四 セバスティアン
木漏れ日を縫うように喧しい蝉の声が降り注ぐ。
その日の午後、セバスティアン・ド・モンテリユ修道士は馬車の到着の知らせにうんざりしながら玄関に向かっていた。訪問者もその用向きも大方見当がついている。ピエール・セラ、ギヨーム・アルノー、エティエンヌ・ド・サン=ティベリ──もはや目に馴染みの異端審問官の署名を記した異端告発への協力を請う勅令を、またもやドミニコ会が届けに来たのだろう。同様の通達は昨年暮れからことに頻繁に届くようになっていた。
文を院長の元に届けるのは大抵、書記を務める兄弟セバスティアンの務めである。他の兄弟たちは一日中詩篇を唱えるのに忙しい。封蝋を切る際の院長の舌打ちと知れ切った文面を腐す文句を正面で受け止める役目は、自然と兄弟セバスティアンの元へ回って来るのだ。
教皇より特命を拝したドミニコ会が、我が世の春とばかり異端の取り締まりに勤しむようになるには、前段としての経緯がある。
前年の一二四〇年十月、ここモンス・ラヌンクリより北東に二日半ほどの距離にあるカルカッソナで、領主のレーモン・トランカヴェル子爵が領地奪還を目論む反乱を企てた。異端カタリ派が同地を含むオクシタニア一帯に広まって久しく、一二〇九年、教皇インノケンティウス三世の呼びかけにより武装巡礼──アルビジョア十字軍──が決起された。以来フランス王政による代理支配が続いていたこの土地は、それでもなおカタリ派の信仰潰えぬまま、息を潜めて反攻の機会を伺っていたのだ。
しかし企ては不守備に終わり、トランカヴェル子爵は再びアラゴンへの亡命を余儀なくされる。後ろ盾を失った異端信徒たちを、教皇特使たるドミニコ会士たちは容赦なく責め立てた。
森閑とした山懐に抱かれるクリュニー会モンス・ラヌンクリ修道院は、ローマに恭順の意を示し、ドミニコ会の活動にも協力を惜しまぬ姿勢を伝えてはいたが、その実、正統にも異端にも等しく距離を置くという危うい中立を維持していた。どちらに傾いてももう一方からの激しい攻撃に晒されるならば、修道者らしく観想に専念していれば良い。
もとより、日に百遍以上の詩篇を唱え、聖務の時課に明け暮れる身には、外界の諍いに耳を傾ける余裕などあろうはずもないのであった。
上階の窓から玄関につけられた馬車に目を止めて、兄弟セバスティアンはいつもと様子が違うことに気づく。ドミニコ会士はクリュニー会士と同様黒い外衣をまとったが、黒ずくめのクリュニー会と異なりその内に着る白いチュニックとの対比で遠目にもそれと知れるはずだ。今馬車から降りてきたのは騎士を思わせる偉丈夫、その奥方らしき婦人、そしてまだ幼い娘──家族だろうか。迎えに出る歩調が早まる。
三人のうち、特に夫婦と思しき二人は見るからに深い疲労を滲ませていた。身につけた衣は元は上等の織であったのだろうが、錦糸は陽に褪せ、絹地は塵にくすんでいる。「残党騎士」──ドミニコ会の文書でよく目にする言葉が脳裏に浮かぶ。その予断をすぐさま払い、兄弟は努めて柔和に問いかけた。
「クリュニーの家へようこそお越しくださいました。いかなるご事情でお立ち寄りでしょうか」
偉丈夫が痛んだ紹介状を差し出しながら、訛りのあるラテン語で答える。
「……我ら家族を、しばし逗留、させていただけまいか」
紹介状に記された遥か異国の修道院の名に兄弟は目を見張る。──一体、この家族はどれほど遠くからやって来たのだ──。それでも動揺は胸にしまい、一行に微笑みかける。
「長旅のご様子、さぞやお疲れでしょう。ともかくお入りください。冷たい水をご用意します」
呆然として後に続く夫婦と、疲れも忘れて建物の造作に目を奪われている幼い娘を招き入れながら、また自ら陰口の種を蒔いてしまったな、と兄弟は小さく息をつく。
同僚たちは兄弟をしばしば「尊者セバスティアン」と呼んだ。無論、クリュニー会の偉大なる先達、尊者ピエールになぞらえた皮肉である。論敵の多かった賢老アベラルドゥスを世間の非難から庇って看取り、ユダヤ人やサラセン人さえをも愛をもって受け入れようとした有徳の師、ペトルス・ウェネラビリス。兄弟セバスティアンもこの尊者を範と仰ぎ、もって自らをクリュニーの息子と律する一人であった。しかしそれゆえに、近隣の貧者を分け隔てなく招いて世話したり、修道院の華美な調度や贅沢な食事に諫言を呈しては周囲から疎まれ、煙たがられてもいた。それでもこうして目の前に助けを乞う者があれば、手を差し伸べずにはいられないのであった。
兄弟は三人の足を水場で丁寧に洗い──幼い娘の小さな足には思わず胸が詰まった──、客間に通すと井戸から汲んだばかりの水を振る舞う。そして家族が一息つくのを見計らい、一つひとつ丹念に、畑で蕪の根を手繰るように家族の事情を訊き出した。
「……まるで黙示録だな。まことなのか、その話は」
兄弟セバスティアンの報告を聞いた院長は、疑わしげな上目遣いで問うた。
「私も、タルタリという言葉は耳にした覚えがありますが、ここまで仔細な話は初めてで……。ですが、客人の目を見ても偽りを言っているようには思えません。話がまことであれば、家族は途方もない道のりを辿ってここまで逃げ延びたことになります。それを証しするように、皆ひどく困憊の様子なのです」
「だがな」院長が苦々しげに遮る。「そもそも修道院は宿屋ではないのだぞ。宿坊も期限を切らぬ長逗留など想定してはいない。だいいち、その連中がドミニコ会の追っている異端ではないという保証はあるのか? 哀れに絆されて神の畑に毒麦を蒔くことは、厳に慎まねばならん」
兄弟は胸の内で嘆息する。難色を示されることは初めから予想していた。しかし、客間で待つ家族を思えばここで引き下がるわけにはいかない。兄弟は、院長が最後に福音書の譬えを引いたことに一縷の望みをつなぐ。
「仰せのお言葉、全くごもっともです、院長様。ですが私は、私の目から一切の梁を除いてものを見たいのです。目の前に傷を負った者が倒れていれば、その傷にオリーブ油と葡萄酒を注いでやりたいのです。それが我々クリュニーの息子の義務だと、そう思うのですが」
院長の目に、またか、という呆れの色が浮かぶ。そしてそれがすぐに諦めの苦笑に取って代わるのを見て、兄弟はささやかな勝利を確信する。
「そんなだから、君は他から『尊者セバスティアン』などと揶揄されるのだ。いつも面倒事を持ち込みおって……。やむを得まい、しばらく置いてやりなさい」
兄弟が安堵して深々と頭を下げると、院長は被せるように言葉を継ぐ。
「ただし、全ての責任は君が持ちたまえよ。必要な世話も、全て君が見るのだ。家族に少しでも怪しげなそぶりが見られたら、その時は即刻摘み出してくれよう」
こうして、ヴィエルグス家のオクシタニアでの暮らしが始まった。
家族がまずすべきことは、第一に旅の汚れを落とし、疲れを癒すことであった。修道士たちにすら年に二度ほどしか許されていなかった入浴を、兄弟セバスティアンはやはり院長に掛け合い、家族を病人として扱うことで浴室の開放を勝ち得た。マリアはこの僥倖に心から感謝した。移動が暮らしの常になっていたため、汚れと疲労は共に相携えて一家にのしかかっていたのだ。
たまたま旅の間クリュニー会に身を寄せたことがなかったため、比較する機会を持たなかったが、家族はここでの食事にも瞠目することになる。明らかにベネディクト会やシトー会と比べて品数も盛り付けも贅を張っていたのだ。もっともそれは、外部に開かれた宿坊同士の比較の話であり、一家は知る由もなかったが、修道士たちの食事はさらに贅を尽くしていたと言われる。
ともあれ兄弟の尽力の甲斐あって家族は順調に体力を回復し、やがてユゼフとマリアは共に労働で恩に報いたいと申し出た。家族にとってもう一つ僥倖であったのは、修道院に隣接する耕作地とその傍に流れる小川を渡り少し行った先に、同じクリュニー会の女子修道院が併設されていたことだ。男子修道院だけならマリアとウルシュラに許される行動範囲はごく限られたものになっていたであろう。ユゼフには助修士らとの畑仕事のほか薪の収集や狩りが、マリアには女子修道院での厨房補助や洗濯が試みに割り与えられた。
それぞれの修道院には近隣の家庭から数名の奉献児童が預けられており、家から通う貴族の子女らと共に教育を授かっている。女子修道院では、院長が自らラテン語の読み書きを教えていた。ウルシュラはまもなく四歳にならんとする頃であったが、まだこうした年長の児童に混ざって授業を受けるには幼すぎるとみなされた。そのため毎日マリアと共に宿坊から女子修道院へ通いながら、母の洗濯の手伝いをしたり、休み時間の子どもたちに興味津々で構われたりするほかは、もっぱら一人陽だまりに遊んで過ごした。年嵩の少女たちは皆、言葉が通じずとも優しく声をかけてくれるのだが、時間が来れば手を振って再び学びの場へと去ってしまう。ウルシュラの常の遊び相手は、蝶や飛蝗や蜜蜂、それに栗鼠や兎や貂などの小さな友たちであった。
家族が宿坊で暮らし始めるにあたって、兄弟セバスティアンから「厳に守っていただくように」と伝えられていたことの一つに、修道院の禁域についての戒めがあった。兄弟姉妹たちが共住生活を行う本棟はもちろんのこと、観想や教育の場である回廊や、信徒に開かれた礼拝堂内でも身廊以外は立ち入りが禁じられている。マリアはこの戒めを幼い娘に噛んで含めるように、一つ一つその場まで連れて行っては「ここから先に入っては駄目」と教えて回った。ウルシュラはそのつど大きく頷きながら小さな胸に刻んでいった。
だから今、こちらに向けられた幾つもの視線に気づいた瞬間、自分が禁じられていた境界を越えてしまったことを悟ってウルシュラはすくみ上がった。追っていた栗鼠は回廊の中庭を軽やかに横切って姿を消した。
「おや。小さな蝶々が迷い込んだみたいね」
中庭を背にして椅子に座った初老の修道女が、手の本を閉じて立ち上がると、ゆっくりと小さな闖入者に歩み寄って屈み、視線を合わせる。
「あなたは、どなた?」
「姉妹クレマンス、その子です。さっきお話しした、言葉のわからない子」
背後から少女の一人がオック語で声をかけると、姉妹は振り返って頷き、再びウルシュラにラテン語で問う。
「お名前、言えるかしら?」
「……うるしゅら」
ウルシュラがおずおずと答えると、少女たちがわっと歓声を上げる。
「そう、ウルシュラ。素敵なお名前ね」姉妹はウルシュラの手を取って頷きかける。「お会いできて嬉しいわ、ウルシュラ。でもね、ここはお姉さんたちがお勉強する場所なの。一緒にお母さまのところに戻りましょうね」
そして少女たちに暗誦の続きを指示すると、ウルシュラの手を引きゆっくりと水場に向かって歩き出した。
マリアは女子修道院長が手ずから娘を連れてやって来るのを目にして仰天した。慌てて駆け寄り、事情を聞いて平身低頭するマリアを制して、院長は穏やかに訊ねた。
「お嬢さん、おいくつになるの?」
「三つです、来月には四つになります」
「まあ」院長は口元に手を当て、「たった三つでもうラテン語を聞き分けるなんて……お母さまが教えていらっしゃるの?」
「ええ、ですが教えているというより、一緒に勉強しているんです。私も子どもの頃に近所の修道院で教わったきりですので……」
マリアが恐縮しながら答えると、院長は少し考え、改まった様子で口を切った。
「あなた方が当面ここで暮らしたいというご希望なのは、本院から伺っています。もしよければ、来月からウルシュラに勉強を教えたいのだけど、いかがかしら? ラテン語だけでなく、オック語も話せた方がいいでしょう?」
マリアは呆気に取られたが、すぐにそれが願ってもない提案であることを理解した。
「ぜひ、よろしくお願いします……!」
頭を下げた刹那、先にユゼフに相談すべきだっただろうか、という思いがよぎった。しかし、反対する理由もない、むしろ共に喜んでくれるはず──そう信じて安んじた。
その夜、マリアは昼間の思いがけぬ申し入れを喜びと共にユゼフに報告したが、良人は曖昧に微笑み、そうか、と答えたきりであった。何か胸中に秘めている様子を訝しみ問うと、ユゼフはしばし躊躇ったのち、こう切り出したのであった。
「我々家族三人が同じ部屋に寝起きしていることで、どうやら兄弟セバスティアンの院内での立場が良くないらしい……今日、畑で助修士のガストンに聞かされた」
その日の畑ではユゼフのほか、大勢の助修士や外部から雇われた小作人たちが小麦の脱穀作業に追われていた。重労働ではあったが、傍らにいた助修士のガストンがしきりに親しげに話しかけてくる。言葉が解らない、と身振りで謝ると、そばにいたまだ若い聖歌隊修道士のジュリアンがラテン語への通訳を買って出た。
助修士の話はおよそ以下のようなものであった。──兄弟セバスティアンが、最近招き入れた客人の家族にいつまでも宿坊の一室で寝食を共にさせているのは、男女が厳格に分かれて暮らす修道院として憂慮すべき様であり、兄弟はその短慮の責めを負ってしかるべきである、といったことが修道士同士で囁かれているが、客人とはあなたのことか?、と。助修士はひとしきり修道院内の噂話──終盤はジュリアンも訳すのに躊躇った──を聞かせたあと、にわかに己の口の軽さを恥じてか、兄弟セバスティアンが厄介ごとを引き起こしがちな人物であるのはもともと周知のことであり、ユゼフ殿が気にされるようなことではないのだけれど、と取り繕ったという。
「でも……では私たちはどうすれば……」
マリアが狼狽えると、ユゼフは顔を上げ、とうに心に決めていた様子で告げた。
「部屋を、分けるしかあるまい。兄弟にこれ以上、迷惑をかけるわけにはいかないだろう」
そして続けて、助修士にその話を聞く前から気づいていた、畑の隅に打ち捨てられた石組の庵のこと、かつて修道院に暮らした老兄弟が死期を悟ってその庵を編み、そこで天に召されたこと、以来廃屋となってはいるが雨風は十分にしのげるであろうことを聞き知っていたことを話した。
「許されるなら、私はそこに移らせてもらおうかと考えている。お前たちは女子修道院で面倒を見てもらえるよう、改めて兄弟セバスティアンに頼んでみるつもりだ」
「そんな……」
マリアの胸に、良人が出征していた頃の心細さが蘇る。先ほどまでの喜びがたちまちに暗転し、言葉が詰まった。ユゼフが声を和らげて宥める。
「大丈夫だ、居室は離れてもすぐそばに暮らしていることには変わりない。畑に来てくれれば会える。それにこの暮らしもずっと続くわけじゃない。いずれはまたポロニアへ帰るのだから、それまでの辛抱だよ」
ポロニアへ帰るまでの辛抱──ユゼフはそう言ったが、故国へ帰るためにはまず、タルタリという脅威が去ったことを知らねばならない。しかしその知らせを正しく、速やかに得るには、ヴィエルグス一家はいささか遠くまで来すぎていたのであった。
私たちはすでにマシュー・パリスの『大年代記』を紐解き、タルタリの軍勢が翌一二四二年三月には撤退を開始したことを知っている。しかし、その期日を過ぎても家族が帰郷の時宜を得ることはなかった。
こうして、ユゼフは許しを得て畑の庵に一人移り住んだ。
冬が訪れ、畑に霜が降りる間だけでも宿坊に戻って暖を取ってはどうか、と兄弟セバスティアンはしきりに勧めたが、ユゼフは頑なにその厚意を退けた。
マリアとウルシュラは女子修道院の客舎に移った。本院の保護を離れたあとも兄弟セバスティアンはなにくれとなく二人の様子を気にかけ、女子修道院の書記修道女、姉妹コンスタンスと定期的に事務連絡を取る際には、二人に最大限の便宜を図るよう申し伝えた。
院内に敵を作ることも省みず、信じる義務の遂行に猛進する兄弟セバスティアンは、女子修道院でも噂の的であった。姉妹たちは笑いを噛み殺して兄弟の突飛な逸話を囁き、彼との連絡係を申しつけられた寡黙な姉妹コンスタンスに同情を寄せた。彼女は周囲の心配に慎みの微笑みで応えながら、実のところ、兄弟セバスティアンの志に少なからず心を寄せ、自分だけが知っている兄弟の曇りのない眼差しに深く共鳴していた。だから、兄弟から申し送られた客人の母娘には誠心誠意をもって尽くすことが己の義務だと思い定めていたのであった。
ところで、この時期についてもう一つ記しておかなければならない重大事がある。ローマ教皇グレゴリウス九世が八月二十二日に身罷られたのだ。齢百に届かんとする長寿であったから、神の御許に召されるは天の摂理にあるべきことと誰しも納得するところであった。
ところが、この老教皇が神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世と激しく対立したまま世を去ったため、ローマは皇帝派、教皇庁派、どちらにも与さぬフランス派の三つ巴に分かれたまま、後任が定まらない。業を煮やしたローマ市民らによって監禁された枢機卿らは、命がけの妥協の末にケレスティヌス四世を選出したのだが、この影薄き父も就任後たった半月で亡くなるのである。
あまねく地に生きる信徒らの戦慄は如何ばかりであっただろうか。
モンス・ラヌンクリ修道院でも、立て続く訃報のたびに鋭い鐘の音を山襞にこだまさせ、礼拝堂で大々的な追悼ミサが執り行われた。住み込みや通いの子どもたちはこの時ばかりは男女の別なく一個の奉唱隊に組まれ、兄弟セバスティアンの指揮のもと、聖歌隊修道士らと共に天へと帰る父に歌を捧げた。慌ただしさの中で四歳の誕生日を迎えたウルシュラは、間もなく学友となる年上の子らに祝われて晴れて学びの席に着き、二度目の追悼ミサには黒い面紗を被って奉唱にも加わった。
二人の教皇が立て続けに召されるという前代未聞の凶事は、聖座が翌々年の六月まで空位となる混乱と共に、世にさまざまな《つまづきの石》をもたらすことになる。
そしてこの石は、私たちの見守るすぐ傍らにも落とされたのであった。
家族が部屋を分けて冬を越し、雪解けの季節を過ぎて山に若葉の萌える頃、モンス・ラヌンクリ修道院を二人の黒衣の修道士が訪った。迎えに出た兄弟セバスティアンは旧知の相手にもはや眉一つ動かさず儀礼的に挨拶する。
「ドミニコの兄弟よ、あなたがたに平和を」
二人は常ならぬ沈鬱な顔で同じ言葉を返すと、見慣れた封書を差し出した。時候の世間話ひとつなく、二人は馬車に乗り込むと山を下っていった。
常のごとく舌打ちと共に封を切り、何ごとか不満げに呟きながら書簡に目を走らせる院長の前で身構えていた兄弟は、続くはずの文句が一向に発せられないことを訝しんだ。それとなく表情を探っていると、俯いたまま目だけでこちらを見上げた院長と視線が合った。
院長は黙って書簡を差し出した。兄弟はそれを受け取り、挑むように向けられたままの目を確かめてから紙面に目を落とす。大方、教皇不在となって以来指針を見失ったドミニコ会が、いよいよ悲壮感を募らせてさらなる協力を乞うてきているのだろう──そう見当をつけて読み始めたが、いつものくだくだしい謙譲の挨拶文の後に続く一つの報告に絶句した。
《去る五月二八日、異端審問官ギヨーム・アルノー、エティエンヌ・ド・サン=ティベリの両名、視察先のアヴィニョネにて異端の賊に討たれ絶命せり》
されば神の御名において、この賊とそれを匿う者全てに峻烈なる鉄槌が打ち下ろされるであろう云々……とその後も続く文章に斜めに目を泳がせ、兄弟は黙って文を院長に返す。
しばし互いに探るように視線を交わしながらも言葉が見つからない。それでも、思うことは同じであったろう。
自分たちも、もうこれまでのような中立に篭ってはいられなくなるのではないか──
知らせは急ぎ開かれた参事会会議で共有されたのち、礼拝堂にて助修士を含む修道院全体に厳粛に通達された。ドミニコ会の書簡には、異端審問官殺害の報に即して特段の要求は添えられていなかったが、院長らにはそれがかえって不気味に思われた。少しでも怪しい言動を耳にしたり人物を目撃した際は必ず報告を上げるように、という異例の厳令が講壇に立つ院長の口から発せられた。
解散後、助修士ガストンが兄弟セバスティアンをつかまえて問う。
「このこと、ユゼフ殿や奥方様にも伝えておいた方がいいですよね」
客人であるユゼフらは礼拝堂での集会に呼ばれていなかった。
「ああ、そうだな。私から伝えておこう」
「ユゼフ殿、最近少しずつオック語が通じるようになってきましたよ。あたしが何だかんだ話しかけてるからでしょうね、時々オック語で返事するようになって」
ガストンが得意げに続ける。
「夕食も助修士館に来てあたしらと一緒に摂るから、もうじき喋れるようになるでしょうね」
「それはよかった」
兄弟は話を切り上げようと簡単に返したが、ガストンがふと声音を曇らせて続けた言葉に思わず足が止まる。
「……でも、そういや最近あんまり夜姿を見せないんですよね。ちゃんと飯食ってるのかな」
「他に行くところなどなかろう」
兄弟が問うと、ガストンは首を捻って考える。
「ああ、いや。ないことはないですよ。ほら、ユゼフ殿は立派な幌付きの馬車をお持ちですから、麓の市場に麦や野菜を卸しに行くのに一緒に運んでもらったりしてるんです。その時、村の旅籠屋の酒場など教えましたから……」
助修士はそう言ってから、しまった、という顔で慌てて口を閉じる。兄弟はひと睨みをくれるとそれ以上咎め立てはせずにその場を後にした。
小麦畑で通いの小作人と共に旺盛に茂る雑草を抜いていたユゼフは、遠目に兄弟セバスチャンの姿を認めると手を止め、腰を伸ばして汗を拭った。
「ヴィエルグス殿、精が出ますね」
「雑草取りは始めたばかりだが、なかなか大変な仕事だな。腰にくる」
ユゼフはそう言って日に焼けた頬に笑みを浮かべた。その含みのない表情に兄弟は内心ほっとする。
「ちゃんと滋養はとっていますか? ガストンが、夜食堂に来ないことがあると心配していましたから、私も気になりまして」
「ああ」ユゼフはきまり悪そうに苦笑して答える。「修道院に厄介になっている身で言いづらいが、ガストンに教えてもらった麓の旅籠屋に出向くことがある。どうにもくさくさしてしまってな。迷惑をかけていたら申し訳ない。少し控えるとしよう」
「いいえ、それなら良いのです。あなたは修道者ではないのですから、私たちと同じように振る舞う必要はありません。ただ、神の家に暮らす者として、神の御心に染まぬ行いだけはお慎みくださいますように」
「ああ、心得ている。兄弟の心遣いにはいつも感謝している」
やはり取り越し苦労だった、と兄弟は安堵し、いっときなりと疑いの芽を許した自分を恥じた。家族を守るために神の家にすがりながら長い道をたどり来たこの御仁に、間違いのあろうはずがない。
「最近は、奥様やお嬢様とは?」
「家内は三日に上げず畑に様子を見にくる。冬は端切れで掛布を編んだと届けてくれた。娘も一緒に来てくれるが、最近は友達と遊ぶ方が良いらしい。今まで歳の近い子どもが近くにいなかったから、楽しくて仕方ないのだろうな。オック語も家族で一番上達が早いようだ」
そう言って一抹の寂しさを滲ませるユゼフの語りに絆されながらも、兄弟はふと訪問の目的を思い出し、話の区切りにドミニコ会からもたらされた凶事のあらましを告げる。
「……ですから、しばらくは不急の外出も控えられた方が良いかと思います」
ユゼフは押し黙って長いこと一点を見つめた後、自らに問うように呟く。
「審問官を殺すだなど……誰が、なぜそのようなことを」
「私たちもまだ、詳しいことは知りません。ただ、いずれ下手人たちは捉えられ、然るべき裁きを受けるでしょう」
そう話す兄弟の目を、ユゼフはじっと見つめる。何かを問いたい目ではない。兄弟自身の心の内を探るような目であった。話しながら、兄弟は言葉が尻すぼみになるのを覚える。
礼拝堂で同僚たちと詩篇を詠唱するさなかも、兄弟セバスティアンは胸の内のざわめきを鎮められずにいた。私は一体何を恐れているのか──何度も自問する。この山が、この暮らしが変わっていくことか? 否、目に映るものがいかな姿に変わろうとも、主の慈悲にすがる心さえ失わねば、本質は何も揺るがない。
では、はっきりと問おう、セバスティアンよ。お前はヴィエルグス殿を信じきれていないのではないか。あの御仁の些細な何かに異端の影を見出そうとしているのではないか。胸の内で自らを糾問し、兄弟は思わず激しく頭を振る。両隣の兄弟が詠唱を続けながら、怪訝の目で兄弟を一瞥する。兄弟は詩編を唇に乗せながら、心の隅で懺悔する。
主よ、自ら手を差し伸べた相手を徒らに疑い続ける卑き偽善を許したまえ、義に迷える僕を憐れみたまえ──
姉妹コンスタンスは耳を澄ませる。最年長のアリスにウェルギリウスを朗読させながら、ふと畑の方から兄弟セバスティアンが指導する男の子たちの歌声が聞こえたような気がする。異端審問官の殺害という身の毛もよだつ知らせを受けて以来、床に臥しがちな院長に代わって回廊で子どもたちの勉強を見ながら、ふと心がそぞろ彷徨うことがある。今もまた気持ちが途切れ、澄まし顔のアリスに「姉妹コンスタンス、終わりましたよ?」と引き戻された。
一体、これはどうしたことだろう──学びの席から解き放たれて駆け出していく子どもたちの背中を目で追いながら、姉妹は思いに耽る。皆の後ろを懸命に追う、一番小さな異国の少女の肩で弾む栗色の髪や涼しげに揺れる麻の衣の裾は、あの子の旺盛な好奇心に満ちた瞳と同様、生の喜びを漲らせている。野に戯れる子どもたちの生命の彩りを眩しく眺めながら、姉妹コンスタンスは修道請願を立てた頃のことを思い出す。
望まぬまま授かった子を数日の後に亡くしたとき、コンスタンスは十七であった。産める体で生きていくということが厭わしく恐ろしい罰のように思われた。世界は色を失い、神にその身を捧げる道だけが残された。里で目にする幼い子どもの姿に胸が苦しくなり、姉妹たちとのみ顔を合わせる観想生活に安らぎを覚えた。
それが今はどうだ。燦然と生の色をまとう子どもたちに魅入られ、あれだけ避けていた殿方と言葉を交わす機会が次はいつかと心弾む己に、姉妹コンスタンスはどこか居心地の悪さを感じる。神とのみの契りを誓ったはずが、今の私はまるで触れて確かめることのできる温もりをこそ求めているかのようだ。皆が等しく天より授かった命を人の手で奪うという忌みに対する、これが私の畏れ方なのだろうか──
「しまいこんすたんす」
いつの間にか一番小さな子どもが目の前に立っていた。このところ目覚ましい上達を見せるオック語で呼びかけられ、姉妹は知らずどぎまぎする。
「……なに? ウルシュラ」
心ならずそっけない返事をしても気にする様子も見せず、もっと顔を寄せて、と手招きする。椅子を立って正面にしゃがむと、子どもは後ろ手に隠していた白詰草の花輪をさっと姉妹の頭に乗せた。そして満足げな笑みを浮かべると再び野へと駆け戻っていく。
姉妹はしばらく回廊に跪いたまま子どもたちの歓声に耳を傾ける。ウィンプルで覆った頭にそっと手をやると、摘んだばかりの野の花の瑞々しい感触が指に触れる。
何なの……、と唇を動かしてみて初めて、頬に生暖かいものが流れているのに気づいた。
七月に入ると、モンス・ラヌンクリはにわかに華やぐ。二十二日のマグダラのマリアの日は、オクシタニア一帯にとって特別愛着をもって迎えられる典礼である。
この地方に古くから伝わる伝説によれば、マグダラのマリアはイエスが昇天されたのち、神の御言葉を説いて回っていたベタニアのラザロやマルタらと共に、異教徒の手で舵も櫂もない船に押し込まれ海に流されたという。波の間に間を彷徨った末、一行はオクシタニアの一角、マッサリアに流れ着く。マリアはそこで偶像を拝む人々の蒙を啓き、国王夫妻を回心させ、もってこの街を主の御手に委ねると、ラザロがその初代司教となった。一方、マルタも人々を回心へと導く旅のさなか、ロダヌス川で猛威を振るっていた竜タラスクを十字架と聖水で平定し、新しい教えに躊躇う人々の信を勝ち得たという。マグダラのマリアらは、オクシタニアの人々にとって救済の使徒なのであった。
「マリアさん、あなた、
少し前よりようやく病を祓い聖務に復していた女子修道院長クレマンスが、厨房で食材の補充にあたっていたマリアを見つけて声をかけた。聞けば、毎年の聖体行列で一人の婦人がマグダラのマリアに扮し行列の華として集落を回るという。マリアは恐縮して尻込みした。
「そんな恐れ多い役、務まるとは思えませんわ」
「いいえ」姉妹クレマンスはマリアが抱えていた籠を取って傍に置くと、その手を強く握る。
「遠くからいらして、日曜礼拝でも村の方々のお手本となるような敬虔さをお持ちのマリアさんなら、これ以上ないほどの適任だと思うの。ぜひ考えて下さらないかしら」
姉妹の気勢に圧されながら、マリアはふと幼少の苦い記憶を思い出す。
ある年の降誕祭に、通っていた修道院で降誕劇を演じることになり、マリアが聖母マリア役に抜擢された。両親は大いに喜んでくれたのだが、一族の中で大きな力を持っていた大伯母がこれに大反対したのであった。
──この子が聖母を演じるだって? なんて恐ろしいこと! 男も女も見ている前で神の母を演じるなど、それは信心ではなく虚栄です。《自分の義を、見られるために人の前で行わないように》と聖書にも戒められているでしょうが。あの子を舞台に立たせることは、主と私たちの先祖を共に侮辱することになりますよ。断じて認めません!
大伯母はマリアから役を剥奪するだけでは飽き足らず、修道院にまで抗議に乗り込み、降誕劇は中止となった。マリアは自分の落胆だけでなく、楽しみにしていた学友たちの失望まで背負うことになったのだ。以来、人前で演じるという言葉はマリアの中で触れてはならぬ禁忌となった。
でも──とマリアは思う。もう私は一人の大人であり、自分で考えることのできる心を持っている。いただいたお話は神を侮辱するものではなく、むしろ、回心の奇跡の再現なのだ。
マリアの揺らぎを見越すように姉妹が独りごちる。
「今、この土地は広く異端の教えに揺らいでいるの。マグダラのマリアの物語は、人々の迷える魂をあるべき場所へ還り着かせるために、今こそ必要なんだわ」
「姉妹クレマンス」マリアは意を決して姉妹を見つめる。「私、演らせていただきます」
畑で妻に聖体行列への出演を告げられたユゼフは色をなし、血走った目を妻に向けた。鍬の柄を握る手が震えているのを見て、マリアは子どもの頃に大伯母に対して抱いた、壁の前で立ちすくむような恐怖を思い出す。それを押して良人に一歩歩み寄ると、平静を努めて説いた。
「ねえユゼフ、ベザンソンでのことを覚えていて? あの時私たちは、すんでのところで異端の濡れ衣を着せられていたかも知れなかったわ、余所者だというだけで。姉妹クレマンスは、マグダラのマリアの聖体行列で、教会の教えからこぼれ落ちてしまった人たちにももう一度戻って来てほしいと願っていらっしゃるのよ。私がそのお手伝いをすることで、私たち家族が一層この土地の者として受け入れられるのだとしたら、もういたずらに疑いの目を向けられずに済むかも知れない。私たちのためにやれることをしたいの」
「そのためにお前が、《罪深き女》に扮して衆目に晒されるというのか」
「《改悛した罪深き女》よ、ユゼフ」
「私は」ユゼフは目を逸らし搾り出すように言う。「お前のそんな姿は見たくない。そんなことをさせるために、こんなところまで連れてきたのでは……」
刹那、マリアは微かな、しかし鋭い苛立ちを覚える。屋敷では決して抱くことのなかった良人への反発は、長い旅を通してマリアの胸に去来し、遠雷のように瞬きを繰り返した。それが今、はっきりと自覚されたのであった。
「言ったでしょう、ユゼフ。もうとうに、あなたが一人で抱えるべきことではないのよ。私たち三人で道を作っているの。そう、ウルカも含めて三人で。マグダラのマリアたちは櫂のない船に乗せられのですって。私たちはちゃんと櫂を持っているじゃない。よしんば持たされなかったのだとしたら、私はこの手で海原を掻いてでも陸を目指しますわ」
そして踵を返すと、振り返らず女子修道院に戻った。
そして七月二十二日。よく晴れて日差しは刺すように強いが、乾いた北風が心地よく山から吹き下ろす。モンス・ラヌンクリでは聖俗一体となった賑々しい行列が、集落の通りという通りをゆっくりと練り歩いている。
先頭を歩くのは、男子修道院が預かる奉献児童のうち最年長のリュカである。神妙な顔つきで香炉を捧げ持ち、正面を見つめて静々と進みながら、後続の歩調を耳で伺う。
その後ろを高々と十字架を掲げた炭焼き職人のゴーチエが従う。集落一の膂力を誇るように太い腕を張り沿道を豪放に見渡す様は、天の門番たる聖ペテロを彷彿とさせる。
後ろに、揃いの修道服を着た奉献児童ら、そして彼らをそのまま大きくしたような修道士や助修士らが厳かに応唱しながら続く。
行列を見守る集落の人々の目が、不意の真紅に醒まされる。野薔薇のごとき深い紅の長衣は日差しを受けて紫紺に艶めき、白い面紗で覆った頭に乗せた小冠が黄金の光を放つ。模造の香油壺を胸に抱いたマリアは、まさにこの世に再び降り立ったマグダラのマリア、その人であった。沿道の方々から感嘆の溜息が漏れる。
彼女の後ろを対をなすように白薔薇にも似た白衣の女性信徒らが続き、しんがりを同様に白衣をまとった女児たちが色とりどりの野花を道に撒きながら付いて行くのであった。
ウルシュラは友らと手籠から花を撒きながら、前を行く母から目を離せない。出発前に何度も母の周りを回りながら仔細に確認したにも関わらず、どうしても自分の母だと思えず、今また前に回って確かめたい衝動に駆られる。髪も化粧も服も確かにいつもと違う。けれど一番は目だ。いつもの包むような慈愛の眼差しの奥に、今日は何かに挑み掛かる獣のごとき光が宿る。ウルシュラはその妖しさに魅了される。その光の源を確かめたい──前を行く背をもどかしく見つめながら、言いつかった最後尾で花弁を撒き続けた。
マリアは沿道から向けられる多くの憧憬の眼差しに嫋やかに応えながら、その中に良人の姿を探した。しかし行列が終点の教会に辿り着いてもついに見出すことはできなかった。それでも密かな落胆を胸にしまい、一行を懇ろにねぎらう司祭に慎み深く応対して、この日の役目を十二分に果たし終えたのであった。
昼間の暑気が子どもたちの撒いた花弁と共に宵の風に吹き払われ、通りには涼やかな静けさが戻る。ただ一軒、街道から集落への入り口にほど近い旅籠屋の一階の酒場からは、灯りと常の喧騒が通りに漏れ出る。ここだけは、未だ昼間の興奮冷めやらぬ賑わいに沸いているのである。
レベックやヴィエルを奏でながら土地の歌に興ずる卓があり、行列に参加した親族をねぎらいに近隣から集った大所帯の席がある。樵や石工、羊飼いといった常連の男たちは木杯を片手に卓から卓へと渡り歩いて四方山話や情報収集に余念がない。無論、上階に宿をとった行商人や巡礼者らも降りてきて銘々に滋養を摂り、土地の葡萄酒で疲れを慰める。
隅の席でユゼフは一人杯を傾けていた。この地の葡萄酒は彼にはいささか渋く重すぎたが、今はむしろこれくらいが相応しく思える。顔を顰めて煽ると厨房に向かって代わりを乞い、卓に置かれたそばから身の内に流し込む。酔うほどに、瞼に焼きついた昼間の妻の艶麗な姿が蘇った。
行列が始まってもしばらくの間ユゼフは畑仕事に留まった。しかし、じきに通りの方からどよめきが届くに至ってついに衝動を抑えきず、土にまみれた足で走り出した。人垣の隙間から伺う妻を、ユゼフは初め別人と見紛った。真紅の衣に身を包み小冠を頭上に頂いて香油壺を捧げ持った妻は、まるで福音書の一節を描いた聖画から抜け出したかのようであった。今にも悲嘆の涙に濡れた瞳で振り返り、《ラボニ(先生)》と呟くのではないかと畏れた。後ずさり、足早にその場を後にした。
不意に背後から聞こえた話し声を、酔いに濁った耳が鋭く拾う。
──しかし今年のマグダラのマリアは、ありゃあ頗る付きのいい女だったな──。
屈めた背が揺れ、椅子がぎしりと軋んだ。
……ユゼフの手記にはこの時の酒場での噂話が切れ切れに記されている。それらのいみじき冒瀆の言葉たちをここに引き移すことは控えよう。男たちは囲む卓の上で彼らの記憶の中のマリアを辱め、そのマリアに執心であったという司祭の日頃の冒涜を赤裸々に暴き、その司祭にかつて慰みにされたという女たちをもまた辱めた。もはや、それらの放言が何をもたらしたかを記すのみで十分であろう。
不意に悲鳴が上がり、音楽が萎むように止まる。
棒立ちのユゼフは我に返ってゆっくりと足元を見下ろす。男が二、三人、折り重なって床に這いつくばっていた。固く握りしめた己の拳に血が滲んでいる。
刹那、ユゼフの脳裏には妻子をはじめ、様々な関わりが去来したのであろう。咄嗟に倒れている男の一人の手を掴んで立たせながら、拙いオック語で、すまない、と詫びた。
奥から走り出てきた旅籠屋の主人が惨状を目にして、男の手を掴んでいるユゼフの手を払い、これ以上騒ぐなら表へ出てくれ、と肩を突く。様子の始終を見ていたらしき旅装の男が割って入り、謹厳な物腰で主人を宥め成り行きを説明している。ユゼフは悄然と周囲を見渡すと、己に向けられた険しい視線から逃れるように代金を卓に置いて酒場を後にした。
翌朝、騒ぎの一報を受けた兄弟セバスティアンは、真偽を確かめるべく慌てて畑の庵に向かった。
「一体どうされたのです、ヴィエルグス殿? 神の家の住人として御心に背く行いは慎まれませと、しかとお伝えしたではありませんか」
問いただしながら暗がりの中に立つユゼフに目をやり、兄弟は息を呑んだ。
下瞼に濃い隈を作りながら目だけは爛々と光らせ、まるで昨夜起こしたという騒動の直後のような様子で佇立している。恐らく一睡もしていないのではないかと疑われる狂おしげな様に、兄弟は思わず数歩退きながら再度問いかける。
「どうされました、ヴィエルグス殿」
「ああ、兄弟」ユゼフは今初めて気づいたように視線を合わせ、やがて力なく微笑む。
「そうか、すまない、もう知らせが行ったのだな……私はずっと、どうかしていたのだ」
兄弟は相手の異様さに気圧されながらも、やがて幾分語調を和らげ言った。
「あらましは伺いましたよ。司祭様を愚弄する噂話を聞き捨てにできず、手を上げてしまった……そうなのですよね? 率直に申し上げて、私の立場からはお諌めすべきか、はたまた礼を申し上げるべきか判じかねるところですが……」
ユゼフは顔を上げて兄弟を見た。何か言いたげにも見えたが、抗弁はなかった。
「院長様に報告は上げねばなりませんが、私としてはあまりことを荒立ててる必要はないと思っています。表沙汰になれば、教会もまた名に傷を負うでしょうから……」
そして、それ以上継ぐべき言葉がないことを悟ると、「また来ますから、どうか心静かに過ごされますように」とだけ言い残して足早に庵を後にした。
兄弟セバスティアンは知る由もなかったが、実は昨夜の一件には続きがあった。
酒場を出たユゼフに、背後から声をかける者がある。振り返ると、先ほど旅籠屋の主人に説明していた旅装の男であった。男はジャン・レイと名乗り握手を求め、今日クレモナから戻ったところです、と身なりの訳を明かした。そして、場所を変えて話をしませんか、とユゼフを誘った。
連れて行かれたのは集落の外れにある民家であった。通された居間には既に二十人近い人々がいくつかの卓を囲んだり壁際の椅子に腰掛けて寛いでいる。和やかな談笑の輪がさざめきながら決して騒々しくはない。誰もが互いに礼を重んじて接する様は、先ほどの酒場とは対照的であった。ユゼフを招待した男は空いている席にユゼフを促すと、自らもその隣に腰掛けた。
やがて座の奥で談笑に和していた、この場の主人と思しき壮年の男が立ち上がって部屋を見渡すと、座は自然と水を打ったように鎮まる。主人は頷き、傍の本を手に取ると開いて豊かに響く声で読み始める。言葉はオック語であり、ユゼフにはまだ全ては聞き取れないが、それがどうやら「主の祈り」であることに気づいて驚いた。ラテン語以外で祈りの言葉を聞くのは初めてであったからだ。日常の言葉で紡がれる祈りの、肌を合わせるような艶かしさに背筋が震える。
「アーメン」の斉唱で主人が本を閉じ、さあ、今日はどなたのお話から伺いましょうか、と座を促すと、おくるみに眠る赤子を抱いた一人の若い婦人が立ち上がる。苦患に打ちのめされた弱々しい声で吃りながら語るのは、生まれて日の浅い赤子に亭主が関心を払わず、一人で面倒を見続ける毎日に限界を感じている、といった訴えであった。
語り終えて堪えきれず嗚咽を漏らす婦人の肩を、隣の席の年配の婦人が抱きかかえて席につかせると、主人が傾聴の間固く閉じていた目を開いて口を切る。
──聞くだに胸の締め付けられる話です。……おお、無辜なる魂よ、よく眠っている……新しい命を育むはまことに尊い務めですが、それがあなたを苛むのは、偽りの世に肉という枷をまとって生まれたあなたのお子やあなた自身……そして我々皆に等しく科された試練に他なりません。無論あなたの亭主も同じ枷に囚われて、あなた方に差し伸べるべき手を見失っておられる。なればこそ、あなたはその試練を一人で背負う必要はありません。苦しい時はお子をここへ連れていらっしゃい。兄弟姉妹、誰かが必ずあなたに手を差し伸べるでしょう。育てる苦労も成長を見守る喜びも、我々自身の魂を真なる光へと導くことを神はご存じですから。
婦人は何度も頷き涙ながらに礼を述べる。間を空けず壁際の老人が立ち上がる。遠くの街に稼ぎに行った息子が長いこと便りひとつ寄越さない。手塩にかけて育てたつもりだが、親不孝に育ったのは儂にも咎があるのだろう。長く連れ添った女房にも先立たれ、このまま一人で死ぬかと思うと情けない──話し終えると老人は項垂れて席に着く。
主人は老人にねぎらいの微笑を向ける。
──息子殿は縁のない土地で立派にやっておられるのですね……一人前に育てられたご老体に心からの敬愛を覚えます。息子殿は今、ご自身の魂の旅の途上にあるのでしょう。それはご老体も同じこと。歩みの歩幅は皆違います。奥様は少しだけ早く真なる善き神の御許に召され、ご老体が後からやって来るのを見守っておられます。ご老体は決してお一人はありません。我々は皆、同じ庭を目指してそれぞれの歩みを進めているのです。周りをご覧なさい。ここに集う兄弟姉妹、皆あなたの旅の仲間です。
促されるままに左右を伺い、得心したようにまなじりを緩める老人の肩を、隣の男が親しげに叩く。
その後も会衆は次々と抱える心痛を吐露し、主人はその一つひとつに心尽くしの言葉を返す。ユゼフは切れ切れに言葉を拾いながら、ここでなされていることの異様を刮目して見守った。
──あなたも、話してみませんか?
不意に傍の旅装の男、ジャンがユゼフに囁きかける。
──きっと一人で抱えているものがおありでしょう。
ユゼフは男を凝視し、その目を奥に立って座を見渡す主人に向ける。主人は間もなくそれに気づき、促すように視線をユゼフに留める。何を話せと言うのか、こんな他所の土地の見ず知らずの人々に向かって。
しかし、思いに反してユゼフは立ち上がる。
──オック語は、まだうまく話せない。ラテン語でも?
──構いませんよ。
主人は穏やかにラテン語で返す。
──ですが、拙くても構いません。片言でも。皆に伝わる言葉で、話してみませんか? 皆、喜んで耳を傾けるでしょう。
ユゼフは生唾を飲み込む。オック語で「ポロニア」とは……?
──……ひがしからきた。とても、とてもとおく。Polonia、わかるか。つま、むすめ、わたし、さんにんで。わたし、Tartariとたたかった。だが、かてなかった。だからにげてきた。つまとむすめ、まもるため。ながいたび。かぞくをまもるためなら、だいじょうぶだった。だが、いまわたし、まよっている。これで、よかったのか。ただしかったのか、わたしのおこない。じぶんをうたがい、かみをも、わたしはうたがう。Poloniaのおうを、かみはまもらなかった。わたしたちも、くにをさらねばならなかった。たびのとちゅう、むすめもしにかけた。かみのいえ、やはりみすてようとした。わたしはじぶんだけをたよる。でも、つまはもうわたしをたよらない。むすめももう、わたしをたよらないかもしれない。わたしはもう、ひつよう、ない……
私は一体何を言っているのだ、このような不甲斐ない泣き言を赤の他人に向かって。いくら零落したとてこれがマグナートの、騎士の、男のすることか。私は長い旅に恥すら置き去って来たのか──
──友よ。はなしてくれて、ありがとう。
主人が口を開いた。子どもに語りかけるような極めて平易なオック語だが、決して侮り見くびる口調ではない。一言一句欠けることなく届くことを強く念じるように、選ばれた言葉だ。
──はるかひがしの国、ポロニアでのいくさ。王をうしない、国をうばわれ、くるしい旅のすえ、ここまでたどり着かれた。私にも、恐らく他のだれにも、そうぞうすらできない苦しみであったことでしょう。あなたは言いました。王を、娘を、神はまもらなかった、と。では、問いましょう。それは、どの神ですか?(どの神、に傍点)。
──どの、かみ……? かみは、ひとりでは……?
質問の意図が分からず、ユゼフは狼狽えて問う。男はゆっくりとかぶりを振って続ける。
──あなたの目にうつる神は、この世のこんとんやむじゅんや、苦しみや悲しみを、生みだす神のように見えます。私たちの真なるよき神は、そうではありません(ではありません、に傍点)。私たちの真なる神は、この世をうれい、私たちをまことの光にみちびこうとされるものです。あなたは奥さまも娘ごも、あなたをもう必要としないとおっしゃる。それはちがう。あなたはご自身のたましいの命ずるままに、ご家族をはるかなこのオクシタニアまで連れてこられた。それこそはあなたのたましいを真なる神がみちびき、あなたのなかの愛とけんしんを呼び覚まされたあかしです。ご家族が今あるのはまさにそのおかげではありませんか。お二人にはまだあなたが、真なる神のみちびきを得たあなたがひつようなのです。
男はそこまで話すとゆっくりとユゼフに歩み寄る。
──あなたが真なる神のこえをもとめるかぎり、私たちはあなたを支えます。兄弟よ。
ユゼフは耳をそばだて、主人の慈愛の眼差しに問うように目を上げた──あれは獣の咆哮か? そして、他ならぬ己が噛み殺した嗚咽と共に滂沱と涙を流していることを悟った。
傍の旅装の男もユゼフの肩に触れ、あなたはもう私たちの兄弟です、と主人の言葉を繰り返す。遥か幼い日に両親から固く禁じられた涙を誰憚ることなく流しながら、ユゼフはこの時生まれて初めて、赦される、ということを知ったのであろう。
翌朝、農場を横切って去っていく兄弟セバスティアンの後ろ姿を虚ろに見送るユゼフの目には、全てが眩しく、そして初めて見る風景のように映っていたであろうか。
年は改まり、一二四三年四月、ビテリスで公会議が開かれる。前年五月に起きたアヴィニョネでの異端審問官殺害の下手人が、モンセギュールに砦を置くカタリ派の首謀、ピエール・ロジェ・ド・ミルポワとその信奉者たちであることは早くに突きとめられていた。ローマ教皇は未だ不在であったが、枢機卿らはことの緊急性に鑑みモンセギュール攻囲を決議する。急峻な頂に築かれた城は難攻不落と目されていたが、フランス王軍は威信にかけて、異端との長き戦いに今度こそ決着をつけんと万難を排して挑む構えであった。
私たちのモンス・ラヌンクリはモンセギュールから南に一日とかからぬ距離にあり、ひとたび攻囲戦が始まればその影響は免れ得ないと思われた。トロサ司教区から公会議の決議を受け取った修道院は震撼し、ただただ山の無事を祈った。
国王代理官ユーグ・ダルシーは、ドミニコ会やフランシスコ会の説教団と連携して攻囲の志願兵を募った。モンス・ラヌンクリの集落でもまもなく辻説教が聞かれるようになり、主の御心の成就に馳せ参じよ、と熱っぽく説く托鉢修道士らの言葉を遠巻きに聞く村人らにも、勇み奮い立つ者もあればひっそりと立ち去る者もあった。
兄弟セバスティアンも、証書作成の用事で集落に降りた折に何度か説教団を見かけたが、たとえ目が合っても遠くから会釈をするのみで足早にその場を離れるのが常であった。同じ修道士とはいえ、民衆を戦に仕向ける彼らの仕事は忌むべき業に思われたのだ。尊者ピエールを奉じる兄弟にとって、モンセギュールの人々がいかに度し難くとも、力で封じるというローマの決定には到底与することはできない。
そう密かに信じていた兄弟であったから、五月のある日、ユゼフから突然の申し出を受けて絶句したのであった。
「兄弟。私は攻囲軍に志願するつもりだ。承知して欲しい」
空いた口を塞げず、兄弟は決意を固めた様子のユゼフを見つめた。すっかり農夫然としてはいても、修道院へ来たばかりの頃の生真面目な偉丈夫の面影をなお残す彼は、昨年夏に一度だけ集落で暴力沙汰を起こしたものの、以後はそれまでにも増して厳しく身を律し、一層修道院の仕事に励んでいたのだ。それがなぜ。
「驚かせてしまったならすまない。最初の日に話したと思うが、私はもともとは騎士だ。私の信仰を捧げる、これはまたとない機会だと思う」
「ヴィエルグス殿。だからと言って遠く他所からいらしたあなたが、どうしてこの土地の諍いに加わる必要がありますか……」
「他所から来たから、なおさらだ」ユゼフは真っ直ぐ兄弟を見る。「他所から来た者の信仰をあなた方は何ではかる。我々は何で証しを立てればいい。私にはこれが一番確実な証明だと思う」
兄弟はそれを聞いて強く己を恥じた。
ああ、確かに私はあなたを疑った。安き場所から見下ろし、よく知りもせずあなたを断じた。あなたはそれをすっかり見抜いた上で、私の狭量を責めもせず、自ら証を立てる決断をしたのか。この上どうして、私にあなたの決断をお諌めする力が、思いとどまらせる術があろうか。
それでも──どうにかこの御仁を災いから遠ざけることはできぬものか。
「……奥様やお嬢様には、お話になったのですか?」
「これからだ」ユゼフは表情を曇らせる。「きっと兄弟と同じように反対するだろう。今から目に浮かぶ」
ユゼフはそう言って苦笑し、それでも妻はきっと解ってくれるだろう──そう己に言い聞かせるように呟くのであった。
前年のマグダラのマリアの日をめぐる行き違い以降、畑に通う足が鈍っていたマリアであったが、姉妹コンスタンスから兄弟セバスティアン経由でユゼフの言伝を受け取ると、ウルシュラと共にユゼフが待つという馬房へと飛んでいった。
ユゼフは祖国での出征以来、馬車に積んで来ていたものの一度も身につけることのなかった甲冑をまとって待っていた。
「まさか、またこの姿になろうとはな。傷を繕っておいてよかった」
言葉をなくして立ち尽くす妻に、ユゼフは両腕を広げておどけて見せる。
「マリア。もう去年の夏になるのだな……私はつまらぬ嫉妬でお前の志を挫こうとした。だがお前は怯まず立派に証を立てて見せたな。今度は私の番だ。見ていてくれないか、お前に恥じぬ証を立てたい」
そして、マリアの陰から恐る恐る父を見上げているウルシュラに柔らかな目を向ける。
「ウルカ、勉強は楽しいか。友達とはたくさん話せるようになったか」
娘がおずおずと頷き、母の影から進み出ると父の言葉を遮る。
「とうさま、どうしてまたそんなかっこうなの?」
「それはな」ユゼフは娘を高々と抱き上げる。「お前が友達に、立派な父様を自慢できるようにだ」
ウルシュラは抱き上げられても表情をこわばらせたまま、かぶりを振って抗う。
「いや、いったらだめ、りっぱになったらだめ」
ユゼフは破顔し、ウルシュラを抱きしめ、その髪や涙に濡れる頬に接吻する。
「母様も立派にマグダラのマリアを務め上げた。お前も勉強してどんどん立派になっていく。父様だって立派になっても良いだろう?」
「帰って……来られるのですか?」
マリアがやっとそう問うと、ユゼフはウルシュラを片腕に抱き、空いた腕に妻を迎える。
「当たり前だ、マリア。言っただろう、また三人でポロニアに帰ると。懐かしいな、あの屋敷が。皆は元気でいるだろうか。……もっともあの長い道のりをまた辿るのかと思うと、それだけはうんざりするがな」
良人の軽口に妻は眉を歪めて笑顔を繕う。その言葉がいかに櫂のない舟のごとく彷徨い揺らごうとも、今はこの人だけを信じてその腕に身を委ねよう──マリアは思い定めて目を閉じる。
「愛するこの者らを」ユゼフは妻子を搔き抱いて天を仰ぐ。「──善なる神よ、今こそ護らせたまえ」
私たちがユゼフ・ヴィエルグスの声を直接に知るよすがは、ここで巻を閉じる。ここからは、わずかな伝聞を頼りに知りうる限りのその後を辿ろう。
記録によれば、モンセギュール攻囲戦は一二四三年五月から翌年の一二四四年三月まで続いた。狭い谷地で大型投石機が唸りをあげ、石灰岩の弾丸が弩や火弓を蹴散らして飛び交った。攻囲軍と籠城軍、両陣営に多くの負傷者を出しながら冬を越し、双方膠着の中で士気が尽きる。
三月二日、籠城を指揮するピエール・ロジェが二週間の停戦を申し入れ、攻囲軍を率いるユーグ・ダルシーがこれを受け入れた。ダルシーはこの期間に異端者たちが覚悟を決めて投降するものと見越していた。ところが異端者たちはこの猶予を用いて、そのほとんどが臨終のコンソラメント(救慰礼)を受け、完徳者らと運命を共にする決意を固めたのであった。
休戦期限の三月十六日、夜明けと共にダルシーは王の名において砦を接収する。かくして砦の麓に薪の山が築かれ、総勢二百余名のカタリ派信者らは次々と炎に焼かれていったという。
ユゼフ・ヴィエルグスがこの攻囲戦の最中、何処で如何ように戦い命を落としたのか──あるいは生き延びたのか──確証の得られる証言や記録は残っていない。ただ結局、良人であり父であるこの殿方は、それきり家族の元に戻ることはなかった。
兄弟セバスティアンのもとには、ユゼフが去った後もモンセギュールや異端者をめぐる知らせが多数届けられた。その中には多少は信の置けるものもあれば、いかにも疑わしいものも少なくなかった。攻囲軍から砦に寝返った兵もいる、などという根も葉もない噂を兄弟は一蹴した。
確証の高い数少ない証言の中には、以前よりモンス・ラヌンクリ集落で、モンセギュールの砦と外部の信者の居留地をつなぐ、伝令役のジャン・レイという名の男が時折目撃されている、というものがあった。外見の特徴の記書きとともに、見かけたら知らせよというドミニコ会の要請も届いたが、院長も兄弟も集落を取り込もうとする疑惧に倦み果て、面従腹背を通した。
外からの知らせとは別に、マリアから姉妹コンスタンスを通じて兄弟へ、ユゼフの消息を訊ねる言付けが頻繁に届いたが、兄弟にはどうしてやることもできなかった。《ご主人は立派に主の御心に沿うてお勤めなさっておいでです。共に祈りましょう》繰り返しそう返すうちに、いつしかマリアからの文も途絶えた。
私たちの小さき姉妹にはこの頃、長じた今も鮮明に残る一つの記憶があるという。
年が明けて三月のその日の朝、ウルシュラは学びの回廊に向かう道すがら、ふと呼ばれた気がして道を逸れた。草原を横切り、森が切れて谷の向こうまで見晴らせる、密かなお気に入りの場所があった。
「おはよう、ウルサ。そこ、あんまり行くと危ないわよ」
登院してきたアリスに後ろから声をかけられ、ウルシュラは振り返る。
「ありす。あそこ」
アリスがウルシュラの指差す彼方に目を凝らすと、山襞の裾から一条の煙が立ち上っているのが見えた。
「何か、燃えてるのかしら……ウルサ、あれがどうしたの?」
ウルシュラは、煙の先端が蒼穹にたなびいて消えていく様をじっと見つめながら呟いた。
「……とうさま」
「え?」
アリスが傍の小さな友人を見下ろすと、真っ直ぐ煙を見つめ続ける彼女のまなじりから、涙が一筋こぼれ落ちた。アリスは慌ててしゃがみ込み、手巾で友人の頬を拭いながら、ウルサ、どうしたの、と小声で訊ねた。ウルシュラはされるがまま、小鼻をひくつかせながら瞬きひとつせず、
「わたしのとうさまは、とっても、とっても、りっぱなとうさまでした」
と詠ずるように呟いた。
アリスは友人の言葉を判じかねながらも、再び遠くに掠れゆく煙の筋に目を向ける。
小さき姉妹の、それが父との永訣であった。
ウルシュラの日 鉄塔舎 @tetnet
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