第6話 雪斎と方菊丸のとある一日

寺の朝は早い。季節にもよるが朝の四時には起床となる。

寺には、修行中の僧侶の他に僧侶となる儀式である得度の儀を済ませていない子供もいた。

そんな得度を済ませていない子供は童子と呼ばれている。

童子は寺の雑事に関わりながら多くのことを学んでいく。

この時代の寺は、大名やその土地の有力者の子弟の教育機関としての役割も持っていた。

多くの書物に触れて学べる場は、寺ぐらいしかなかったからである。

当然、寺の規模にもよるが、それぞれの寺には多くの書物が保管されていた。

大名や有力国衆の嫡男で家を継ぐ者は、傅役が教えるかもしくは僧侶がやってきて教える。もしくは定期的に寺に通いながら学ぶ。

家を継ぐ予定の無い者達の内、家に残り嫡男を補佐するもの以外の多くは寺に入り、やがて得度の儀を経て僧侶となっていくことが多い。

たとえ僧侶となっても、家に残っている嫡男やその予備として残された子が死んで後を継ぐものがいなくなれば、家に呼び戻され当主となることもある。

子供は多く生まれても、衛生状態の悪い時代であるため、病などで幼くして死んでしまうことも多い。

もしくは、乱世の世であるため戦で当主・嫡男・その弟までも一度に戦死することも珍しくもなかった。

そのため、寺に入って僧侶となっても若いうちは、呼び戻される可能性があるため、武家の子弟はしっかりとした教養を身につけなければならないとされていた。


雪斎は,魂の奥底の井原慎介の知識により歴史改変を行うつもりのため,方菊丸を早いうちに武将としての知識を身につけさせるべきと判断。

他の童子よりもあえて深く濃い教育を施すことを決めて実行していた。


朝の坐禅とお勤めを終えると遅い朝食となる。

この時代は一日二食の時代。

遅い朝食は稗や粟などの雑穀を主体としたご飯と一汁一菜。

それをしっかりと噛み締めながら食べていく。

朝食が終わると掃除などの雑事を行う。


童子である方菊丸は,まだまだ幼く体も小さいため、雑事に関しては手の届く範囲で簡単な拭き掃除だけをするように言われ、黙々と拭き掃除をしていた。

手桶に汲まれた冷たい水で雑巾を絞る。

小さな手で雑巾を絞り拭き掃除を繰り返していく。


武将としての教育を施すからと言って雑事を疎かにするつもりは無い。

雪斎は雑事は全てに通じると考えていた。

細かな雑事ができない,疎かにするものは,結果として大成することができない。

雑事を疎かにしていると口先だけのものが出来上がると思っていた。

庵原慎介の魂も仕事の雑事をまともにできない者は,結果として仕事も上手くできない者たちが多いとの感情が伝わって来る。

そのため,厳しくとも幼い方菊丸が出来ることから徐々にさせているのである。


拭き掃除の雑事が終わると雪斎のところで字を覚えて書く練習である。

黙々と炭を解き,筆に炭をつけると,ひたすら字を書いて覚えていく。

雪斎は微笑みながらその様子を見守り,字の説明と書き順を示す。

方菊丸が必死に字を書いていると時々雪斎から間違いの指摘を受ける。

素直に間違いを受け入れすぐに直し正しい字でひたすら書いていく。

幼子とは思えぬほどの集中力を発揮しているとあっという間に一刻が過ぎていた。


「方菊丸。良い出来でした。少し休んだら,軍学についての解説をします。いいですね」

「はい,大丈夫です」


雪斎から良い出来だったと褒められ嬉しそうな方菊丸。

しばらくすると雪斎は,方菊丸相手に孫子の解説を始める。


「師匠は,書物を開かないのですか」

「私は全て覚えていますから書物を開く必要がないのです」

「えっ・・本当ですか」

「本当ですよ」


雪斎は目の前の机の上にある孫子を開くこともなく,孫子を語り始める。

軍学書である孫子を澱みなく語っていく雪斎。

方菊丸は,その姿に驚くと同時に畏敬の念にも似た眼差しをしていた。


「すごい!」

「方菊丸も出来るようになりますからね」

「えっ・出来るようになるのですか」

「すぐには無理でも,諦めずに徐々に覚えていけばいいのです。そうすればやがて多くのことを覚えることができます。大切なことは諦めないことですよ」


幼い方菊丸でも分かるように,できるだけ分かりやすく解説をすることを心がけ,話し方自体も意識してゆっくりと話しながら解説していく。

軍学の解説は他の僧侶たちと比較して,雪斎の解説は圧倒的に分かりやすく深い話をするため,時折他の武家出身の僧侶たちや他の童子たちも聞きに来るほどであった。

しかも,書物を見ずに話をしている。

その圧倒的な知識と内容に誰もが圧倒されていく。

静寂さの中で雪斎の声が静かに響き渡り,時々方菊丸が幼い声で質問をする。

方菊丸は雪斎の講義に負けずについていき、教えている雪斎も驚くほどの勢いで教えを自らのもにとしていく。

軍学の講義が終わったところに、善得寺を預かる琴渓承舜きんけいしょうしゅんが部屋に入ってきた。


「熱心で結構結構」


和かな笑顔で二人を見ている。


「熱心なのは良いが少々詰め込みすぎではないか。もう少しゆっくりと教えたらどうだ」

「これは琴渓承舜様。方菊丸があまりに熱心なものでつい力が入ってしまいまして」


雪斎の教える内容が詰め込みすぎではないかと危惧してのことであった。


「琴渓承舜様。私は問題ありません。もっと深く濃く学びたいくらいです」


方菊丸の言葉に驚きの表情を見せる琴渓承舜。


「これは驚いた。これほどまでに深く濃く学びながら、まだ足りないと言われるか」

「はい」

「これは先が楽しみなことよ」


嬉しそうな笑顔を見せながら部屋を出ていく。

琴渓承舜は部屋を出ると小声で呟いていた。


「方菊丸は伏龍鳳雛たる存在なのかもしれん。殻を破り大きく羽ばたくか、それともただの僧侶のままで終わるか、さてさてどうなることやら。先の楽しみが増えて結構なことよ」



部屋の中では軍学が終われば,漢詩,仏典の解説。

とても幼子に教えるような内容ではないが,軍学と同じように出来るだけ分かりやすくすることを心がけて教えていく。

そんなことを繰り返していると瞬く間に時間が過ぎていく。


夕食の時間となるが,夕食は雑穀に一汁二菜。

夕食が終わると再び講義の続きである。

雪斎による深く濃い教育,それに必死についていこうとしている方菊丸。


「今日はここまでにしておきましょう」


雪斎の終わりの声でようやく一日が終わるのであった。

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