三 ウルシュラ──I
私たちの小さき姉妹が、道中、その榛色の瞳に何を映していたのか、直截に記す術を私は持たない。二親の目に映るいたいけな振る舞いから強いてその景色を描き出そうと試みるなら、まるで夢の汀を揺蕩うごとく掴みどころのないものとなろう。ただ一つ確信を持って添えるならば、それは二親の見ていたものとは大きく違っていた、ということである。
西日に映えるストゥトガルディアの牧場で、ユゼフはここまで共に旅をしてきた馬たちに惜しみつつ別れを告げ、新たに購った若駒たちに後の道を託した。しかし、牧場に引き渡された四頭のうち、一頭がなぜかウルシュラの傍から離れようとしない。牧場主は鷹揚に、気の済むまで好きにさせればよい、と言い置いて仕事に戻ったが、一家が新しい馬を繋いだ馬車で宿屋へ移動しようとすると、馬もついて来ようとする。
「よほど〝小鳥さん〟との別れが寂しいのかしらね」
マリアは夫に先に宿に行ってもらうと、ウルシュラと共にしばらく馬のそばに残ることにした。
「ちがうよ。ね」
ウルシュラが馬に歩み寄り、両手を差し上げると、馬は深く首を垂れ、子どもの額に鼻の頭をそっと添えた。マリアはしばし微笑ましい思いで逆光に縁取られた彼らを眺めていたが、やがてウルシュラは馬の鼻を軽く撫で、マリアの元に駆け戻った。馬は佇んだまま尾を振っている。
「もうだいじょうぶなんだって」
「そうなの?」
マリアは知らぬ間に置いて行かれたような思いで、ゆっくりと仲間の元へ去っていく馬の後ろ姿と、娘の曇りのない笑みを見比べた。
二日後、一家は出立の際に宿の主人から、あの森を行くならよほど気をつけなされ、と言い含められた、その森のとば口に辿り着いた。
Silva Hercynia──ヘルキュニアの森とローマ人が呼び習わし、土地の者が即物的に「黒い森」と恐れる太古の樹叢は、人を寄せ付けぬ重い影を宿して立ちはだかった。樅や唐檜が樹冠も判別できぬほど幾重にも重なって聳え、陽の光はほとんど地面に届かない。狩りの経験に照らして容易に方角を見失う恐れがあることを察し、さしものユゼフも気後れしたのではないか。
はじめこそ轍の跡が奥へと誘うようにはっきりと刻まれていたものの、数刻の後には下草が土を覆い隠し、まだ道が続いていることをかろうじて保証するものは、馬車の幅だけ木立が行く手を塞いでいない、というただそれだけになった。
やがて、日が暮れた。
宿で聞いていた話から、日没までには森を開墾したシトー会の修道院に辿り着くとユゼフは目算していた。ランタンに火を灯す手がこわばる。
ウルシュラは目を凝らす。木炭では描けない濃密な黒。幌の隙間から覗く夜の森は、生まれて初めて見るまことの闇だ。それでも次第に耳目が慣れると、闇は饒舌に喋り始める。馬車の軋みや馬の呼吸とは異なる賑やかさが周囲を満たす。木々の騒めき、梟の呼び声、小夜啼鳥の歌合せ、獣たちが交わす目配せの気配。胸くすぐる舞台の幕開け──。
「ウルカ、そんなに身を乗り出したら危ないわ」
ひんやりとした森の夜風に体ごと溶け出していたところを、後ろから母の手に抱き寄せられて我に返る。温かな腕の中が少し不満で、身を捩って抜け出すと今度は父のいる馭者台に出る。馬車の左右で揺れるランタンが眩しい。
「藪を抜けた。道が見えてきたぞ」
傍で父が安堵の声を上げる。見上げると、ずっと上の方で真っ黒な木々の先が左右に分かれ、隙間に無数の光の粒が散らばっている。届きそうな気がして、手を伸ばす。
不意に父が鋭く声を発し、馬車が速度を落とす。投げ出されそうになり、咄嗟に父の背中にしがみつく。母が幌から顔を出して、どうしたのです、と訊ねる。
「マリア、周囲を見ていてくれ」
手綱を引いて馬を止め、父は馭者台から飛び降りる。焚き火用の松の枝にランタンから火を移すと、弓を掴んで火を翳しながら少し先の地面にかがみ込んで調べていたが、すぐに戻ってきて険しい顔で言う。
「狼の足跡だ。まっすぐこの先に続いている。恐らく群れだ」
母が無言で度を失う。おおかみ。とても怖いいきものだ、と父は言う。でもどうしてだろう、そんな気はまるでしない。見たことあったのだっけ。わからない。
前方に篝火の光を投げて目を凝らしていた父が思案の声を漏らす。
「分かれ道だ。足跡は、右へ進んでいる」
「本当に、群れなのですか。足跡は一筋しかないようですけれど」
恐る恐る問う母を、父は頭を振って言下に否定する。
「狼の群れはまっすぐ一列になって走るのだ。この先で道が曲がっていくところを見ると判る」
そろそろと馬車を進める。弱い明かりにおぼろに照らされた道の、分かれ目から右に弧を描いていくあたりで、一筋であった足跡がにわかに無数にばらけるのが、土に穿たれた陰影から辛うじて見て取れる。
「馬車の音に気づいて方向を変えたのかも知れん。奴らは風上に回ろうとするから……」
長い黙考を置いて父が断ずる。「左へ進もう」
その刹那、ウルシュラの胸の奥で小さな痛みが瞬いた。
「こっち、こっちにいって」
自分でもなぜだか判らないまま、強く右を指差す。
「何を言ってるのウルカ、狼がいるんですよ」
母が慌てて静止する。父は怪訝な顔で娘を振り返り、その指の先にしばし目を凝らしたものの、すぐに背を向け言い下す。
「駄目だウルカ。左に行くよ」
「ちがうの、ちがう、こっちじゃないとだめ」
父が母に目配せする。母はやや強引に娘を抱きすくめると幌の中に引き込む。
「どうしたの〝小鳥さん〟、なぜそんなことを言うの?」
母が穏やかに訊ねる間に、馬車が勢いよく走り出す。
あえかな誘いはあっけなく千々にほどけ、夜風に溶けていく。知らず、涙が溢れ出す。
「ご無理をなさいますなあ」
その後一刻と経ずしてたどり着いた開墾地のシトー修道院で、白の僧衣に黒いスカプラリオを羽織った年嵩の修道士に案内されながら、ユゼフはここまでの道について手短に語った。修道士は憐れみとも窘めともつかぬ悠揚とした口調で相槌を打った。
「この森で恐ろしいのは狼だけではありませんよ。熊や猪だって出ますし、無頼の者らが旅人を襲って金品を奪うとも聞いております。お気をつけなさいませよ」
「来る途中、道が二手に分かれていた。左の道をとって来たが、右の道はどこへ?」
ユゼフの質問に修道士は立ち止まって振り返り、しばし考えるように黙って相手の顔を眺めた。
「ああ」ややあって頷く。「泉ですな。大きな泉があって、夜には多くの獣たちが集まるようです。話ではその辺りを根拠としておる怪しげな者たちもあると申しますから、そちらに進まなくてよかった。これも主のお導きでしょう」
ユゼフは後ろに従うマリアを振り返る。マリアの腕の中で、泣き疲れた小さな娘が眠っていた。
「お導き、か」
部屋に荷を置くなり椅子に身を投げて、ユゼフが吐き出すように言った。
「我々はどこまで導かれるのだろうな」
「ねえ、ユゼフ」
寝台にウルシュラを寝かせたマリアが思い詰めたように顔を上げた。
「もうすぐアルルの国です。ルシアン様の故郷でしたよね。屋敷で懐かしそうにお話になってらしたわ。もし良さそうなら、そこでしばらく落ち着いてみませんか」
ユゼフはゆっくり息を吐き出し、妻を見やって言う。
「良さそうなら、な。ノリンベルガのように追い出されることだってある。彼奴の故郷だとしても、我々は他所者、流浪の徒に変わりない」
「そうですね……」
傍で肩を大きく上下させながら荒い寝息を立てる娘の背をそっと撫で、マリアは思う。
旅を続ける暮らしは、この子にはやはり負担なのだ。不思議なことに、この子は屋敷を出てから今まで一度も「帰りたい」と口にしたことがない。このくらいの歳の子なら、早々に駄々をこねたっておかしくないはずなのに。私たちが止むに止まれず旅を続けていることを、恐らく理解しているのだ。それほどにこの子は聡い。さっきの森の中での言い張りようもきっと、歳に不相応な聡さの分だけ、積み重なった疲れのせいなのだろう。
「わかっている」妻の懸念を察してユゼフが言う。「私も、ウルカには可哀想なことをしていると思う……だが」
やがて拳を握りしめ、呻くように続ける。
「奴らが、タルタリがこの地を去るまでは、私はこの命に替えてもお前たちを護ると決めたのだ。ヘンリク公との約束だと言ってもいい。大公の無念はもはや神にも晴らせぬ。神を頼れぬのなら、自分以外に何を頼れようか」
マリアはその拳を自らの掌で包むと、静かにかぶりを振った。
「ユゼフ、信じましょう。私たちが信じお縋りする姿を、主は必ず天から見ておられますから」
「そうか」
妻の言葉に、ユゼフはきっと窓の外を睨む。やにわに立ち上がると乱暴に窓を押し開き、夜闇に向かって叫んだ。
「おい、本当にいるのか! いるなら返事をしろ! 我々はどこまで行けばいいのだ! どこまで行けば許されるのだ! 本当にいると言うのなら教えてくれ!」
「ユゼフ、やめて」
マリアは慌てて縋りつき、窓を閉める。ややあって部屋の扉が叩かれ、修道士が訝しげに部屋を覗き込んで様子を訊ねる。マリアは落ち着き払って取り繕うと、丁重に彼を追い出した。
ウルシュラが目を擦りながら身を起こし、両親の様子を交互に眺め、遠慮がちに呟く。
「……おなかすいた」
森は、当初の予想より遥かに広く険しかった。一家はなおも一週間近く、密に繁る樹々の合間を西へ進むことに費やさねばならなかった。初日の過ちを肝に銘じたユゼフは、森での最初の夜に宿泊したシトー修道院で以後の道筋を綿密に聞き取り、地図に書き込んだ。ベネディクト会やプロモントレ会の修道院をつないで、何としても森での野宿は避けなければならない。覗き込んだ修道士は目を瞠り、立派な地図でございますなあ、と感嘆の声を漏らした。
馬に鞭を入れながら、ユゼフは時折木立の隙間から、獣のものとも人のものともつかぬ視線を感じた。馭者台に座って行く手に目を凝らしながらも、腰に下げた剣の柄にいつでも手が伸びるよう、気を張った。
長い翳りを抜け、不意に強い日差しが降り注いだ。森が別れを告げたのであった。手庇を翳すユゼフの眼前に、渾々と流れる大河が横たわっていた。
レーヌス川──彼らは郷の言葉に倣い、ライン川と呼ぶであろう──を渡ると、じきにアルゲンティナ、土地の者が「街道の防備都市」を意味して呼ぶところのシュトラースブルクに入る。一二六二年に自治権を勝ち取りノリンベルガ同様の帝国直轄都市となるが、一二四一年の今はまだ厳格にして強権的な司教の支配下にある。
家族はここでほんの一両日、食料の補給や体調を整えることのみに費やし、先を急いだようだ。
理由はいくつか挙げられよう。ノリンベルガを彷彿とさせる商業の街の自由な空気に、ユゼフが忌まわしい記憶を蘇らせたのかも知れない。あるいは、さらに先で待つビスンティウム──ベザンソン──に根を下ろせる場所を求めて気が急いたとも考えられる。そしてもう一つ、重要な手がかりがマリアの手記に残されている。
聖エギディウス修道院の薬草園で出会った姉妹マリアンヌに手渡された手巾、そこに記されていたひと連なりの地名を記憶に刻んだマリアは、それを己の手記に書き写すことはしなかった。ただ、ノリンベルガ出立の日の日付の付近に、アルゲンティナという地名に「×」の印が添えられた走り書きが見て取れる。これが何を意味するのか──一つの推測が許されるなら、姉妹の伝言には辿るべき地名とともに、通過すべき地名も記されていたのではないか。この時点でマリアが姉妹の伝言のことをユゼフに伝えた形跡はまだない。恐らくは慎重にユゼフの進路決定を誘導したのではないかと思われる。
上の推論を敷衍するなら、ではなぜ、アルゲンティナは忌避されたのか。先ほど記したように、一二四一年当時、この都市は司教の支配下にあった。時の鐘と共に人々がこうべを垂れ十字を切る、敬虔な空気が色濃く満たしていたであろう。それは後述するように、ここより西に広がるフランス王国と、その南のオクシタニアとの間で長く繰り広げられていた、信仰と領土をめぐる争いに対する無意識の防壁であったのかも知れない。そして、姉妹マリアンヌらにとっては、その空気こそが無言の拒絶であった。
無論マリアは、そしてユゼフも、ゆめゆめ預かり知らぬことである。
すっかり夏の日差しである。目指すビスンティウムの城壁が視界に迫り、一家はその周囲を取り巻くように蛇行するドゥー川の、緑萌える川べりで涼をとる。白い腕を振り回して飛沫を上げはしゃぐ娘と、上半身を陽に晒してそれに応じる良人は、側から見ればどこにでもいる普通の親子だ。自らもくるぶしまで水に浸し、マリアは視線を二人から周囲に巡らせる。青々とした牧草地がなだらかな起伏を描いてどこまでも続く、穏やかな風景だ。遠く近くに羊や牛の群れが草を喰み、牧童が犬を従えてのんびりと彼等を追っている。どことなくポロニアの故郷を思わせる景色に、脳裏に残る傭兵の面影を重ねてみる。あの胡乱で、重く鋭い眼差しを持った人も、あそこの牧童のようにのんびりとした少年時代をここで過ごしたのだろうか。
娘がひときわ甲高い歓声を上げ、目をやると、大きな魚を掴み上げていた。背後からそれを支える良人が一緒になって喜んでいる。
ああ、もうここでいい。ここで嵐をやり過ごそう──マリアは束の間、深く安堵する。
城壁通過の検問はノリンベルガ以上に厳密に行われた。荷物は一つ残らず陽のもとに広げられ、検問官の一人は馬車の下にまで潜り込み、見過ごせぬ徴がないか、くまなく探査した。その理由は、街に入ってすぐに察せられた。通りには、肩に負う荷や首から帆立の貝殻を下げ、杖を手にした巡礼者がそこかしこと目についた。聖堂前の広場には市が立ち、パンやワインのほか、護符や聖遺物の模造品が所狭しと並べられている。街の住民も、聖地に向かう旅人も等しく、間もなく迎える聖ヤコブの日に心浮き立ちながら、一方であらぬ嫌疑をかけられることなく城門を通過できたことに胸を撫で下ろしているようであった。
黒い森のシトー修道院でもらった紹介状を伝手に、城壁内のベネディクト会修道院に腰を落ち着けた折、ユゼフが検問のことを訊ねると、応対にあたった修道士は眉根を寄せて説明した。
「この賑わいに乗じて、マニ教徒の連中が潜伏しているという噂が数日前からありましてね」
「マニ教徒?」
「いわゆるカタリ派ですよ。教会にとっても街にとっても、忌むべき異端の者たちです」
剃り上げた頭頂を確かめるように撫でながら、修道士は重々しく説明する。ユゼフは訝しげにマリアを振り返り、マリアは相槌を控え修道士に合わせて眉を顰めた。
一家は、ひとまず街の様子を確かめに出る。マリアは、街に飛び交う言葉が、姉妹マリアンヌがウルシュラに聴かせていた歌の言葉とよく似ていることに気づいた。修道院や教会ではラテン語で意思の疎通が図れるが、この雑踏の中、解せる言葉が耳に入らないという事実は、少なからず彼女を途方に暮れさせた。
ふと見れば、両親より数歩先を歩いていたウルシュラがとある屋台を背伸びをして覗き込んでいた。近づくと、香草を商う屋台である。複雑に混じり合った芳しい香りに包まれながら、ウルシュラは陳列された商品を一つひとつ指差して呼んでいるのであった。マリアとユゼフはその光景に呆気にとられた。
「lavanda、sauvia、camamilla、menta、……farigola!」
店の女主人が目を細めて頷きながら、しきりにoïl、oïl、と相槌を打っている。
「ウルカ、あなた、言葉がわかるの?」
ウルシュラは振り返って母を認めると、かぶりを振った。
「ううん。でも、おはなのなまえは、まりあんぬがおしえてくれたから」
マリアは押し黙って記憶を手繰る。先日オノリヌムで夕食を摂りながら娘が誦じた花の名は確か、ドイツ語ではなかったか。二つの言語で教わったということだろうか。
女主人が、何か親しげにマリアに話しかけた。マリアは申し訳ない気持ちで、わかりません、とドイツ語で伝えてみる。女主人は少し驚いて、それでもすぐに大きく頷くと、少し離れた屋台でこちらに背を向け商いをしていた男を大声で呼んだ。男がやってきて女主人と少し話した後、
「あんたがたも巡礼かね?」
と、少し歪ながら十分に通るドイツ語で訊ねた。マリアもユゼフもさぞや安堵したであろう。
店主は意外そうに続ける。
「お嬢ちゃん、オクシタニアの言葉をよく知ってるそうだね」
その言葉を聞いた途端、マリアの中で何かが繋がった。と同時にその何かが鋭く警告を発する。
「ええ……先日食事をいただいた旅籠屋で、店の方に教えてもらったのですわ」
最近こんなことばかりしている、と思いながら咄嗟に笑顔で取り繕う。傍で女主人が陽気にまくし立てるのを鷹揚に受けて、店主が笑顔を見せる。
「この女将さん、親戚がオクシタニアにいるんだよ。それでお嬢ちゃんの言葉に懐かしくなっちまったんだとさ」
店主の言葉を受けるように女主人がウルシュラの肩を抱き、店先のカモミラの束を持たせる。ユゼフが代金を渡そうと懐から財布を取り出すと、良いんだよ、と身振りで辞退した。
その後も三人で街の中を見て歩いたが、もはやマリアの目には何も映っていなかった。胸中で先程のやりとりを何度も反芻する。
オクシタニアの言葉。それが姉妹マリアンヌがウルシュラに教えた言葉であった。彼女は異端とされた村から逃れてきた。その村──モンヴィメ──がオクシタニアのどこかにあるのか。先ほどの厳しい検問も、異端の侵入を阻止するためのものだと修道士は言っていた。姉妹マリアンヌのように故郷を追われた人々が、彼女のようにオクシタニアの言葉を話し、それを隠さなければならない理由があるとしたら。
背筋を悪寒が滑り落ちる。
「ウルカ、聞いて」マリアは往来の端に寄るとしゃがんで娘と視線を合わせる。「あの言葉、マリアンヌから教わった言葉は、しばらく喋らないでいてくれるかしら」
「どうして?」
「どうかしたのか、マリア」
まっすぐな瞳で理由を求める娘と、何も気づいていない様子の良人、どちらの質問にも答えず、マリアは短く言った。
「……修道院に、戻りましょう」
その夜、娘が深く眠りについたのを見計らって、マリアはユゼフに姉妹マリアンヌの身の上と、託された道筋のことを包み隠さず打ち明けた。今まで黙っていたことを咎められるものと恐れていたマリアは、話を聞いて深く考え込んだ良人を意外な思いで見守りながら返事を待った。
やがて顔を上げたユゼフは、身を乗り出し声を潜めて問うた。
「その、姉妹マリアンヌは、異端だったのか」
マリアはマリアンヌの村の話、とりわけ彼女に《悪しき神の創りしこの偽りの世を生きろ》と諭したという人物のことを思い返しながら頷いた。「……ええ、たぶん」
「昼間、ここの兄弟が言っていた、マニ教とか、カタリ派とかいう奴か」
「そこまでは判りませんわ。異端だなんてそんな恐ろしい話、ここに来るまで考えたこともありませんでしたもの……」
マリアにとってこの話題は、これ以上続ける気になれない厭わしいものであった。その一方、考え込み虚空を彷徨う良人の眼差しには次第に生気が宿り始める。
ユゼフは地図を広げると、地中海沿いの地域を指でなぞりながらしげしげと検討を始めた。
「オクシタニアと異端の関わりなぞ、ルシアンの奴め、一言も話さなかったな。……姉妹がお前に示した道筋はオクシタニアの奥深く、ピレネー近くまで続いている。異端審問を逃れてきた姉妹が、我々を同じ窮地に陥れようとするとは考えにくい、そうだろう? ならば、その道筋は危険を避けたものなのではないか? まさかオクシタニア全域が異端に染められているわけでもあるまい。姉妹の示した道を辿る限り、安んじて旅ができると考えていいのではないか」
熱を帯び始める良人の口調に危うさを感じて、マリアは押し留める。
「ユゼフ、私、少し怖い気がします。このまま進んだら良くないことが起こりそうで」
「何を言う、我々は異端などではない、歴とした教会の教徒ではないか。何を恐れることがあるのだ。第一、今以上に良くないことなど、どうして起こり得よう?」
マリアは記す、《我々は異端ではない、歴とした教会の教徒だ──その言葉に素直に頷くことができたなら、どれだけ心安かっただろう……》。異端とされる人々が教会とは異なるどのような教えを信じているのか、それすら知らない自分たちが異端であるはずがない。その当然の理屈に安んじることが、マリアにはなぜかできないのであった。
良人がふと呟く。
「私も、姉妹マリアンヌと直接話をしてみたかった」
マリアは黙って良人の茫とした眼差しを見つめた。
母にマリアンヌから教わった言葉を禁じられたウルシュラは、それを心の奥に固くしまい込んだ。いっそ忘れてしまえるのならその方がよかったのかも知れない。しかし、忘れるには記憶の中のマリアンヌの歌声はあまりに美しく、思い返すたびに幼子をうっとりさせるのであった。
Farigola, ment’ e sauvia, (タイムにミント セージのは)
dansan jos lo cel divin, (おそらのしたで おどるはな)
e camamilla, blanca e pia, (しろくやさしい カモミラは)
porta’m la patz, al matin. (あさのわたしの やすらぎよ)
Mercé, Bon Senhor, de l’amor viu, (かみさま あいをありがとう)
gardatz mos pas dins vostre luòc. (わたしのみちを まもってね)
朝の目覚めのまどろみの中で、歌は小鳥の囀りのように胸の中で踊り出す。それを口に出しかけて、慌てて唇をつぐむ。もどかしい。どうして歌ってはいけないのだろう。寝床の中で寝返りを打つ。ふと両親ともすでに床を離れている気配に気づき、試しに掛布の中で小さく呟く。
がるだっつ、もす、ぱす、でぃんす、ゔぉすとれ、るおっく……
ほら、ちゃんと覚えてる。お別れの時も、抱き上げてくれた腕の中で誦じて聞かせた最後の楽句。あの時、マリアンヌはとても驚いた顔をしていた。上手に歌えたから、そうでしょ?
中庭で姉妹たちと共に洗濯をする母のそばで、ウルシュラが摘んだ野花を花輪に編んでいた時、にわかに宿坊を挟んだ表通りが騒がしくなった。姉妹たちは顔を見合わせ、前掛けで手を拭うと通用門を表へと小走りに出ていった。母はしばらくそれを目で追っていたが、ウルシュラを振り返り、ここで待っていてちょうだいね、と言い残して後に続いた。
ウルシュラは幾つも花輪を編み終えると、誰もいなくなった洗濯場のあちこちで洗濯物を満たしたままの洗い桶の縁に、一つひとつ置いて回る。そして、ひと仕事終えても誰も戻ってこないと知ると、皆が出ていった通用門へと駆け出した。
通りにはすでに人垣が幾重にも重なって何も見えない。ウルシュラは大人たちの足を掻き分けて一番前にまろび出る。顔をあげると、奇妙な行列が目の前を横切っていく最中であった。
男、女、老人、若者、一様に粗末ななりの者たちが大勢一列に連なって歩いていく。皆揃って体の前で両手首を縛られ、その縄が前の者の腰に結え付けられている。通りを満たす硬く重いものを引きずる音に彼らの足元を見れば、縄とは別に鎖が彼らの足首を繋いでいるのであった。そうして手と足を繋がれたまま、長い列が目抜通りを進んでいく。誰もが表情をなくした顔で正面を見据え、黙々と歩く。まるで目指すべき約束の場所へと向かうように。
ウルシュラは行列を凝視する。胸の奥からしんと硬く凍えるような冷たさが広がる。足が地面に凍りつくような錯覚を覚えて身震いすると、再び群衆の足を掻き分け、修道院の中庭に駆け戻る。小鳥さん、ウルカ! 母が呼ぶ声に真っ直ぐ走り、そのまま胸に飛び込む。頭上から安堵の声が体を包み、少しずつ胸の霜が溶けていく。
同じ日、ユゼフは朝から城壁外に点在する森を大勢の狩人と共に巡っていた。修道院で耳に入れた市参事会の呼びかけに応じ、定期の狼討伐隊に加わったのだ。市からは子狼一頭につき五ソル、雄狼十ソル、雌狼十二ソル、さらに子を宿した雌狼なら一五ソルが報奨金として支払われるという。この地域の騎士の一般的な日当がおよそ八十ドゥニエ(一ソル=十二ドゥニエ)であったから、親の狼一頭を仕留めるだけで一日の働きにまさる実入りとなる。ユゼフならずとも目の色が変わるのは必定であった。ビスンティウムの内外から、腕に覚えのある男たちが手に手に槍や弓を携え参集した。中には麦打ち用の長竿を持って揚々と参じた農民もいたという。
陽が傾き始める頃までに、ユゼフは締めて二リーブル一四ソル(一リーヴル=二十ソル)という、この日の討伐隊の中でも屈指の働きを示した。同行した狩人たちは羨望の眼差しで、このほとんど言葉の通じない異邦の騎士を褒め称えた。
討伐隊の中に一人だけドイツ語を解する者があり、ユゼフは彼と道々言葉を交わした。彼、オベールはビスンティウムに拠点を持つ交易商であり、広く東西の事情に通じていた。ユゼフがかいつまんで語った旅の理由に、オベールは深く同情を示した。東方との交易はやはりタルタリ襲撃の影響で深刻な打撃を受けているという。
「とは言え、問題は東だけにとどまりません。南もいよいよ騒がしくなってきました」
オベールの語るところによれば、昨年、フランス王ルイの命を受けた簒奪者アモリー・ド・モンフォールが、カルカッソナやアルビなど南部諸領の支配を断念して北へ去った隙に、本来の領主であるトランカヴェル子爵がアラゴンから帰還し、灰の下で燻っていた熾が再び燃え盛り始めたという。
「あの辺はまだローマ教会やパリからの支配に反発する者が多いんです。カタリ派が幅をきかせて事毎に教会に楯突く。ローマ式のミサより自分たちの儀式を重んじる者が多い。トランカヴェルは、そういう連中にとっちゃ『真の使徒』の再来みたいなもんなんでしょう。無論、ルイ王も教皇様も黙ってはいないはずです。やれやれ、また血の雨が降らなきゃいいですが」
「だが、オクシタニアの全てが異端の国、というわけではないのだろう?」
ユゼフは知らず、望む答えを手繰り寄せるように問う。彼の中では傭兵に聞かされた心象──暖かな風が吹く自由の大地──が今も根強く居座っていたのであった。
「それはそうです」オベールは頷く。「カタリ派がオクシタニアに広がっているとは言え、依然、教会の教えを信じる信徒がほとんどです。アフリカとの交易路を辿ったって、まだ忌まわしい異端を目にせずに済んでますからね」
話しながら帰途を辿り、ビスンティウムの城門が見えてきた辺りで、オベールが思い出したように言った。
「そう言えば、今朝出がけに小耳に挟んだのですが、この近くで異端連中が相当な数逮捕されたそうですね。今頃はぞろぞろとしょっ引かれて、牢番はおおわらわでしょう。今週末あたり、盛大に松明が焚かれるやもしれません。あれはちょっとした見ものですよ」
「松明……?」
ユゼフが聞き返したのを、単語を解さなかったと思ったのか、オベールはどこか誇らしげにゆっくり発音して見せる。
「ええ、たいまつ、です。十字架にかけて燃やすんですよ。ご覧になったことは?」
木を隠すなら森、と言うのだろうか。ヴィエルグス夫妻はその日それぞれに見聞きしたことを撚り合わせ、このビスンティウムが、否、異端追及が厳しく進められている地域の何処もが、常に幼い娘に陰惨な風景を見せる可能性を孕んでいることを思い知る。それを避けようとするならば、むしろ正統と異端の勢力が拮抗している地域、あるいは異端が優勢な地域に身を寄せた方が良いのではないか。
「とうさま、ひのにおい」
夕刻、ユゼフが討伐隊の面々に報奨金で酒を奢って酒場から戻ると、父に駆け寄ったウルシュラが顔を上げて言った。ユゼフはそれを聞いてどきりとした。確かに狼討伐の際、追い込みのために松明を掲げた者の煙で燻されたかも知れない。しかし、火という言葉は、先ほどまで酒場で興じていた狩猟仲間がとりわけ好んだ話題──オベールの通訳でユゼフはその一端しか窺い知ることはなかったが──、彼らの平穏をかき乱す異端に対する極刑、すなわち火刑をすぐさま思い起こさせた。
火は穢れた魂を浄化させるのです、と猟師の一人は得意げに言った。それにあの御仁らも、この世での肉体は汚れた容れ物だと言っている、それを灰にしてやるのもまた神のお慈悲ではないか。彼らはそう言って大笑いした。オベールの通訳を聞きながら、言葉が分からなくて良かった、と思っている自分に、ユゼフは気づいた。
「それに……どうにも気にかかる話を耳にした」
ウルシュラの寝顔を確かめて、ユゼフは切り出す。
「今日捕縛された異端者たちの中に、我々が通ってきた黒い森に潜伏していた者たちも多くいたそうだ。周辺に点在する修道院同士、知らせ合って包囲を狭めていったのだそうだ。その修道院の知らせの中に……夜、神の不在を疑う叫びが聞こえた、というものがあったらしい」
マリアが目を見開き、ユゼフは観念したように頷く。
「恐らく、私のことではないかと思う。だがその噂は、あくまで異端者たちが発したものとして伝わり、現に森に逃れていた異端者が捕まった。私の叫びと彼らの捕縛に、実際関係があったかどうかは分からない。だが、関係があったとしたら……私は、取り返しのつかぬことをした」
「いいえ、ユゼフ。それは関係ありませんわ」マリアは小声で、しかし断固として言う。「だってあなたは、あれをポルスキ(ポロニア語)で口にされたではありませんか。この辺りでポルスキを解する方など、そう多くはないのではなくて?」
ユゼフは呻き声を漏らして応えない。マリアが再び考え込む。
「けれど、今のお話はやっぱり気になります。あの夜、あなたが大声を出した後、修道士が様子を見にきたでしょう? 私は咄嗟に誤魔化しましたけれど、あの修道士はあれがあなたの声だと疑っていないでしょう。言葉が分からなくても、口調で神への冒涜だと疑おうとすればできる。幼い子どもを連れた異邦の貴族の家族……私たちはたぶん、相応に目につく存在です。あの修道士が、私たちとあの叫びを結びつけて改めて知らせを流したとしたら……。ウルカが南の言葉を口にできることも見られていますし、どこで何がつながるか……」
「とにかく、路銀は十分にできた」
迷いを断ち切るように、二人の間に置いた報奨金の包みに目を落としてユゼフが言う。
「発とうと思えば、いつでも発てる」
一両日のうちに荷をまとめ、一家はベネディクト会修道院にいとまを告げた。市場を通りかかった時、ウルシュラが、
「おはなのおばちゃんにまたあいたい」
と言い出した。両親は少し迷ったが、広場の端に馬車を停めると屋台を探した。先日と変わらぬ場所で商っていた女主人は、駆けて来るウルシュラの姿を認めると喜色もあらわに両腕を大きく広げて迎え入れた。
ウルシュラは、修道院の中庭で摘んだ野花で編み足した花輪を、めいっぱい背伸びをして女主人の頭に乗せると言った。
「おばちゃん、Mercé、adieu」
別れを告げにきたことが通じたのだろう、女主人は驚き、ほんのわずか寂しげに微笑むと、Merci、adieu、と同じ言葉を返してウルシュラを抱きしめた。
城門で最後の検問に差し掛かる。拱門の暗がりの向こうに、来た時に水浴びをした風景が広がっているのを、マリアは複雑な思いで見つめる。型通りの検問が終わったと見てユゼフが手綱を振ろうとした時、傍でどこかの修道士と話をしていた衛兵が不意に手を上げて制止した。
何事かとユゼフが見守っていると、衛兵は修道士を伴って再び馬車の幌を開き、中のマリアとウルシュラを一瞥して互いに何か話し込む。
「行って良いか」
ユゼフはドイツ語で声をかけ、返事がないと見ると今度はラテン語で繰り返した。
修道士が顔を上げてラテン語で問う。
「あなた方はどこから来て、どこへ行くのか」
ユゼフは一瞬言葉に詰まりながらも、努めて平静をまとい応える。
「我々はポロニアから来た。タルタリの襲撃を一時しのげる土地を探している。来た時に伝えていることだ」
「して、これからどこへ?」
「まだ決めていない」
ユゼフの返事を聞くと彼らはまた土地の言葉で話し始める。ユゼフが苛立ちを覚え始めた時、後方から何やら叫びながら近づく声と、幌の中のウルシュラが、おばちゃん!、と大声で呼ぶのが同時に聞こえた。衛兵も修道士も気を取られて振り返る。ユゼフが身を乗り出して後方を伺うと、香草屋の女主人が肩で息をしながら馭者台の傍までやってきて、ユゼフに一抱えもある袋を押し付けた。口を開くと芳しい香草がぎっしりと詰まっている。女主人は一安心した風情で何やら大声で話し続けているが、ユゼフには無論一言も解らない。
すると傍でその様子を不審げに見守っていた修道士が女主人を呼び止め、言葉を交わす。女主人が大きく頷いてユゼフを指し示す。しばらくのやり取りののち、修道士はユゼフを見上げて言った。
「このご婦人の親戚にその香草を届けてもらう約束をしたのに、すっかり渡すのを忘れてしまった、と言っているが、間違いないか」
ユゼフは女主人を見る。彼女は満面の笑みで頷いている。ユゼフはややおいて頷く。
「……確かにその通りだ。私も受け取りを忘れてしまっていた。申し訳ない」
修道士はそれを聞くと衛兵となおしばらく言葉を交わしたが、衛兵は修道士の言葉を半ばで遮ると、ユゼフに向かって、行け、と合図する。ユゼフは傍で見守っていた女主人に深く黙礼を返すと、手綱を打った。
日差しの中を進みながら、ユゼフは今し方のやりとりを振り返る。──何だったのだ、あれは。結果的に助けられたことは確かだが……
マリアが顔を出し、ユゼフの傍の袋にそっと触れる。
「ありがとうございました──」誰にともなく呟いた言葉が、草の香とともに風に流れ去る。
一家はその後、姉妹マリアンヌに示された行程を迷わず辿ったものと思われる。夫妻の手記は共に以後しばらくの間簡素になり、買い足した食料や日用品の断片的な目録の域を出ない。恐らく、大司教座を置き異端への風当たりが強いルグドゥヌムを過ぎるまでは、できるだけ速やかな移動を心がけたのであろう。主の導きを得て──と記すことにいささかの躊躇を覚えながらも、彼らの道行きを見守る私たちは、そこに確かな導きがあることをただ願うのみである。
この間、一箇所だけはっきりと通過した日時を記した町がある。
七月二五日、聖ヤコブの日を家族はブレシアの町で迎えた。ユラの峰の西方に拓かれ、ルグドゥヌムまであと数日分の道のりを控えたこの平原の町は、九年後の一二五〇年にサヴォワ伯によって自治憲章を付与され、自治都市としての地位を獲得することになる。家族の目には、隆興の途にある若々しさと活気に満ちた美しい町として映るであろう。
マリアとウルシュラは真白の面紗を被り、ユゼフとともに家族揃ってミサに列する。聖ヤコブよ、私たちのためにお祈りください。聖堂に響く祈りの唱和は、そのまま家族自身の切なる祈りに重なろう。
ビスンティウムの街でも目についた巡礼者たちが、この町にも四方から参じまた去っていく。通りには色とりどりの屋台が店を出し、彼らを当てこんで貝殻を模った銀細工や宝飾品などの土産物が所狭しと陳列されている。ユゼフは、ウルシュラが小さな帆立貝の形をした襟飾りに釘付けになっているのを見て、店主に一つ求めるとそのまま屈んで娘の胸に留めてやる。襟飾りの細工には本物の貝殻が使われており、光の加減で七色に煌めいた。ウルシュラは面紗を被ったまま、俯いて自分の胸に留められた光の源を飽かず眺め、呟く。
「しんじられないくらいきれい……」
その物言いに、両親は思わず笑い出す。そして、己の笑いに二人は揃って、ほんの少し救われるような心持ちを覚えるのであった。
三日後の日曜の礼拝の刻を、家族は司教座都市ルグドゥヌムのサン・ジャン大聖堂の側廊に身を置いて過ごす。街中の信徒が身廊を埋め尽くすその頭上に、遥か高みの薔薇窓から虹色の光の階が降り注ぐ。立ちこめる香の香りと人々の熱気。マリアはその感動をごく簡潔に記す。
《束の間、主の御庭に招かれた心地がした》
恐れていたほど、異端への風当たりや余所者への猜疑の眼差しを感じることはなかったのか、二人の記録に特段の言及はない。恐らく事なきまま大聖堂付近の旅人宿で一夜を過ごし、先を目指したであろう。ただし街を出立する前、ユゼフの発案で大聖堂にほど近い遺跡を訪ねた。
朽ちかけたローマ時代の円形闘技場の縁に立って、ユゼフは太古の栄華に思いを馳せたであろうか。
「……気の遠くなりそうな景色ですわね」
マリアが傍に立って言う。
「大昔のローマ人はここで、剣闘士が戦うのを見物したんだそうだ。昨日、聖堂のミサで傍にいた帝国からの巡礼者たちがそんな話をしていた」
ユゼフはそう言うと観客席の石段を降りて行き、すり鉢の底面の闘技場で腰の剣を抜くと構えて見せる。二振り三振りと空を切れば、たちまち手にはタルタリを叩き切った感触が蘇る。剣を鞘に収めながら、最上段で見守る妻を降り仰ぎ大声で呼びかける。
「血を享楽に捧げるなど、まさに異教的だとは思わないか、マリア!」
妻は微笑みながらゆっくりと降りて来て言う。
「でも、あなたは今、まるでローマ人のように生き生きしていらしたわ」
先ほどから闘技場のあちこちでしゃがみ込んでは地面を調べていた娘が、何かを拾って駆け寄ってくる。差し出された欠片をかざして、ユゼフは首を傾げた。
「石、ではないな。やけに鮮やかな碧だ、それにこの光沢……」
「……モザイクの一部、かしら」
マリアは覗き込んでそう言うと、はっとして周囲を見渡す。長い間風雨に晒されて鼠色に風化した闘技場には一面砂礫が散っていたが、よく見るとウルシュラが拾ったもののように時折色付けされ光沢を放つ破片がそこここで陽光を反射している。両親の鑑定に目を輝かせると、ウルシュラはさらにいくつか拾い上げる。赤、黄、緑、紫。広げた手のひらの中の欠片はどれ一つとして同じ色がない。
立ち去る前に、ユゼフは今一度振り返って劇場の跡を見る。魅するために剣を振るった男たちの足元を鮮やかに彩っていたであろう景色を、娘の瞳に映るまま己が胸に描き留める。
ルグドゥヌムを発った一行の馬車は、まっすぐ南へと降っていく。日はいよいよ盛り、山間から地中海へと下るにつれて空気は徐々に熱を増す。幸いにして道がほぼロダヌス川に沿っており、家族はしばしば涼を得たと考えられる。また、川沿いに吹き下ろす乾いた北風は彼らの背を押すように先へと促したであろう。
家族の旅路を共にする思いで記しながら、ふと越し方を振り返る時、これだけの長き道のりを総じて大禍なく来られたことに改めて驚嘆を禁じ得ない。私たちは心震える思いで詩篇を開く。
あなたはみそなわし、悩みと苦しみとを見て、
それをみ手に取られます。
寄るべなき者はあなたに身をゆだねるのです。
あなたはいつもみなしごを助けられました。(詩篇十章十四節)
しかし、すぐ後ろに続く次の一篇に目を移すとき、私たちは何を思うべきなのであろうか。
主はその聖なる宮にいまし、主のみくらは天にあり、
その目は人の子らをみそなわし、
そのまぶたは人の子らを調べられる。
主は正しき者をも、悪しき者をも調べ、
そのみ心は乱暴を好む者を増まれる。
主は悪しき者の上に炭火と硫黄とを降らせられる。
燃える風は彼らがその杯にうくべきものである。
主は正しくいまして、
正しい事を愛されるからである。
直き者は主のみ顔を仰ぎ見るであろう。(詩篇十一章四~七節)
悪しき者とは誰か。正しい事とは何か。直き者とは。──主よ、私たちの小さき姉妹を顧み、憐れみたまえ。
馬を休ませ、木陰でパンとチーズの簡単な食事を摂った後、ほどなくしてウルシュラが吐いた。
トレヴィエの聖マタイ、と聖人の名を冠した小村でのことであった。肢体を震わせて見る間に熱を帯び始めた娘にユゼフは色を失い、すぐさま村の施療院へと馬車を飛ばして診療を乞うた。
施療院の修道女たちは、ウルシュラの容態を診ると迷いなく病室に運び入れた。脱がせた服を湯気の立つ大釜に放り、小さな体を丁寧に清拭するとリネンの寝巻きを着せる。熱で紅潮していた顔の血の気が引いたと見てとると、すぐさま背を支え薬草茶を口に運ぶ。体が拒んで不浄に汚れれば顔色ひとつ変えずに後始末をする。全ての仕事に無駄がなく、目を奪う手際である。ユゼフは一時心配を忘れて女たちの仕事ぶりに見入った。マリアは修道女たちの仕事の邪魔にならぬようウルシュラの手を握りながら一心に慈悲を祈った。
陽が傾き始めても熱は下がらず、ウルシュラはたびたび嘔吐を繰り返した。幼い娘の苦しむ様を、二親は身を裂かれる思いで見守るばかりであった。
病室が西陽に染まり始める頃、修道女の案内で一人の修道士が現れた。礼拝から戻ったばかりの風体で、腰に十字架と小さな鞄を下げている。修道女たちが道をあけるのを見て、この修道士がここで医術を司る者と知れた。
彼は娘の枕元に寄ると軽く額に触れ、胸の辺りに手を当てる。見立てはそれで終わりであった。傍の両親に何を問うこともなく、しかつめらしく鞄から聖書を取り出すと、目を伏せたまま低く、しかし堂々たる調子で祈り始めた。声には張りがあり、聖句は正確である。しかしそれは病む者に寄り添う祈りではなく、講壇からの説教を思わせた。
ユゼフはその様子をじっと見守っていたが、やがて唇を引き結んだまま一歩詰め寄り、修道士の祈りを遮った。
「兄弟よ、神のとりなしは我々も心より願っています。しかし、すでに何度も胃の腑を返し、熱も高い。どうか祈りと共にしかるべき手当をしていただけませんか」
修道士は口を噤むとゆっくりとユゼフに顔を向け、据わった目に不快の色を浮かべて言った。
「あたなは医学をよくご存知ないようだ。よくお聞きなさい、この子の病は体内に溜まった悪しき体液の障りです。しばしお待ちなさい、じきに瀉血いたそう。さすれば熱も吐き気も自ずと治りましょうぞ」
マリアは震える手でウルシュラの手を握ったまま、おずおずと問う。
「失礼ながら、娘はすでに体力を失いかけております。この上の出血はあまりに……」
「神の摂理に従えばこそ、手を下すのですぞ」修道士は遮って語気を強める。「我々は試みのうちに神の導きを仰ぐべきなのです。もしもこの子がここで命果つるなら、それもまた神の御心でしょう。よもや……その御心に抗おうとなさるのか?」
刹那、ユゼフの頬が引きつり気色ばむ。
「では訊こう、兄弟よ」押し殺した声に抑えようのない怒気が滲む。「あなたがこの場でこの子の命を見捨てたとして、それを神のご意志だと申されるのか。……あんたの愚かさと無知でその名を騙る神を信じろと? そんなものは道端に転がった偶像と変わらぬ!」
修道士が羞恥と怒りに顔を赤らめ口を開こうとするのを遮り、ユゼフはなおも言い募る。
「祈りで治るものならば、この世に病などあるものか! その聖句を娘の生気に変えてみせろ! 口を動かすより手を動かせ! 何も見ようとしないその目で、この震えを、この苦しみを見よ!」
病室の空気が張り詰め、修道女たちが足を止め身を竦める。マリアがユゼフの腕を引く。
「ユゼフ、お願い、ウルカに障ります……!」
ユゼフが我に返って押し黙ると修道士は一歩退いた。怯んだのではない。むしろ、正しく神の名において蒙昧なる民の怒りを招いたなら、それこそが己の徳の証と信ずるような表情である。
「神は試みをお与えになる。それに耐えるも折れるも信仰の深さ次第です。……さて、私の役目はここまでのようですな」
目を細めてそれだけ言い残し、修道士は悠然と部屋を後にする。その姿が見えなくなるまで、マリアはわななくユゼフの拳をきつく抑え続けた。
言葉にできぬ失望が部屋を満たした時、水差しを抱えた年配の修道女が誰にともなく呟いた。
「──あの人なら、そうさね、正しく見立てるかも知れないね。あのはぐれ医者なら」
他の修道女が咄嗟に咎めるように制止したが、ユゼフは聞き逃さなかった。
「誰か、他にいらっしゃるのですか、この子を治せる方が」
気まずそうに言い渋る修道女たちはそれでもユゼフとマリアに、村外れの荒れた葡萄畑の奥に一人住む、ティエリという名の医術に長けた俗人のことを告げた。
曰く、南の学寮でサラセンの医学を学び、これまでに数多の命を救ったとか、一方で、教会にも顔を出さない不信心者だといった噂が、言葉を選びながらも女たちの口にのぼる。ユゼフは余計な声には耳を貸さず、男の居場所だけ聞き出すと、施療院を飛び出して馬に飛び乗った。
西の丘に城が見えるでしょう。その南縁、荒れた葡萄畑の中に石組みの小屋があります──修道女の言葉通り、蔓に埋もれかけた庵で見出したその男を、ユゼフはほとんど有無を言わせず引き連れてきた。
男は粗末な農夫の衣をまとい、陽に焼けた赤銅色の顔はどう見ても葡萄農家のそれであったが、目だけは鋭く冴え、何者にも迎合せぬ光を宿していた。ウルシュラを時間をかけて診たあと、立ち上がってこなれたラテン語で言った。
「食あたりの熱だな。たぶん、傷んだ乳か、古くなったチーズでも口にしたんだろう」
マリアがおずおずと昼の食事を思い返し伝えると、男は頷き、
「胃腸がやられたところに、内から熱が暴れとる。こういう時に瀉血なぞすれば、熱を追い出す前に力尽きて終わりだ。まずは熱を冷まさねばならん」
そして遠巻きに見守っていた修道女たちを振り返り、指示を始めた。
「水分は摂らせておるか? 湯は駄目だ、湯冷しか澄んだ井戸水が良い。熱を散らす草が要るな。そこの女、カモミラ・ロマーナにクルミの葉、それにメンタはあるか。そうだな、キンミズヒキも欲しい。あとは乾いた柳の皮か、プラタナスの木屑があれば冷水につけて飲ませる。……まあ、揃わなんだらまずカモミラだけでも良い。煎じて、少しずつ飲ませて腹を休めるのだ」
修道女たちが慌てて薬棚を探り、ティエリは運ばれる薬草を次々に調合してはマリアの助けを得ながら湯に浸す。湯気が立ち上る中、ウルシュラは強く香るひと匙の薬を硬く目を瞑って含んだ。
夕の帳が降りる頃、娘の寝息は幾分安らぎ、頬にも健やかな血色が戻っていた。ユゼフとマリアの深謝にティエリは短く頷き、ユゼフの馬車で暮れそむ空に沈む城の方へと帰っていった。
翌朝、娘が深い眠りに安らいでいるのを見定めて、両親は修道女たちにしばし後を託し、再び庵の医師を訪ねた。金子の包みと共に改めて礼を伝えると、医師ははじめ固辞したが、夫婦が引き下がらないと見て包みから数枚のドゥニエ銀貨を摘み出し、酒代にはこれで十分、と笑った。そして家族の旅の理由を訊ね、これまでの道のりとこれからの漠とした行く先を聞くとしばらく黙し、ならばモンス・ラヌンクリあたりへ行ってみるのもよかろう、と言った。
「金鳳花の山──と言っても土地の者がそう呼んどるだけの名だ。山間の静かな集落だが、トロサとバルセロナを結ぶ街道に近いから、オクシタニアらしい風通しの良さもある。あそこなら教会もさほどうるさくないし、余所者にも寛容だろう」
ユゼフが地図を見せると一瞬目を見開いたが、黙ってピレネー山脈の北の一角に「Mons ranunculi」と書き加えた。医師が指で示したそこまでの道のりは、奇しくも姉妹マリアンヌが示唆した道筋とほぼ重なるのであった。
見送りに出たティエリは、夫婦が乗りつけた馬車を覗き込んで、マリアが蓄え、またビスンティウムの香草屋の女主人から譲り受けた大量の香草を確かめて、これだけあれば十分だ、と保証した。
「そういや、あんたがた、日曜には教会へ行くのかい」
馭者台の夫婦にティエリが問う。
「ええ、許される限りは土地土地の教会にお邪魔させていただいておりますわ」
マリアが答えると、ティエリは頷いて続けた。
「さっき教えた集落では、あんたがたとは違う祈りの形を目にするかも知れん。そういうのも含めて、寛容な土地柄だ。……だが、あまり興味は持たん方がいい。時節柄な」
それだけ言えば十分だとばかりに、医師は口を閉ざして出立を促した。
施療院に戻ると、奥の方から、なぜ神の家に異端の魔術師なぞ招き入れたのだ、と激しく叱責する修道士の声が届いた。留守を頼んだ修道女から昨日のその後の顛末を聞き出したのだろう、廊下で夫婦を目にした修道士は目を怒らせ、穢らわしい、と言い捨てて姿を消した。
ウルシュラの体調は午後にはすっかり回復し、施療院を囲む野原を駆け回るまでになっていたが、両親は大事をとってもう一晩留まることにした。ウルシュラは時折、おおかみのおじちゃんは?、と訊ねた。それがティエリ医師を指していると判るまで二親は長いこと首を傾げ、そうと判ると娘に訳を訊ねた。
「だって、おおかみのおじちゃんだもの。おおかみがつれてきたんだもの」
「連れてきてくださったのは父様よ、ウルカ」
「ちがうよ。とうさまとおおかみのおじちゃんを、おおかみがつれてきたの」
両親は顔を見合わせ、ひとしきり頭を悩ませた末、熱に浮かされていたのだろう、と結論づけた。
明くる夜が明け、出立する家族を修道女たちは懇ろに見送ったが、修道士が最後まで顔を見せることはなかった。
その後家族はなお半月ほど道を辿り、長い旅の末、ついにオクシタニアの山間集落、モンス・ラヌンクリへと辿り着く。およそ四月に届かんとする歳月を経た、八月下旬のことであった。
ウルシュラは目の前に聳える堂の入り口に掲げられた、巨大なティンパヌムの浮き彫りを見上げる。中央に鎮座する救い主によって、居並ぶ群衆が左右の異なる命運に振り分けられている。
ひとしきり彫刻に見入った後、ふと振り返る。登ってきた山道が、静かな家並みのあいだを緩やかに蛇行して遠くまで続いている。ここが新しい暮らしの場所となるのだろう──朧げながら、小さき姉妹はそう理解したのであった。
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