第三話 露と消ゆ、花に生き
母から受け継いだ空間魔法は、気体を不定形のスライムのような『手』に変えることができる。
この魔法の真価は、その破壊力ではなく、繊細な
金属の鍵は不確定要素が多すぎる。
鍵穴に指先を添え、魔法で内部構造を感じ取る。
一般的なレバータンブラー錠だ。中のレバーを持ち上げようとして――違和感に気づく。
抵抗がない。最初から開いている。
イノセンから鍵は預かっている。疲労のせいでかけ忘れたのか、それとも――先客がいるのか。
気配を殺し、扉を数ミリだけ押し開ける。隙間から、足元を這うような冷気が漏れ出した。
小さな手鏡を取り出し、隙間から差し入れる。反射光が捉えたのは、壁に沿って並ぶ、氷の魔石で冷却された石造りの棚。
その冷え切った空間の中で、一つの石台だけが異質だった。
白い布がめくられ、頭部を露わにした男性の遺体。
そして、その傍らに座り込む、髪の乱れた村娘姿の少女。年齢は十六歳前後といったところか。
「パパ……」
氷点下の
鼻をつくのは、冷気にも消しきれない独特な薬草の匂い。床に散らばっているのは、漢方薬の包み紙か。
何が起こったかは明白だ。
「自殺する気か!?」
救うか救わぬか――考えるより先に、体が動いた。
ドアを引き開け、少女のもとへ駆け寄る。死者
カルテ(2)によると、彼は生前喘息を患い、発作時には
床の薬は、その形状と匂いから麻黄で間違いない。
気管支を広げる特効薬も、過剰摂取すれば心臓を限界まで跳ねさせ、
少女がぼんやりとこちらを見上げた。焦点が定まっていない。
近づくだけで、早鐘のような鼓動が聞こえてくる。顔は
この低温環境下で、少女の体からは湯気が立ち上っていた。その熱気の中でも、泣き腫らした目と、頬を伝う涙の跡が痛々しいほど鮮明に見えた。
――少女を『父親を愛するただの娘』だと推測し、油断したのが過ちだった。
ドォォン!
少女を中心に、衝撃の奔流が炸裂した。
無意識の防衛本能か。私は数メートル吹き飛ばされ、背中を棚に打ち付けた。
風魔法だ。
他にもヒントがあった。例えば、鍵を持たない少女はどうやってここに潜入したのか。
「くそっ……!」
魔法を隠す余裕はない。即座に周囲の空気を変質させる。衝撃を吸収できる高粘度の『魔法空気』を壁として展開し、少女へと突進した。
本来、胃洗浄には
私は少女を組み敷き、上体を壁にもたれさせ、顎を引かせて気道を確保する。左手で彼女の顎をこじ開け、右手で魔法空気を送り込む。
私の意志で制御された魔法空気は、食道を通り、胃、そして十二指腸へと到達する。
「んぐっ……」
苦しげな呻きと共に、少女の風魔法が霧散した。
胃の中を満たした魔法空気を引き抜く。飲み込んだ麻黄を丸ごと絡め取る、魔法による強制胃洗浄だ。
その時、ようやく現状を客観視する余裕が戻った。
私は美少女を押し倒し、馬乗りになり、口から謎の粘液のようなものを引き抜いている。服は乱れ、顔は紅潮し、瞳は潤んで虚ろ。
医療行為としては完璧だが、ビジュアルはどう見ても変質者の凶行だ。しかも、少女の父親の遺体の目の前で。
背筋に冷たいものが走る。扉は閉めたか? 誰にも見られていないよな?
胃液と麻黄をたっぷり含んだ魔法空気を引き抜く時間は、耐え難いほどに長く感じられた。
処置を終え、私は少女を空いている遺体安置用の石台へ運び、手首の脈を診る。
暴走していた脈動は収まりつつあり、呼吸も平穏を取り戻している。中毒死の線は回避できたが、経過観察は依然として必要だ。
でも、また厄介なことに巻き込まれてしまった。これで村の問題を解決するだけでなく、この少女の背景も調査しなければならん。……やはり、口封じに殺すのが最も合理的な選択か。
――冗談だ。
国内の貴族の落とし子である可能性もあるが、より大きな可能性としては国外から亡命してきた魔法使いである。
魔法は
そもそも、風魔法使いの証である緑の髪と瞳を偽装している時点で、この少女には隠すものがある。この糸口を
私は昏睡状態の少女の顔を覗き込み、まぶたを裏返し、髪の根元を入念に確認した。
「……ない?」
風属性の証である『緑』ではない。ごくありふれた、茶色い髪と瞳だ。
だが、先ほどの風魔法は高出力だった。
強力な魔力を持つ者は必ずその属性色を身体的特徴として現す。それがこの世界の絶対的な法則。
だが、髪を染めた痕跡もなければ、瞳の色を変える細工も見当たらない。
属性色を持たずに、あれほどの魔力を行使する人間など存在しないはずだ。背筋に奇妙な寒気が走る。だが、今は考えている時間はない。
少女が目を開けた。
予想していたような恐怖も感謝もない。ただ、
「……もっと早く、来ていたら」
少女の視線はアスクレピオスの印に止まった。父が生きている間に、まともな医者が来ていれば――という、絶望と諦めの吐露だ。
「どうだろうか」
私は短く答える。
イノセンは決して不真面目な医者ではない。それに、医学に絶対はない。だが、少女の沈黙は雄弁に物語っていた。この子はもう、この世の何にも期待していない。
このまま質問を続けても意味はない。先ほど使った魔法はすでに痕跡なく空気へと戻り、吐き出させた胃
寒さで少女は微かに震え始めていた。場所を変えよう。
私は少女を抱き上げる。抵抗はなく、人形のように大人しい。だが、その表情は淡々として、漂う雰囲気は、既に命を絶った者のように、この世との縁が切れたかのようだ。
これは本当に死を望む者だけが陥る状態である。こればかりは、私もどうしようもない。
イノセンに「この少女が麻黄で自殺を図ったが、処置は済んでいる」とだけ告げ、身柄を預ける。
詳しい事情聴取と、あの異常な体質の調査は後回しだ。今はやるべきことがある。
再び、霊安室へ戻った。
冷たい遺体と対面するのは、熱を帯びた生きた人間と対峙するより、はるかに気が楽だった。
私は懐から鋼鉄のメスを取り出し、
正中切開。腹膜を開き、腸管を露出させる。
死者が砕けた光魔法石を飲み込んだのは一週間以上前。石そのものは既に排出されている可能性が高い。
だが、生物の体は嘘をつかない。そこには必ず痕跡が残っている。
大腸の一部を切除し、内壁を露わにする。端々吻合の必要はない。皮膚を縫合する。
「……やはりな」
肉眼ではっきりと確認できた。
腸の粘膜は赤くただれ、その表面を覆い尽くすように、黄白色の苔のような膜がびっしりと張り付いている。
標本を採取し、メーデイアがくれた顕微鏡で観察する。腸管の組織像は粘膜損傷と炎症反応の特徴を示している。本来、腸内を守るべき常在菌が、『浄化魔法』と『光魔法石』の相乗効果によって破壊された。
その結果、魔法耐性を持つ一種の桿菌が、空白となった腸内で爆発的に増殖し、致死性の毒素を撒き散らした。
コッホの原則を用いて、これが伝染病ではないことを改めて証明する必要があるだろうか?
第一公理『健康な生物には存在しないはず』に反している。何しろこれは腸内細菌叢の常在菌だ。でも、何事にも例外はある。今回の件が、まさにそれを教えてくれたのではないか?
それはさておき、今確かなのは、患者を殺したのは未知の奇病ではない。
良かれと思って振るわれた、無知な『正義の魔法』だ。
新しく発見された病気に名前をつけよう。
この病気は偽装が得意だ。さらに、他の疾患のようにバイオフィルムを形成するのではなく、セルロースと壊死細胞からなる偽膜を形成する。
そうだ、『偽膜性腸炎』と呼ぼう。
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