陰の孤児院

Enu.(エヌ)

プロローグ【黎明まだ陰の名を知らず。】

【ロンドンの街】


1962年———ロンドン。

坂を下る風は、笛のように細く鳴っていた。

朝、まだきの石畳みは濡れた記憶を抱えているかのように黒く、遠くに見える時計塔の輪郭が薄く震えていた。あの塔—ビックベンの尖塔が、まだ眠気を引きずった街の空に冷たく突き出している。


坂の途中、レンガの壁が寄り添う小さなカフェのテラスに、2つの丸テーブルがあり、それぞれのテーブルに2つの椅子が向かい合うように置いてあった。

テーブルのうちの、ひとつに置かれた皿には簡素な朝食がある。パン一切れにバターの小袋と、バターナイフ。熱いミルクが注がれただだけの、この店で3ポンド。(日本円で約620円〜630円)

の一番安いセットがテーブルに載っていた。痩せこけた男はそれに手をつけず、空いた眼差しを遠くに投げていた。彼の唇の端はわずかに乾いて、朝の冷気を吐いていた。


向かい側の席に座る「男」は、新聞の折れ間からその姿を窺った。

彼の手は静かで、折り目を追う指先だけが朝の空気の中で動いている。

男が視線を坂の方にやると坂の向こうから、2台の車が降りてくる、白地に青いラインの入ったバンと黒い車、白地のバンの側面には、

(Community Aid)と小さく記してあった。その男は2台の車が降りてくるとピクッとわずかに肩を揺らす。


通りの向こうに黒い車の方がとまり、ガラスの奥の男がこちらを見ているように思えた。だが視線が交わると、ガラスの中の男はサッと目を逸らした。

——「男」は平然と何事もなかったかのように

新聞に向き直った。









           1、






【男の黒い”目”】


子共達の笑い声が通りの向こうから不釣り合いに楽しげに聞こえた。朝早くしてはしゃぐ顔を近所の女主人が窓から叱る。子供達は笑いながら走ってゆき、曲がり角の向こうで小さな足音が消えていった。その庶民のざわめきが、テラスの二人を外側から包む。


「賑やかになりますね」


男はふと塔を眺めながら、ポツリと言った。言葉は風に溶けそうで、同時に針のようにここにへ戻ってきた。


痩せこけた男はほとんど声にならないうなずきを返した。彼の目は虚で、どこか遠くの一点を見つめている。皿のパンには手を触れず、バックの縁に指をかける。男の指先はふとバックの中へ滑り込み、バターナイフを押し込むようにして蓋をした。何のために隠すのか、そこには笑いも躊躇もない仕草だけがあった。


「私は9年ぶりに、ドイツから、——ここに戻ってきたんです。生まれ育ったこの街に。」

男の声は穏やかだが、記憶を一枚ずつ剥がすように慎重だった。昨日、この店の店主から「王室祝日【Royal Celebration Day】だ」と聞いて、ふと昔を思い出したのだと彼は続ける。


「まぁ、これを”生まれ育った”と言っても、私は捨て子で、孤児だったんですけどね」


その言葉が、テラスの空気を一瞬だけ静止さた。痩せこけた男の表情は、すぐには変わらなかった。ただ、瞳の奥がほんの僅かにキュッと縮まるような、瞬きが止まる気配があった。けれど彼は言葉を狭めず、しばらくただ黙っていた。


「ここの孤児院は、”あの事件”の後、地域一帯で閉鎖されてしまったんです。」


男は新聞の端をつまみ、ページをゆっくりと寄せるページの擦れる音が、波のように二人の間を往復した。


痩せこけた男がようやく口を開く。

「君は、ここにくる前、どこに住んでいたのかね?」


「ハーメルン”(Hameln)”です。」


男の声は淡々として、しかしどこか確かな重みがあった。二つの言葉——街の名と故郷の告白は、知らぬ間にテラスの景色を軋ませる。


痩せこけた男はいったん視線を逸らしたが、すぐに戻し、まじまじと男の顔を見つめた。

その目にわずかな安堵がよぎると、何事もなかったかのようにまたパンへと向き直った。


男の瞳は、向かい側の男の様子を冷たく見据えた、光を吸い込むような、黒だった。周囲の景色を何ひとつ映さない深淵のような色。

男の、腕の秒針がキラリと光り、

男は沈黙を紛らわすように続けた。


「貴方もこの街で生まれたんですか?」


痩せこけた男は、ゆっくりと呼吸をしてから、調子を取り戻したように


「………ああ」と短く答える。


「差し支えなければ——私の昔話を聞いてはくれませんか?

ほらこうして誰かに話すという機会というのがなかなか無くてね。

——10年前の”あの事件”のことを。

大抵の人は、もうすっかり忘れてしまったようで、私の話を信じてくれないんです。

けれどあなたのように長くこの街に住んでる方なら……何か、覚えてる”事実”もあるでしょう?」


痩せこけた男は、乾いた唇を動かし


「聞こうか…丁度、退屈していたところだよ」


と言い、皺だらけの顔でニカッと笑った。

その歯には、まばらの金歯が光った。


男は手に持っていた、新聞を綺麗にたたみ両手で軽くまとめると、スッと立ち上がり、視線を車に向けた。その後、男は静かに痩せこけた男の向かいの椅子に座り、男は笑顔でこう切り出した。


「では——あの頃。私が聞いた、事件の出発点となった孤児院の話を聞いていただきたい。」


その時、風がカフェの隙間をすり抜け、テーブルのカップが細い音を鳴らした。

ミルクの白い渦が静かに巻き上がり、まるでこれから語られる過去の深淵へと誘うようにゆっくりと底へ沈んでいった。


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