絆~トワナルオモイ――

和泉将樹@猫部

二人の出会い

第1話 脱走

 に ・ げ ・ な ・ さ ・ い


 突然頭に響いたその言葉は、少女の全思考を支配した。

 今まで認識すらしなかった意識の奥底から、全てを貫いてきたかのように表層へと突然響いた声。

 それが、それまでの少女の思考すべてを、一瞬で完全に上書きした。

 全行動、全思考が、そのたった五文字の言葉に従わなければならないという本能に等しい衝動で、全て埋め尽くされる。その直前までの思考、意志は完全に失われていた。

 ただ、その声の指示する、たった一言だけ。

 そしてそれを実行するためだけに、少女は制御リミッターを解除し、全能力を解放した。


(逃げる――どこへ?)


 当然の疑問。

 だがそれも、直ぐに霧散する。

 逃げるべき明確な場所は分からなくても、今いるこの場所を出なければならない、ということだけは明確だった。


 わずかに脳裏にノイズが走る。

 意識の端にわずかに残った『何か』が、直ちに行動の制止を命じてくる。

 だがそれは、すぐに先ほどの思考に打ち消され、消滅した。

 そしてよりクリアになった思考が、先の命令を果たすための最適解を導き出す。


(この通路、ほぼまっすぐ)


 少女は一気に駆け出した。

 途中、最初は白衣をまとった男たちが制止しようとするが、少女を止められる者はいない。そもそもで、身体能力が違い過ぎる。

 その速度は人間の限界を完全に超え、人が立ちふさがろうとすれば、少女は造作なくその上を飛び越えた。


 何から逃げるのか。そもそも逃げるべきなのか。それすらも分からない。

 ただ、この場所にいてはならない。逃げなければならない。

 それだけが疑いようのない事実として、少女の心を支配する。


「!?」


 足が滑った。

 あまりに勢いがついていた身体が、宙に浮く。

 見ると、床に潤滑剤が撒かれていた。

 侵入者対策か、または脱走者対策か。


 だが。


 少女は床に激突する前に、手をかざした。

 そしてその手は、床よりわずか一センチほどの高さで、まるで何か透明な床を支えにしたかのように、少女の体を支える。

 そして、その手を支えに自分の体を前に出し――今度は足が、やはり宙を踏みしめた。

 これならば、滑る床も関係ない。

 なぜそんなことが出来るかなど疑問を持つことはない。ただ、自分には今そうできるというのが分かっている。だから、なんら疑問を持たなかった。


 廊下を駆け抜け、ただ走る。

 途中シャッターが下りている場所もあったが――。


け)


 そう念じると、シャッターが開く。

 理屈などわからないが、開くのであれば通り抜けるだけだ。


 やがて制止する人が鎮圧用の電磁スタンバトンを持っている者に変わったが、やはり少女を捉えることはできない。

 その者たちは怒号を上げているようだが、耳朶を打つ空気の流れに紛れてそもそもよく聞こえない。

 おそらく『止まれ』と言っているのだろう。

 だが止まる気のない少女にはまさに無意味だ。


 何度目かのシャッターを潜り抜け、ついに建物の外に出た。

 そこで一瞬、状況を確認する。


 背後には巨大な白い建物。

 窓すらほとんどないそれは、あるいは要塞のようにも見える。

 そして目の前には巨大な白い壁。


 空は光が全くない。夜のようで、暗黒の色で染め上げられているが、建物周辺はライトに照らされていて非常に明るく、視界に困ることはない。

 あと少し。あの壁を越えれば良い。

 壁の高さは五メートルほどか。

 足をかけるような場所など全くないその壁は、あるいは別の場所なら扉があるかもしれないが――少女は迷うことなく壁に向けて走り出した。


 そして、壁の遥か手前で跳躍する。少女の体は、その移動速度のまま、壁を飛び越えるに足る高さまで浮き上がった。きれいな放物線を描いて、少女の体が壁を越えようとしたその時。

 少女に、光が突き刺さった。

 背中――いや、わき腹に焼けるような痛みを感じた直後、少女の体勢が崩れる。まるでスローモーションのように少女の体は、深い闇に消えた。

 いくつかの光が、少女を追うように闇に吸い込まれていき――。


 冷たい水が、少女をいだいた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 気付いたのは、焼けるような痛みから。

 いつの間にか意識を失っていたらしい。


 激痛を感じてなお駆け続けた記憶はあるが、どこをどう移動したのか、全く覚えがない。

 そして限界が来て倒れていたようだ。


 周囲にはいつの時代のものかもわからない廃棄物が散乱している。

 まさしくゴミ溜め――あるいは本当に廃棄場か。


(逃げ……ないと)


 焼けるようなわき腹の痛みを無視して、立ち上がった。

 四肢はまだ動く。そして歩くこともできる。

 ならば、前に進まなければならない。


 空は重い雲が垂れ込めていて、どうやら昼間ではあるが夜のような暗さだ。

 あるいはそれは、周囲にある瓦礫やゴミの山の影響で光が遮られているからか。


 激痛は一秒ごとにその痛みを増し、やがて四肢を麻痺させていく。

 痛みに、思考がまとまらない。

 視界がぼやけて、平衡感覚が失われつつあった。

 自分が本当に歩いているのか、それとも倒れているのかがわからくなり――。


 いつの間にか、顔のすぐ横に地面があった。

 どうやら倒れていたらしい。

 自分が限界に達しているのがわかる。


 体を打ち付ける冷たい雨が、身体の熱を容赦なく奪っていく。

 体にぴったりと張り付いた服の感覚も、もうない。

 身体の熱が失われていくのにあわせて、あの強烈な思考が遠ざかり、今の状況を冷静に振り返る余裕が出てきたが――その思考も希薄になる。

 すでに生命維持に致命的な問題があるからか、思考を維持する力も失われているようだ。ほどなく、意識も消えるだろう。


(死ぬか――)


 それはひどく現実味がなかった。

 そもそも死ぬとは――活動停止とはどういうことか。

 概念としてしか理解できていない。

 だから――どうでもよかった。

 ただ、今はもう何もしたくなく――


 ただ、眠りたかった。

 身体はもう動かない。


 雨は止むことなく少女の体を打ち続けていた。

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