンション前の通りには、既に何人もの子どもたちが行き交っていた。皆、ランドセルや防災リュックを背負い、同じ方向へと歩いていく。


街路樹の向こう側。道路と歩道を隔てるように、膝の高さほどの金属製の柵がずっと続いている。その向こう、車道には、自衛隊の装甲車と、魔素測定車が二台走り去っていった。


道路標識の下には、「魔界ゲート発生時 避難経路」「最近一か月の魔素平均値」などを示す電子表示が設置されている。小さな電光掲示板に、「本日の魔素濃度:安全レベル」の文字が点滅していた。


「れーにい、きょうもあんぜん?」


「ああ。ほら、緑色だろ。安全」


「よかったぁ」


雪菜が、ほっとしたように零の腕にしがみつく。


零自身も、緑色の表示を見ると、胸の奥のこわばりがほんの少しだけゆるむのを感じた。


世界がどうなっていようと、この街はまだ「守られている」。そう思えるだけで、人は前に進める。


「お、黒崎」


背後から声をかけられ、零は振り向いた。


同じクラスの男子、田中悠斗が手を振っていた。スポーツ刈りに、がっしりした体格。首からは、ハンター協会公式のグッズらしい小さなペンダントが下がっている。


「おはよ、悠斗」


「おはよー、ゆーとにい!」


「お、雪菜ちゃん。今日も可愛いなー」


「えへへ」


悠斗が頭を撫でると、雪菜は嬉しそうに笑った。


そんな二人のやりとりを見ながら、悠斗が零の耳元に顔を近づけ、小声で囁く。


「なあ、ニュース見たか? 新しいSランクハンター。やっべーよな、マジで」


「ああ、さっき父さんが見てた」


「やっぱ、ハンターはかっけーよな。俺、中学入ったらマジでハンター学校受けるつもりだからさ。その時は応援しろよ」


「受かるといいな」


「そこは『絶対受かる』って言えよ!」


笑いながら拳で零の肩を小突く悠斗。その軽さが、零には少しだけ羨ましかった。


――ハンター。


幼いころは、自分だって彼らに憧れていた。テレビの中で魔物を倒し、人々を守る姿に、自分を重ねたこともある。


けれどある日、避難訓練の最中に、担任の先生がぽろりと言った言葉が、零の心にひっかかった。


『ハンターはね、強い人たちよ。でもね、強い人たちだけじゃ世界は守れないの。ここでじっと耐える人たちも、避難経路を作る人たちも、薬を作る人たちも、みんな必要なの』


――自分は、どちら側の人間になるんだろう。


そんなことを考えたのは、小学四年生の時だった。


それから零は、ヒーローになりたいとはあまり思わなくなった。ただ、今目の前にあるものを守れればいい。それが、雪菜であり、父であり、母であり、この小さな日常であればいい。


「じゃあ、ここでバイバイだな」


保育園前の角に着くと、零は足を止めた。


角を曲がった先に、小さな二階建ての保育園が見える。入口には、魔素検知ゲートと簡易結界が設置されており、保護者たちが一人ずつ子どもを連れて中に入っていく。


「れーにいもいっしょがいいー」


「ここからは先生が一緒だろ。ほら、先生来たぞ」


園の門から、明るい笑顔の保育士が手を振っている。雪菜の担任の先生だ。


「雪菜ちゃん、おはよう。今日もお兄ちゃんと一緒に来たのね」


「おはよー!」


「じゃ、雪菜。行けるか?」


「……うん。れーにい、きょうもむかえきてね?」


「ああ。絶対行く」


「やくそく」


小さな指が、もう一度零の指に絡む。


その温もりを、零はしっかりと握り返した。


それから、雪菜は保育士に手を引かれて、門の中へと消えていく。振り返りざま、何度も何度も手を振りながら。


零は、見えなくなるまで手を振り返した。


――この約束だけは、絶対に破りたくない。


その時の零は、本気でそう思っていた。



小学校までの道のりは、もう何百回と歩いたはずなのに、ふとした瞬間に「昔との違い」が目に入る。


通学路の途中にある公園。かつてはブランコや滑り台で賑わっていた場所は、今は半分以上が封鎖され、簡易シェルターと物資倉庫に変わっていた。


錆びたブランコの向こう側に、灰色のコンテナが無造作に積み上げられている。「都内避難所 第二十八ブロック」と書かれた表示。そこに、色あせた「ようこそ ○○公園へ」の看板が、取り残されたように立っている。


零は、その対比から目を背けるように、歩幅を少しだけ広げた。


教室に入ると、いつものざわめきが迎えてくれた。


「おはよー」「ねえねえ昨日のゲームさ」「お前んちの結界塔、見える?」「昨日、うちの親がまた避難グッズ買ってさー」


魔界の話と、ゲームの話と、宿題の話が、何の区別もなく飛び交う。


黒板の脇には、「今月の避難訓練日」と書かれた紙が貼られている。その隣には、「今月のハンターランキング」。子ども向けの雑誌の切り抜きが、カラフルに飾られていた。


担任の佐伯先生が教室に入ってきて、朝の会が始まる。


「はい、席についてー。おはようございます」


「おはようございます!」


「今日も元気ね。まずは連絡から。えー、来週の月曜日に、またゲート想定の避難訓練を行います。前回よりも時間を短くするのが目標です。はい、零くん、何か言いたそうな顔してますね?」


「え、いや、何も」


いきなり名前を出されて、零は慌てて背筋を伸ばした。クラスの一部からクスクスと笑い声が漏れる。


佐伯先生は、三十代くらいの女性で、いつも明るく、でも時々ものすごく怖い。


「みんなも言ってたけどね、前回の訓練で零くんが階段を降りるのにちょっと手間取ってたって。……雪菜ちゃんのこと、心配だったんでしょ?」


「……はい」


零は視線を落とした。


「お兄ちゃんだもんね。でも、訓練の時は先生たちに任せて。零くんは零くんの目の前のことに集中していいの。いい?」


「……わかりました」


「よろしい」


先生は満足そうに頷いた。


「それから、昨日のニュースでも言ってましたが、今月末に行われる『防衛の日』記念式典で、うちの学校からも代表で二人、平和メッセージを発表してもらいます。希望者は、今日の帰りまでに担任まで」


一斉に、ざわ……とどよめきが起こる。


「やべー、テレビ出れるかもじゃん」「ハンターも来るんだろ?」「てか、あれって前は戦没者追悼式って名前じゃなかったっけ?」


教室の空気がざわつく中、零はなんとなく窓の外に目をやった。


校舎の向こう側。遠くに、薄く揺らめくものが見える。


空気の歪み。蜃気楼――のようでいて、そこからは、よく見ると黒い霧が少しずつ漏れ出している。


小型のゲートだ。学校から直線距離で数キロ先にある、そのゲートは、ここからはぽつんとした黒点にしか見えない。それでも、見慣れた街の景色に混じっていることが、どこか現実感を奪っていた。


「黒崎」


隣の席から、ひそひそ声が飛んでくる。悠斗だ。


「なに」


「お前、メッセージ発表とか、そういうのやるタイプ?」


「絶対やらない」


「だよなー。俺も。ああいうの、女子が張り切るやつだろ」


二人で意味もなく笑い合う。そんなくだらないやりとりが、零は嫌いじゃなかった。



授業中も、ふとした拍子に耳を澄ませてしまう。


――サイレンは鳴らないか。校内放送は入らないか。


そんな癖は、十年間消えたことがない。


一時間目、二時間目、三時間目と過ぎていき、昼休みになった。


弁当箱のふたを開けると、本当に唐揚げがぎっしりと詰まっていて、零は思わずにやけた。


「うお、うまそうじゃん。交換してくれよ、一個」


「やだ。これは俺のだ」


「ケチ。……じゃあ一個だけ」


「だから、やだって」


悠斗との軽口を交わしながら、零は黙々と弁当をかき込む。唐揚げの味は、いつも通りだった。


午後の授業。五時間目の途中で、突然、校内に低い電子音が鳴り響いた。


――ビーッ、ビーッ、ビーッ。


全身の毛穴が、ぞわりと開く。


「はい、全員その場で立って、机の下に潜って!」


佐伯先生の声が、いつもより少しだけ高くなる。


教室のあちこちで、椅子がひっくり返る音、机がきしむ音。零も反射的に机の下にもぐりこみ、両手で頭を抱えた。


サイレンの音が、耳の奥を刺す。


『こちら防災センター。湾岸第七ゲート付近において、中型魔物の漏出が確認されました。現在、ハンター部隊および自衛隊が対応中です。校内の皆さんは――』


天井のスピーカーから、落ち着いた男性の声が流れる。その言葉を、零は半分も聞いていなかった。


――湾岸第七ゲート。


父が、今日から向かうと言っていた場所だ。


零は無意識に、ポケットの中で拳を握りしめる。爪が掌に食い込む感覚。


大丈夫だ。父さんは設備管理だ。直接戦ったりはしない。結界もある。ハンターもいる。


頭の中で、そんな言葉を何度も繰り返す。


ふと、隣の机の下から、かすかなすすり泣きが聞こえた。小柄な女子、宮内が震えている。


「だ、大丈夫だから」


そう声をかけたいのに、喉がうまく動かなかった。


サイレンは、五分ほどで止んだ。


結局、魔物はゲート周辺から出る前に鎮圧されたらしい。校内放送が、「安全が確認されました」と繰り返す。


教室の空気が、少しずつゆるんでいく。


誰かが、「またかよー」と疲れたように笑った。


――またかよ。


十年前なら、「世界の終わり」を感じさせるような事態だったはずのことが、今では「またか」で片づけられる。


それが、この世界の「普通」だった。



放課後。


「じゃあな、黒崎。また明日」


「ああ」


校門で悠斗と別れ、零は足早に保育園へ向かった。


サイレンが鳴った日は、なんとなく雪菜の顔を見るまで落ち着かない。母が迎えに来ているかもしれないが、それでも自分の目で確かめたかった。


保育園の門の前には、数人の保護者が集まっていた。さっきのサイレンのせいか、皆どこかそわそわしている。


「あ、零くん」


茜の声がして、零はほっと息をついた。母は既に雪菜を迎えに来ており、手をつないで立っていた。


「れーにい!」


雪菜が駆け寄ってくる。零は思わず、その小さな体を抱きしめた。


「ちょ、零? どうしたの、いきなり」


「……別に」


自分でも驚くくらい、腕に力が入っていた。雪菜が「くるしいー」と笑いながらもがく。


「さっきサイレン鳴っただろ。大丈夫だったか?」


「だいじょーぶだったよ! せんせいが、ちゃんとあなのおへやにいこうってしてくれてー」


「あなのお部屋?」


「ああ、地下の部屋のことよ。防空壕みたいな。あそこ、絵本とかおもちゃとか置いてあってね。子どもたちが怖がらないようにしてあるの」


茜が説明する。


「でも、今日は途中で『安全になりました』って放送があったから、向かわないうちに終わっちゃったわ」


「そっか……」


零は、胸の奥の何かがようやくほどけていくのを感じた。


「父さんは?」


「今日は遅くなるって。初日から夜までかかるらしいわよ。『何かあったらすぐ連絡する』って言ってたから、大丈夫」


茜はそう言いながらも、ポケットに入れたスマホを何度も触っている。その仕草に、零は気づかないふりをした。


「じゃ、帰りましょ。今日はカレーよ」


「カレー! やったー!」


雪菜が飛び跳ねる。


結局、零にできることは、いつも通りに笑って、いつも通りに家に帰ることだけだ。



夕暮れの空は、薄いオレンジ色と、遠くのゲートから漏れ出す紫色の霧が混じり合って、不思議な色をしていた。


駅前のスーパーには、「防災グッズ特売」のポップが踊り、通りの向こうでは、「ハンター協会公式グッズ販売所」の屋台が賑わっている。


「れーにい、あれあれ! くまさんのマスク!」


「はいはい。今度な」


「やくそく!」


「……約束しすぎだろ、お前」


零は笑いながら、雪菜の頭を撫でた。


マンションに戻り、エレベーターで十階まで上がる。


廊下の窓から見える東京湾は、夕闇の中で黒く沈んでいた。その向こうに、さっき校内放送で名前を聞いたばかりの「湾岸第七ゲート」が、微かに揺らめいている。


父は、今あの近くにいる。


部屋の灯りをつけると、いつもの匂いが迎えてくれた。


ほんのりとした洗剤の匂いと、キッチンから漂ってくるスパイスの香り。リビングのソファには、父の読みかけの雑誌が置きっぱなしになっている。


「れーにい、ゲームしよ!」


「宿題終わってからな」


「えー」


「零の言う通りよ、雪菜。ほら、先にやっちゃいなさい」


「はーい……」


渋々といった様子で、自分の机に向かう雪菜。その背中を見ながら、零はリビングのテーブルに教科書を広げた。


テレビでは、またニュースが流れている。


『――本日午後、湾岸第七ゲート周辺において、中型魔物数体の漏出が確認されましたが、ハンター部隊および自衛隊の迅速な対応により、市街地への被害はありませんでした。負傷者は、ハンター一名の軽傷のみと――』


アナウンサーの落ち着いた声。画面には、防壁の向こう側でうごめく黒い影と、それに立ち向かうハンターたちの姿が、遠目に映っている。


父の職場は、きっとこのカメラの死角のどこかにある。


「……父さん、大丈夫なんだよな」


口に出してみると、言葉は思ったより軽く、簡単だった。


その簡単さが、逆に怖い。


茜がキッチンから顔を出し、零の様子をちらりと伺った。


「大丈夫よ。あなたのお父さん、意外と丈夫なんだから」


「意外とってなんだよ」


「若いころ、夜中まで飲み歩いてても、次の日ケロッとしてたんだから。魔素よりアルコールの方が怖いわよ、あの人は」


冗談めかした言葉に、零は吹き出してしまう。


笑い声が、カレーの匂いと混ざって、部屋を満たしていく。


――ああ、これが、俺の世界なんだ。


サイレンも、ニュースも、ゲートも、魔物も。全部ひっくるめて。


その中心にあるのは、こうして並んで座る家族の背中と、食卓の上のご飯の湯気と、くだらない冗談だ。



夜も更けてきたころ。


食器を片づけ、お風呂を済ませ、雪菜が先に布団に潜り込む。


「れーにいも、はやくー」


「今日はちょっと、宿題残ってるからさ。先寝てろ」


「やだー、いっしょがいいー」


「はいはい。じゃあこれ終わったらすぐ行くから。約束」


「ほんと?」


「ほんと」


何度目かわからない約束を交わして、零は自分の机に向かう。


リビングでは、茜がソファに座り、スマホをじっと見つめていた。画面には、「既読」の文字と、誠一の名前が並んでいる。


「母さん、父さんから?」


「うん。『ちょっとトラブルで遅くなりそう。でも大丈夫』だって」


「ふーん」


零は、わざとそっけなく返事をした。


本当は、「どんなトラブル」とか、「大丈夫って本当に?」とか、聞きたいことはいくつもあった。けれど、それを口にした瞬間、この「普通の夜」が壊れてしまいそうな気がして、喉の奥で言葉を噛み殺した。


窓の外を見れば、東京の夜景が広がっている。


ビルの明かり、車のヘッドライト、結界塔の青白い光。その向こうに、湾岸の暗いシルエットと、時折ちらつく警戒灯。


零は、窓ガラスに映る自分の姿を見つめた。


黒い髪。少し眠たそうな目。どこにでもいる、普通の十二歳の少年。


――俺なんかが、世界をどうこうできるわけじゃない。


そんなことは、とっくにわかっている。


だからせめて、この小さな世界だけは守りたい。


雪菜の「ヒーロー」でいるくらいなら、俺にもできるはずだ。


そう思っていた。


本気で、そう信じていた。



「零」


不意に、茜に呼びかけられ、零は振り向いた。


「なに?」


「これ」


茜は、テーブルの上に、小さな包みを置いた。手のひらサイズの四角い箱。青いリボンで結ばれている。


「なに、これ」


「開けてみなさい」


促されるままにリボンを解き、箱を開けると、中から銀色に光るものが現れた。


細いチェーンのついた、シンプルなプレート型のネックレス。プレートの表面には、小さく「REI」と刻まれている。


「……なにこれ」


「高校生になったら、つけてもいいかなーって思って買っといたんだけど。早いけど、あげる」


「なんで、急に」


「なんとなく、そういう気分なのよ」


茜は、少しだけ目を細めた。


「世界がどうなってもね、あなただけは、あなただってわかるように。――自分の名前、ちゃんと大事にしなさいよ」


「……そんなの、当たり前だろ」


「当たり前が、一番壊れやすいのよ」


誰に向かって言っているのか、自分にも向けているのか、茜の声には不思議な重さがあった。


零は、改めてプレートを見つめる。


そこには、たしかに「REI」と刻まれていた。


――名前。


自分を、自分として呼んでくれる印。


それが、この先どれほどの意味を持つことになるのかを、この時の零はまだ知らない。


「ありがとな、母さん」


素直にそう言うと、茜は嬉しそうに笑った。


「うん。似合ってるわよ」


「まだつけねーよ。高校生になってからって言ったの、母さんだし」


「そうだったかしら?」


軽口を交わしながらも、零は無意識に、プレートをぎゅっと握りしめていた。


指先に伝わる、ひんやりとした金属の感触。


それは、この先訪れる「地獄」の冷たさとは、まるで違うものだった。



その夜、零はいつもより少しだけ遅く布団に潜り込んだ。


隣の布団では、雪菜がすやすやと寝息を立てている。小さな背中が、規則正しく上下する。


部屋の天井には、昔二人で貼った蓄光シールの星が、ほのかに光っていた。


「……父さん、まだ帰ってねえのかな」


天井を見つめながら呟く。


リビングからは、テレビの音が微かに聞こえてくる。ニュースではなく、どうでもいいバラエティ番組の笑い声。


母は、わざとそういう番組をつけているのだろう。


サイレンは鳴っていない。窓の外も静かだ。


きっと、何も起きない。


明日もまた、今日と同じように、少しだけ魔界に侵食された日常が続いていく。


零は、半分眠りかけた意識の中で、そんな「当たり前」を信じ込もうとした。


けれど。


その「当たり前」が、あと数日で粉々に砕け散ることを、この時の誰も知らない。


十二歳の少年も。


湾岸の施設で夜勤に就いている男も。


リビングでスマホを握りしめている女も。


そして、世界を影から操ろうとしている者たちでさえ――。


この小さな家の中にある「幸せな家族」が、まもなく「地獄」へと投げ込まれることを、まだ予感すらしていなかった。


それでも今は、ただ静かに、夜が更けていく。


零は、隣の雪菜の手を、自分の手でそっと握った。


小さな指の温もりを確かめるように。


――守る。


ぼんやりとした意識の底で、そんな言葉が浮かんだ。


この手だけは、離さない。


世界がどうなろうと。

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