二 マリア
少し時を遡る。
当主のユゼフが屋敷を留守にしている間、マリアはヴィエルグス家の心柱として、家政の一切を差配した。執事のフベルトや侍女のタマラら奉公人たちの助けを借り、ウルシュラの躾や教育、領内のよろず面倒事を当主さながらこなす姿に、家人一同は大いに励まされた。それでも夜、娘を寝かしつけて一人になると、マリアは誰にも吐露できぬ胸の内を密かに書き綴った。誰憚らず綴られたその手記から抜粋する不義の許しを乞いつつ、以下に示す。
《ユゼフが出征してふた月経つ。こんなに長く離れて過ごすことは今までなかった。
復活祭が近づく。タマラたちが教会の手伝いに繁く出かけるようになった日、ふと、遠くから蹄の音と鬨の声が聞こえた気がして、屋敷の門まで出る。ユゼフが戻ったのかとしばらく耳を澄ますが、それきり何も聞こえない。門番のイェジィと顔を見合わせ、肩をすくめて笑う。イェジィは困ったように目をしばたたく。そんなことが何度かあった。
ウルシュラが寝る前には、毎晩二人で祈る。主人が、とうさまが無事でありますように。ウルシュラはまだ父親がどこへ何をしに行っているのか知らず、何度も私に訊ねる。私は答える、とうさまは聖ゲオルギウスさまのように竜を退治しに行ったのだと。勇敢な冒険者であるとうさまの行方は、神様がちゃんと地図に記してくださるから、迷うことなくお家に帰って来られると。
本当にそうなら良いのに──
今日、フベルトから報告を受けた。屋敷から目と鼻の先のオポーレでの戦禍。街は焼き払われ、大勢人々が連れ去られたと。懇意の店もいくつか焼かれ、店主家族は行方がわからないそうだ。店の名を聞いて、身がすくんだ。私自身が親しくしていた人々の名もあったから。
正直に書こう。本当は怖くてたまらない。ウルシュラと二人きりだったらとても耐えられない。家の皆は口々に「奥様は気丈に差配されてご立派だ」と褒めるが、事ごとにフベルトに相談を持ちかけたり、タマラに頼み事をするのは、そうしている間、彼らのそばにいられるからだ。
私の怯えも気負いも、フベルトは全て承知している。支えが欲しい時にはいつも背中を支えてくれる。私だけではない。ウルシュラにもまるで本当の祖父のように、寄り添い見守ってくれる。彼の穏やかで落ち着いた物腰が、私たち親子のみならず、この屋根の下の全ての人々に安心を与えてくれる。彼の指図のもと、侍女や侍従たちは食料の工面、屋敷の周囲の見回りに余念がない。彼らが団結してきびきびと立ち働く姿に、何度勇気づけられただろう。かけがえのない家族をお遣わしくださった主に、私は今こそ心から感謝を捧げる。彼らがいてくれれば、ユゼフが戻るまで、この家はきっと大丈夫だ。
ウルシュラは、今晩もユゼフのことを訊ねる。何度目だろう──うっすらと疲れを覚えながら、いつものユゼフの冒険譚を繰り返す。これは嘘ではない、寓話なのだと自分に言い聞かせながら紡ぐ物語は、その度に磨かれ、娘の中の父親は伝説の英雄として輝きを帯びていく。ウルシュラは満足し、安心して眠りにつく。
でも今夜は違った。ウルシュラはいつもより熱心に耳を傾けたあと、突然言った。
「うーしゃもぼうけんいきたい、とうさまと」
思わず吹き出す。あなたは女の子でしょう──笑いながら口を衝いて出そうになった言葉を、その時私は咄嗟に飲み込んだ。
女の子は冒険には出られない。貴族の娘としても、キリスト信徒としてもそれは至極当然のこと。慎み深くあれ。そう教えられ、私自身もずっとそのように生きてきた。けれど今、その当たり前が、どうしてか喉から出ない。なぜ。そう自分に問うた瞬間、長い間忘れていた子どもの頃の記憶が紬糸のように連なり蘇る。
近所の男の子と木登りをして私だけが叱られたこと。兄より上手に馬に乗って大人たちに眉を顰められたこと、ミサで司祭様の問いかけに不用意に答え、女の子は黙っているよう周囲に嗜められたこと。そしてそう、それらに対して「なぜ?」と訊ねることも控えるよう強いられたこと。侍女たちと話をすると、皆似たような経験をしていることがわかる。一人、タマラだけは公然と大人たちに反抗し、手酷い罰を受けたと、肩にまだ残る鞭の傷を見せて笑った。
「その時わかったんです、奥様。私の最大の罪は、女に生まれたことなんだって」
嘘だ。そう、これこそが嘘なのだ。女として生まれ、万事慎み弁えることを叩き込まれ、それを当然のことと教えられてきた。けれど私は心の奥底で、それを一度たりとも当然のことだと思ったことはなかったのだ。
返事を待つウルシュラの瞳を見つめながら、私はどうにか言葉を拾い集める。
「そうね、いつかあなたが冒険を始める日がきっと来る。とうさまの竜退治のように勇敢に、いえ、もしかしたらもっと素敵な冒険を。その時、とうさまと一緒に行くかも知れないし、あなた自身で旅立つことだってあるでしょう。楽しみね、〝小鳥さん〟」
そう、あなたは私の小鳥さんだもの、どこへだって飛んでいける。それだけは、嘘をつかずに伝えたい。
でもね、ウルカ。あなただけは、どこにも行かないで欲しい。あなたを縛る母親にはなりたくないのに、我儘なかあさまね。だけど、この気持ちは嘘じゃないのよ。》
そして前述の通り、同年四月半ば、ユゼフが九死に一生を得て帰還した。同時に、それまでの日常は音を立ててその姿を変えたのであった。
《この地を離れる。私たちは、敢えて現実感を無視したままその決定を下した。所与の務めとして荷造りの算段をし、顔色も変えず馬車の支度を指示している自分にふと気づいて、眩暈を覚える。全ては冗談であったかのように、何もかも元通りになっていないものか──朝目を覚ますたびにそう思ったものだ。けれどユゼフの恢復とともに、その日は瞬く間にやってきた。
屋敷での最後の晩餐。頭では分かっていても、心が追いつかない。だから私たちはいつものように笑い、いつものように言葉を交わす。途切れた瞬間、胸が張り裂けると分かっているから。
厨房のウーカシュが腕によりをかけた料理を、侍女たちとともにテーブルに並べる。まるで祝宴のような豪華さに、私たちは皆、同じ日を思い出していた。およそ半年前の昨年十月二十一日。聖ウルスラの日、そして、ウルシュラの三歳の誕生日。
あの日も家中の者たちが集まり、盛大に祝ってくれた。蜂蜜入りの小麦粥を添えた薄切りの鹿肉、カワカマスの香草焼き、去勢鶏のクリームソース添え。とりわけウルシュラが飛びついたのは果物と蜂蜜のタルトだ。食卓に出された瞬間のウルシュラの喜色満面は今でも忘れられない。気づくとその隣でタマラが同じように口元を緩めていて、皆で大笑いしたものだ。
そして、そう。あの夜、フベルトがウルシュラに、とても大事な話をしてくれたのだ。聖ウルスラの日を「名の日」に持って生まれた彼女の、名前の話を。
娘に名前の所以を語るには、畢竟、死を避けては通れない。ヴィエルグス家の両親はともに孫娘が生まれる少し前に流行病で世を去り、私の実家であるグリフ家とは穏当な縁を保っているものの、馬車で一週間の距離に隔てられ、いまだに両親と娘は互いの顔を知らない。ウルシュラはまだ、身近に死を知らないのだ。そんな彼女に聖ウルスラの物語を語って聞かせる役どころと時機について、私とユゼフはフベルトを交えて何度も話をし、この日を迎えた。
娘の前の小さな盃に薄めた葡萄酒を注ぎながら、フベルトは穏やかに語りかけた。
「さて、お嬢さま。今日はお嬢さまの誕生日でございますな。ひとつ爺から、昔話をして進ぜましょう。お嬢さまと同じ、ウルスラという名の王女さまの話を」
ウルシュラはタルトを口に運ぶ手を止めて目を輝かせた。侍女たちも釣られて手を休め、その場で立ち止まったまま耳を傾ける。
「むかしむかし、ブリタニアという遠い国に、それは美しく心の優しい王女さまがおりました。名前はウルスラ。家族やお友達や、とりわけ神さまをとても大切に思い、毎日のお祈りを欠かさない方でした。……まるでお嬢さまのようですな。
ある日、王女さまのところに、お嫁さんになってほしいという王子さまがやってきました。でも、その人は神さまを信じていなかったのです。困ったウルスラ姫は、お返事にしばらく時間をもらうと、王子さまに同じ神さまを信じてくれるようお願いをし、お友達といっしょに長い旅に出たのです。いろんな町をめぐって、たくさんの人とお話をしながら、神さまのおことばを伝えました。
旅の終わりに、王女さまたちはケルンという町に着きました。でも、そこにはおそろしい者たちがいました。ウルスラ姫と、お友達の乙女たちはつかまってしまったのです」
フベルトはそこで言葉を切った。ウルシュラがぎくりと身を強張らせたのだ。タルトの欠片を握りしめたまま、身じろぎもせず目を見張る彼女の様子を注意深く見定めて、彼は話を続けた。
「そして……おお、神よ……王女さまたちは、神さまを信じているというまさにそのことを理由に、不信心な者たちの手によって命をうばわれてしまいました。……それでも、ウルスラ姫たちは最後まで、神さまを信じる気持ちを捨てませんでした。そのおかげで、天国へ導かれ、そこで今も神さまのそばにいらっしゃるのです」
ウルシュラはしばらく目を見開いたまま黙っていたが、やがてフベルトを見上げ、うーしゃは?、と訊ねた。
「天に、召されました」
フベルトは厳かに繰り返したが、ウルシュラはそれを遮るように矢継ぎ早に問う。
「おともだちは? おうじさまは?」
「大勢のお友達も、神さまの知らせを受けて駆けつけた王子さまも、もろともに、天使さまに連れられて天国に旅立たれたのです」
ウルシュラは、解しかねるとばかりに小首を傾げ、ぽつりと訊いた。
「……めでたし、めでたし?」
娘の言葉に今度は大人たちが考え込んだ。上座で見守っていたユゼフが、珍しく口を挟んだ。
「天国は私たちが皆、最後に目指す場所なのだよ、ウルシュラ。ウルスラ姫はそこへ行くにはまだ少し早かったけれど、それでも、誰もが神さまにおすがりしようと苦労して毎日を送っていることを思えば、一足早く神の御許に迎えられたことはやはり、めでたし、めでたしだ」
しばらく考え込んでいたウルシュラが、やがて何か呟いた。聞こえたのは、傍にいた私とフベルトだけであったろう。ウルシュラは足元に視線を落としたまま、めでたしくない、めでたしくない、と繰り返していた。そして顔を上げ、叫んだ。
「どこがめでたしいの! なんでおいのりしてたのにまもってくれないの! なんでかみさまたすけないの! ぜんぜん、めでたしくない!」
まだ理解するには早すぎるかも知れない、そう考えていた私たちは、思いがけぬウルシュラの激昂に慌てた。テーブルの向こうでユゼフは言葉をなくし、侍女たちも狼狽えている。こういう時のフベルトはやはりさすがだ。彼は微笑んで大きく頷いた。
「しかり。お嬢さまのおっしゃる通りですな。まことに神さまは、私たちの祈りを聞いてくださっているのやら、時折わからなくなることもございます。ですが……」
いったん息を継ぐと、フベルトはあたかも妙齢の王女を遇するように、憤懣やる方ないウルシュラの前に片膝をついた。
「ですがお嬢さま。神さまが私たちにお与えくださるのは、ただ奇跡や恵みだけではありませんぞ。お嬢さまのように考え、悩み、問う心をもお授けになるのです。ウルスラ姫たちの最期がめでたく思えぬのならば、それはお嬢さまの心が、もっと深く、もっと遠くを見ようとしている証。こうして何百年も経った今も、お嬢さまのようにウルスラ姫のことを思い、その生涯を考える方がいる。姫の信仰もその志も消えてはおりませぬ。今ここに、こうしてお嬢さまの中に息づいております」
フベルトが自分の胸をトントンと叩いて見せると、ウルシュラも真似をして自分の胸を叩き、そして確かめるようにじっと胸元を見下ろして言う。「わかんない」
フベルトは笑って答える。
「今はまだわからなくて良いのです。神さまのお心は、私たちにはすぐには見えぬことが多いのですから。けれど、お嬢さまがこれから歩まれる道のどこかで、今日の問いの答が、ふと見つかる時があるやもしれませんな。その日が来るまで、どうか、お嬢さまがこの姫さまと同じ名前を授けられたこと、忘れずにいてくださいまし」
彼の穏やかな言葉に促されるように、ウルシュラはまだ少し不満げな顔で頷き、やがて次のタルトに手を伸ばしたのだった。
あの日と同じ席に皆がつき、あの日と同じように華やぐ食卓に喜色を浮かべながら、私たちは皆、胸中に薄氷を踏むような緊張を抱えていた。一人ウルシュラだけが、タマラに乞うて給仕を手伝わせてもらいながら、宴席の一人一人に無邪気な愛嬌を振りまく。時折漏れる鼻歌をよく聞けば、いてーる、ふぁきえーむす、いてーる、ふぁきえーむす、と覚えたラテン語の成句なのだ。旅に出ましょう。幼い娘にとっては希望と喜びに満ちたその言葉が、周囲の大人たちの耳には、刻一刻と迫る別離の宣告となって刺さる。堪りかねて、私は娘の手を止めさせ、隣の席へと急いてつかせた。ウルシュラがはしゃぐのも無理はない。普段は別室で食事を摂る奉公人たちが、誕生日でも祝祭日でもない日にこうして一堂に会しているのだから。
ユゼフの食前の祈りで皆がアーメンを唱え、食事が始まる。普段は何があっても門番小屋を離れないイェジィも、葡萄酒一杯だけでもと連れ出され、髭に包まれた鼻を早くも赤くしている。仕事に一区切りをつけたウーカシュは食卓を点検して回り、方々で受ける賞賛の声に鷹揚に応えている。イェジィの息子、侍従のパヴェルは、ユゼフの狩りの供で主菜の鹿を仕留めた時のことを、主人に促されるまま饒舌に語って場を沸かせる。
ふと、タマラの姿が見えないことに気づいた。侍女のヨアンナにウルシュラを頼み、そっと席を立って厨房に向かうと、隅の大竈の前に佇む彼女の背中があった。声をかけようとして、その後ろ姿が渾身の力で何かに抗うように震えていることに気づき、息を呑んだ。
側に立つと、タマラは歯を食いしばり歪んだ顔をあげた。大粒の涙をこぼれるにまかせ、声ひとつたてずに食いしばった歯の隙間から荒い息を吐いているのであった。
「奥様」やがて奥歯を軋ませながら呻くように漏らした。「私は──私は悔しいんですよ」
悔しい。
ああそうか、これは悔しさだったのだ。翻弄されるばかりで抗う術を持たない、私たちの悔しさ。言葉にされるまで、この感情の名前すら忘れていた。彼女の柔らかな肩を強く抱きしめながら囁いた。私も全く同じ思いよ。
薄氷は静かに割れ、沈みながら溶けていく。
夜が明けると、木立にまだ薄い霧が残る静かな朝だ。屋敷の前にはすでに四頭立ての幌馬車が横付けされており、家人たちが忙しなく最後の荷積みをしてくれていた。座席には毛布が厚く何重にも重ねて敷かれ、家人の心遣いと共に、これからの長旅を否が応にも思わされる。
いつもと変わらぬ朝食をとり、身支度を整えて玄関に出る。ウルシュラには、フベルトが手ずから仕立ててくれた衣を着せた。臙脂色の羊毛地に細やかな栗色の縁取りは娘を大層喜ばせた。
表には屋敷の一堂に加え、領内の顔馴染みが大勢集まってくれていた。一人として私たちを責める者はなく、それがかえって申し訳ない思いに拍車をかけた。まだ残ってくれている全領民にはすでに、フベルトが当面のあいだ領主代行を務めること、希望すれば全き移動の自由は保障される旨を特許状に記して配布していたが、それがこの後ろめたさを幾許かでも和らげるものではなかった。
やがて時は訪れる。私たちは一人一人と抱擁を交わす。タマラも、昨夜のことが嘘のように紅潮した頬に力強い笑みを浮かべて、屋敷のことは任せてくださいまし、と頷いた。
ここまで助力を惜しまず尽くしてくださったルシアン殿は、まだなすべきことがあるとのこと、私たちとの同行を辞退された。途中まででもご一緒いただけたなら、どれほど心強かったことだろう。
馬車に乗り込むとき、少し問題が起きた。三人で行くという話をウルシュラがすっかり忘れて、フベルトもタマラも行くと思い込んでいたらしい。二人が馬車に乗り込まないことに気づいて駄々をこね始めたウルシュラを、フベルトは「爺たちは留守番がございますでな、お嬢様の土産話を楽しみに待っておりますぞ」と、いつもの満面の笑みで馬車に押し込んでくれた。
「友のいるところに富がある」──古の作家が残したこの言葉を、私たちは噛み締める。馭者席に座したユゼフの手綱の一振りで、懐かしい顔が遠ざかり始める。幌の裾をわけて手を振り、最後の言葉を投げながら、私たちはこの日、全く新しい道を作り始めた。》
一二四一年五月某日、こうしてヴィエルグス一家は父祖の地を後にした。
ここで、これまで置き去りにしてきた一つの疑問が浮かび上がる。タルタリの脅威から逃れ、一家はどこへ向かったのか。
結論を性急に記す前に、彼らが出立までの間にどのような検討を重ねたのか、限られた史料からその経緯の再現を試みるなら、およそ以下のような成り行きであったろう。
妻子を連れての避難を決意したユゼフは、侍従のパヴェルを昵懇の修道院へ遣わし、急ぎ広域の地図の制作を依頼した。
ようよう十日ほどで届けられた地図を、フベルトは寝台のユゼフの傍で広げた。この時まだ屋敷に逗留していたルシアンが、これを覗き込んで吹き出した。団長殿、あんたエルサレムに避難されるおつもりですか。
修道院は依頼された地図の用途を誤解したらしい。マッパ・ムンディの粗末な簡略版とでも呼ぶしかない代物をとっくりと改め、マリアとフベルトは嘆息を漏らした。
円形に縁取られた大陸は東を上に置き、その東端(図の上端)で丸い城壁に囲まれたエデンには児戯のごとき拙いアダムとイブが顔を覗かせている。そこから放射状にいく筋もの川が流れ出し、中央のエルサレムを潤す。エルサレムのすぐ下から図の下半分の大地をTの字の海が左右に分かち、右にアフリカ、左にヨーロッパの諸都市がぞんざいに詰め込まれている。神がお作りになった世界のあらましを知ることはできても、これを片手に見知らぬ地を旅するならば、恐らく初手から混乱は避けられまい。
寝台からぎこちなく身を乗り出すユゼフにマリアが地図を差し出すと、ユゼフはそれを広げ、しばらく黙って見つめたあと、突如咆哮して力任せに引き裂こうとした。新しい羊皮紙に傷ひとつつかないことを悟ると、ユゼフは地図をめくら滅法丸めて床に叩きつけた。マリアが黙ってそれを拾い上げ、丁寧に皺を伸ばし、その上に小さく十字を切る。重い空気が寝室を浸す刹那、ルシアンが、考えがある、と口を切った。
一週間後、傭兵は新しい地図を片手に雇い主のもとに戻った。
巻をほどき、額を突き合わせて一同は感嘆した。今度は北が上に置かれ、横幅をたっぷり取ったその地図は東端にポロニアを示し、西の大陸の果て、ヒスパニアやルシタニアまでをあまねく収めている。海岸線の形状は心許なく、全体に記された地名は決して多くはなかったが、屋敷のあるオポーレ近郊を起点に、西へと続く何本かの街道に沿って置かれた都市の名が、明確な里程標の役目を果たしていた。
感じ入った雇い主に問われ、傭兵はこの一週間の働きを報告した。曰く、半ば焦土と化したオポーレになお踏みとどまっていた商家を片端から訪ねて、交易用の地図を借り受けて回り、それらを修道院で一枚の地図に縮約させたという。難事業に尻込みする写字生たちに、剣の柄に手をかけながらユゼフの怒りを伝えると、彼らは震え上がって昼夜の別なく仕事をし、ルシアンはその傍に張り付いて終日終夜檄を飛ばし続けたらしい。完成品を筒に巻きながら代金をヴィエルグス屋敷に請うよう告げると、修道院長は青ざめた顔で辞退したというのであった。
今や食客のような顔で屋敷に居座るルシアンの相手構わぬ野放図な振る舞いに、開いた口の塞ぎ方を忘れたユゼフであったが、ともかくも相応の褒美をとらせ、修道院にはあらためて謝礼と謝罪にパヴェルを走らせた。
さて、改めて目の前に広げられたこの世界の写し絵に、一同は押し黙って見入る。この広い世界のどこに、しばし屏息する一家の安全を保証する土地があるだろうか。
まずフベルトが、ブルノにある自らの遠縁を薦めたという。ユゼフが驚きをもって地図から目を上げであろうことは想像に難くない。
ブルノ。それは決して悪い案ではなかったはずだ。堅牢な城壁に囲まれ、商業も盛んで、戦乱の中にあっても比較的守られやすい。しかし、ユゼフの胸にはすぐさま苦い躊躇いが込み上げたであろう。フベルトがその街を選んだ理由を、当主として当然、知っていたからだ。
フベルトの遠縁とは彼の伯父が営んでいた仕立屋のことであり、フベルト自身、若い頃にそこを頼って奉公に出たことがある。若く腕の立つ職人であった彼を贔屓にしたのが、ヴィエルグス家に嫁ぐ前のユゼフの母、ルイザであった。やがてシロンスクのマグナートとしては小ぶりなヴィエルグス家に嫁ぎ、新たな所帯の家政全般をその細い双肩に負ったルイザは、優秀な人手を必要とした。故郷ブルノで懇意にしていた仕立屋に、仕掛かりの衣装の進捗を問う折、良い人材の当てはないかと訊ねると、折り返しの文でフベルトが伺候を申し出ているとあった。ルイザは喜んでフベルトを呼び寄せ、彼はヴィエルグス家の家人となった。フベルトが仕立屋の伯父にも、伯父との縁で自分を引き立ててくれたルイザにも並ならぬ恩義を持ち続けていることを、ユゼフは幼少の頃から感じ取っていた。
しかしまた、それは遠い過去の話でもあった。かつていっとき面倒を見たきりの甥の奉公先の家族を受け入れる余裕が、ブルノの仕立職人の家に今あるかどうかは疑わしかった。そして何より、フベルト自身は屋敷に残り、そこへ行くつもりがない。ユゼフはそのことを思うほどに、この提案を容易に受け入れることはできなかったであろう。
ブルノが退けられると、マリアがグニェズノの名を挙げた。ポロニア王家であるピャスト家ゆかりの都であり、教会の庇護も期待できるかも知れない。タルタリ軍の主力は南へ向かっているという話もあり、より安全な道を選ぶならば、北西に位置するグニェズノは悪くないように思えた。しかし、この案は即座にルシアンが否定した。
タルタリの主力は確かにレグニツァへ向かったが、別動隊が北へ迂回し、すでにヴィスワ川沿いの諸都市を襲ったという話を、彼は方々で耳にしていた。北へ逃れようとした者たちがその別動隊に襲われ、ある者は殺され、ある者は家畜と共に連れ去られたという話は、耳に焼き付いていた。グニェズノも恐らく同じ運命を辿ったはず、という判断であろう。
では、オロモウツはいかがでしょう。ブルノに近く土地勘のあるフベルトが地図上を指したその都市は、モラウィアの要衝でありボエミア王国の支配下にあった。まだこの時点では戦火を免れていたはずだ。しかし、ボエミアという土地そのものに、ユゼフは逡巡したようだ。レグニツァ会戦の折、ボエミア王ヴァーツラフ一世は、義兄であるヘンリク大公を救う機を逸した。ボエミア軍が動いたのは、全てが終わった後であった。それが偶然の遅れであったのか、あるいは最初から及び腰であったのか──ユゼフはその疑念を拭いきれずにいたのではないか。
確かに、オロモウツの城塞は強固である。しかし、ボエミアは果たしてポロニアからの難民に衷心から手を差し伸べるだろうか。もしヴァーツラフがポロニアへの誠意を出し惜しみしているのだとしたら、そこへ向かうことは果たして正しい選択と言えるのか。
結局、ユゼフはこの案にも首を縦に振らなかった。
帝国領は? ノリンベルガとか……、とマリアが遠慮がちに問う。皇帝直轄の自由都市であれば、帝国の秩序が保たれている限り一定の安全も食料の確保も望めるであろう。だがそれも、ポロニアに入植していたドイツ人をはじめ多くの難民が押し寄せればどうなるかわからない。
決定的な候補が絞れぬまま、ユゼフはともかく西の帝国領を目指す腹積りを固めた。
──西、か。
逡巡する三人をよそに、ルシアンが呟く。そして壁の書棚の羽ペンを取り、地図の中ほどに示された「Regnum Arelatense」の下に「Burgundia」と書き加えた。アルル王国、かつてのブルグント王国。地図に郷愁を誘われたのか、それとも現実的な一つの提案としてか、彼は少しばかり故郷ブルグントのことを語ったという。
ブルグントは良い地だ。丘が続き、畑が広がり、葡萄がよく実る。冬は冷えるが夏は風が心地いい。どの村も町も酒樽の香りがする。酒場で揉めても朝にはもう忘れている。気のいい奴が多い。……もっとも、俺が知っているのは戦場と宿屋と安い酒場ばかり、貴族の一家が身を寄せる先としては心許ないかも知れないがな。
郷愁と幾許かの誇り、あるいは一抹の寂しさもあったかも知れない。ルシアンの語りはユゼフたちが一様に抱える不安や寂寥に、はからずも寄り添っていたのではなかったか。だから皆は黙って耳を傾け、ルシアンは望郷の思いが羽ばたくに任せ、さらに西の、自身もまだ知らぬ憧憬の地の名を口にした。
「その先はもう、オクシタニアだ」
オクシタニア──フランス王の領土のさらに向こう、陽が長く、乾いた南風が吹く大地。北の王都で話されるオイル語に対して、南の民が操るオック語の典雅な響き。その言葉で吟遊詩人たちが紡ぐ天衣無縫な宮廷愛。そこを知るものはみな口を揃えて称える、あそこは自由の地なのだ、と。
ユゼフとマリアにとって、その名は聞き慣れないものであった。その上、地図を見る限りオポーレからはあまりに遠い。それでも地図上の「Occitania」の名がインクで丸く囲まれていたのは、彼らの胸のうちにその地の名が深く刻まれたのだと察するよすがになろう。
「……きっと、暖かい土地なのでしょうね」
マリアが地図の遥か遠くに焦点を結んで呟くと、ルシアンは目を細めて首肯したという。
今、三人を乗せた馬車はカルパティア山脈の北麓沿いに、西を目指してひた走る。
馭者台で手綱を握るユゼフの目には、レグニツァでの敗北後、馬の背に担がれルシアンに支えられながら帰路を辿った日の、朦朧とした記憶の惨状が再び映っている。屋敷で傷を癒している間、いっときなりと脳裏から遠ざけ、ともすれば疑うことすらできた光景が、夢でも幻でもないのだと迫る。骨組みだけを残しながらなおも燻り続ける家屋。もとは商館の倉庫であったと思しき石組みの残骸。放置されたままの馬の死骸には飢えた犬が群がる。
ユゼフが手綱を握ったままちらりと背後を窺うと、正面を開け放った幌の開口部間際に腰掛けたマリアと目が合う。揺れから庇うように側のウルシュラを掻き抱いたマリアは、初めて見るこの国の現実に声もなく顔をこわばらせている。本当にこれでよかったのか──早くもよぎる迷いを拭い去るように、ユゼフは幌の留め紐を解いて母子の視界を遮りながら、もうすぐ街を抜ける、と告げた。
帝国へとつながる街道には、一家の馬車と前後して何台もの馬車が連なる。大方が帝国からポロニアに移住したドイツ人家族であろう。我先にと帰郷を急ぐ車列が、戦禍からひと月以上経っても途切れることはなかった。そして、逃れる場所を持たない人々は、瓦礫の狭間からそれらの車列を力なく、あるいは恨みのこもった眼差しで見送るのであった。
街を抜けた一家は、ほどなくオーデル川のほとりに着く。船着場にはすでに長い列ができていたであろう。身一つで渡ろうとする者は小さな舟を使い傍に馬を泳がせ、馬車で渡るなら一番大きな、桟橋にも似た船を待たねばならない。馭者台に身を乗り出したウルシュラは、初めて見る川の景色に興味が尽きずユゼフにあれこれ訊ねるが、返すユゼフの言葉は少なかったとマリアは記す。
日が暮れる前にベネディクト会の修道院に辿り着く。まだヴィエルグス家の名が通る地であり、恭しく個室があてがわれたのはありがたかった。食堂で供された簡素な食事に十字を切り、周囲に憚りながらマリアはウルシュラと一日見聞きしたことを控えめに喋った。マリアは密かに、ウルシュラの目がとても良いこと、細やかな観察とその記憶に優れていることを今更ながらに気づかされたという。このことは、後の旅を通じて終始マリアを驚かせ続けることになる。
五月下旬。
ドイツ人入植者の集落を抜けて橅やオークが鬱蒼と茂る森とひた走るうち、行手が岩や倒木で塞がれているのに出会した。明らかに人の手によってなされた仕事である。ユゼフが馬車を止め辺りをさぐると、ぞんざいに下草を刈っただけの迂回路が脇手に伸びている。そばには粗末な木樵小屋があり、中から現れた男がサクソニア訛りのドイツ語でユゼフに関銭を要求した。ポロニア領内に暮らすドイツ人たちとは異なる抑揚から、マイセン辺境伯領、つまり帝国領内に入ったことが知れた。
タルタリ襲撃による混乱の報が知れ渡ってか、男ははじめ、ひどく警戒した様子で一家に誰何した。やがて彼らがポロニアの貴族と知ると、物珍しげに、無遠慮に馬車の中を覗き込んだ。ユゼフは払うだけ男に銭を手渡すと、男が避けるのも待たず手綱を振るって馬車を出した。野卑な罵声が後方に掻き消える。
この頃にはすでにマリアの筆致にも、その筆に描かれるユゼフにも相応の疲れが見えるようになる。そんな両親をよそに、ウルシュラ一人だけが、馬車を停め馬を休ませるたびに、道端の植物、動物、虫、目に映る全てを旺盛に吸収しているのであった。少なくともマリアにとって、そんな娘の姿や、彼女の自然に関する貪欲な質問にユゼフと共に四苦八苦しながら答えるひとときが、慣れぬ長旅でのささやかな癒しであったろう。
ウルシュラはとりわけ、マリアが道々摘んでは常備薬として幌馬車の内に吊るしていた、薬草類について知りたがった。
「これはなに?」
「セイヨウノコギリソウよ。お熱が出たときに飲んだり、お怪我の手当てに使うのよ」
「これは?」
「シロツメクサ。風邪をひいたら煎じて飲みましょうね」
「これは、うーしゃ、しってる! ぱんぽぽ!」
「そう。〝小鳥さん〟は本当によく知ってるのね。たんぽぽは色んな病気に効くのよ。お腹が痛くなったり、気分が悪くなったりしたら試してみましょう」
マリアは務めて朗らかに娘の相手をしながら、その意識の半分は、日に日に寡黙さを増していくユゼフに向けられていた。時にウルシュラとのやり取りのさなかに、ユゼフに接ぎ穂を向けてみることもあったが、良人は黙って微笑むか、ごく短い相槌を返すばかりであった。彼の中で、家族を守りながら今日の寝床と明日の糧を確保し続ける綱渡りの日々は、クレネのシモンが偶然通りかかったがために、ゴルゴタへ引き立てられるイエスの代わりに負わされた十字架のようなものなのかも知れない。どこかできちんと話をしなければ、とマリアは心に刻んだ。
月が明け、瀬音煌めくエルベ川を渡った一家を迎えるのは、賑々しい教会の鐘の音だ。マイセン辺境伯領の小さな町、ドレスダでは折しも聖霊降臨祭のさなかなのだ。通りには野薔薇や芥子の赤い花びらが散り敷かれ、司祭を先頭に町の住人や伯の代理人と思われる有力者の姿も交えた聖体行列が繰り出されている。ユゼフは手綱を緩め馬車を徐行させながら、ウルカ、見てごらん、と背後の幌を捲る。ウルシュラは幌の隙間から頭を出し、しばらくは行列に目を見張っていたものの、ほどなく再び幌の中に引きこもる。代わりにマリアが顔を出し、黙ってユゼフにかぶりを振って見せる。この二日ほど前から、疲れ知らずであったウルシュラが体調を崩していた。マリアの煎じた薬草茶を顔を顰めて飲みながら、休憩の時も表へは出ずに馬車の中で絵を描くことが増えた。どこまで行くにせよ、一旦この辺りで旅を休むべきだと、両親は了解していた。
ところが、祭礼に沸く町にはユゼフらと同様、タルタリの脅威から逃げ延びてきた難民がそこかしこに溢れ、すでにいくつかある宿にも修道院にも、家族三人を受け入れる余地は見出せない。陽が傾き始めた頃、マリアが意を決して、
「次の街まで行ってみましょうか」
と問うと、ユゼフはしばらく厳しい顔で逡巡した末に、少し待っていろ、と言い残して馬車を降りて行った。
鐘がひとつ鳴る間ののち、ユゼフは馬車に戻ると告げた。
「教会に部屋を貸してもらった。しばらく留まれる」
良人の交渉の才覚を計りかねていたマリアは内心の驚きを隠しながらも、助かりました、と安堵の笑みを浮かべた。
夜、久方ぶりに寝台で安らぐウルシュラの寝息に耳をそば立てながら、突然ユゼフが口を開いた。
「なあ、私がユゼフだろう」
何を言い出すのか、とマリアが怪訝な顔を向けると、ユゼフは続けた。
「そしてお前がマリアだ。私たちは今、幼い子どもを連れて西へ逃げている」
途端にマリアは、ああ、と腑に落ち、すぐさま胸に十字を切った。
「ユゼフ、いけないわ」
良人の不敬を嗜めながら、実のところマリア自身、同じことを思わないわけではなかった。
マタイによる福音書に描かれた、ヘロデ王の手から逃れてエジプトまで逃げ延びるベツレヘムの聖家族の物語と、今の自分たちは確かに類似している。けれどウルシュラは男の子でもなければ、王の座を脅かす者として命を狙われているわけでもない。この類似を自分たちにとっての予型と考えることはあまりに不遜だと、マリアは自戒した。
ユゼフは答えず、しばらく思い詰めた眼差しを床に落としていたが、不意に自嘲するような笑みを浮かべて言った。
「だが、おかげでこうして部屋を工面してもらえたのだ」
そして、夕刻、式典を終えた司祭を相手に為した交渉について、マリアに語って聞かせた。それは実際、交渉というよりは、ほとんど芝居を打ったと表現した方が良い一幕であった。ユゼフは貴族としての威厳を保ちつつ、含みのある深刻な面持ちで自分と妻の名を明かし、幼児を連れて西へ逃げている最中だ、と告げたのであった。あからさまな暗示に司祭は静かに表情を変え、
──何と大胆な……
と呆れと畏れをないまぜに十字を切りながら、それでもあくまで敬虔に、これも聖霊降臨祭の日に精霊がお導きになったことなのでしょう、とひとりごちてユゼフを司祭館へ案内したという。
「しっかり寄進は求められたよ。もちろん十二分に納めたがね」
マリアは話を聞きながら、先ほどからユゼフが浮かべている表情を以前どこかで見た気がしていた。気難しいところはあっても、鬱屈を吐きあぐねるようなこんな表情の良人はかつて見たことがない。いつからだろう──と思った途端、屋敷を出立するまでのしばらくの間、寝食を共にしていた傭兵の顔が浮かぶ。ああ、そういえばルシアン殿が時折同じような、己を嘲る笑みを浮かべていた。
「ユゼフ」マリアは良人の手を取りながら、慎重に言葉を選んだ。
「あなたが私たちを守るために心を砕いてくださっていることは、よく解っているつもりです。ウルカのことを思えば、ここに泊めていただけたことは何よりの幸いでした。この子の安らいだ寝顔をご覧になれば、主もあなたの行いをお許しくださるでしょう。けれどこれからは、もっと私のことも頼ってくださいまし。どうか一人で抱え込まないで。私たちは今、同じ道を一緒に作っているのですから」
ユゼフは長いことそれに応えなかった。長い沈黙の末に蝋燭が尽きかけるころ、マリアの手の中で夫の手がこわばり、一言、わかったよ、と押し殺した声が返った。
数日ドレスダに逗留してウルシュラの快復を待ったあと、一家は再び旅を再開した。
日を追うごとに日差しは夏の訪れを感じさせた。ユゼフはなるべく木陰の道を選んだが、水辺にあたるたびに馬も人も休憩を余儀なくされた。いくつもの集落を経ながら、この先に待つはずの帝国自由都市がその威容を現すのを、今や遅しと手綱を振るう。
六月中旬ごろ、長い林道を下った先で木立が途切れ、目の前を流れる川の向こうに見渡す限りの城壁が一家の視界を覆った。巨大な城門へと続く跳ね橋の手前で、ユゼフは馬車を止めて見上げる。幌から顔を出したマリアとウルシュラも呆気に取られてため息を漏らすばかりであった。
二十二年前の一二一九年、ノリンベルガは皇帝フリードリヒ二世により自由憲章を授与され、帝国直轄の自由都市として大特権を獲得した。人々は周縁領主による支配と課税から解き放たれ、自治や経済の自由を謳歌していた。その活況はポロニアの一封建領主がかつて一度も目にしたことのないものであった。しかしそれは同時に、彼の貴族としての地位や権威もごく儀礼的に扱われることを意味した。
長い跳ね橋を渡った先の城門で衛兵に停められ、馭者台のユゼフは恐らくサーコートの紋章を示しながら名乗りをあげたであろう。幌の内にいるのが彼の妻と幼い娘だけであることを確認し、衛兵は家族の通過を許可したが、城壁の内側で再び停められ、都市参事会との面談を告げられた。しばらく待って参事会館へ誘導されると、道中肌身離さず携行してきた剣と弓を預けるよう求められ、ユゼフはしばしの葛藤ののち渋々従った。参事会での聴取では、己のままならないドイツ語と慇懃無礼な参事会員に苛立ちを募らせながらも、ドレスダの教会でもらった紹介状が功を奏し、一家は晴れて都市への滞在が許可されたのであった。
プレモントレ会の運営する聖エギディウス修道院には、今もユゼフの手による滞在記録が残されている。家族はここで、全身白い修道服に身を包んだ修道士たちの厳格な規律に付き添われながら、しばらくの間滞在し、自活の方策を模索したようだ。
マリアは携行してきた宝飾品を慎重に選り分けながら、少しずつ街の金細工師に売却した。そして必ず、その場にウルシュラを連れて行った。
「Schoene, niht?(きれい、でしょ?)」
職人がマリアの指輪のガーネットや、髪留めの銀細工を光にかざして矯めつ眇めつする様を、作業台にかぶりつきで見つめながら、ウルシュラはいつの間にか覚えた片言のドイツ語を熱心に発するようになっていた。少しでも高値をつけてもらえることを期待してるのかしら、とマリアは頼もしく思いながら、娘の言葉に職人が絆されて破顔するのを密かな愉しみとした。
一方、ユゼフはそのようなマリアの振る舞いに少なからず不満を抱いた。大切にしてきたはずの宝飾を手放すことも、その場を幼い娘に見せることも、全てがどこか当てつけのように感じられた。不機嫌さの一因には、ノリンベルガに腰を据えた同郷ポロニア出身の商人たちに求めていた援助に、望むような返答が得られないでいたこともあったようだ。己の不甲斐なさに、ユゼフは一層心穏やかでなかったのであろう。夫婦は金策や娘の教育について一度ならず口論したが、マリアは決して譲らなかった。
「家紋の入ったものや思い出のものは、決して手放しません。でも、私たちも、この修道院の方々も、水だけ飲んで生きて行くことはできないわ。私たちの蓄えもいつまでもあるわけではないでしょう。何がお金になって、それがどのように日々の糧に変わるのか、ウルカだって知っておく必要があると思うんです」
「だとしても、物事には知る順序というものがある。三歳の子どもに金勘定など見せるものじゃない。マグナートの娘がわずか二、三グロッシェンに汲々とするような大人にでもなれば、良い縁談など来なくなる」
「まあ、生きる力や知恵を軽んじられる家門が、果たして良いご縁と言えましょうか」
「お前はいちいち理屈が過ぎるのだ、マリア。貴族の女に求められることが何なのか、お前だってよく解っているはずだろう」
「ええ、もちろん。よく解っていますわ」
でも、明日どこにいるかもわからない私たちが、いつまでマグナートを、貴族を名乗っていられるのでしょう──マリアはかろうじてその言葉を飲み込む。それぞれにままならぬ思いを抱えながら、それでも夫婦はこの街に腰を据える心づもりを固めつつあった。
しかし神の配剤は、この家族をさらなる試練に誘うのだ。
数日ののち、ユゼフは市場でルーシ産の毛皮を扱うポロニア出身の毛皮商と知り合う。
「今年はルーシの毛皮がまるっきり品薄でな。何でも、タルタルだかタルタリだかって、化け物みたいな連中に国をほとんど潰されたんだとさ。だもんで今の季節でも十分いい商売になるぜ」
そのような耳打ちをされたユゼフが何を思い、何と応じたかは定かではない。だが同郷のよしみと生活への不安が彼を動かしたのであろう。取引の手解きを受け、試みに商人から仕入れた品を市場の片隅で商っていたところ、ギルドの査察官らに見咎められた。いくつかの質問に憮然と答えると、彼らは一旦その場を引いたが、数日後、再びやってきてユゼフを取り囲んだ。並べていたリスやテンなどのルーシ産の高級品が偽物だとの嫌疑であった。
無礼な言いがかりにユゼフは戸惑い、憤慨した。余所者の素人から金銭を搾り取ろうという企みではあるまいか、と疑った。
しかし、査察官らを伴って商人の店舗を訪ねてみると、わずかな在庫を残し、商人は姿を消していた。近隣の同業者に訊ねると、朝一番で馬車にあるだけの荷を詰め込み出て行ったという。店にも倉庫にもルーシから仕入れていたことを裏付ける何らの証拠も残されておらず、同行した鑑定士によって、リスの札の付された棚に脱色した野兎の毛皮が積まれていたことが判った。
ギルドで数刻にわたり取り調べを受けた末、無知ゆえに欺かれたものと認められ、放免されたユゼフは憤然として修道院に戻った。話を聞いたマリアは、幸い商人に支払った出資金が大事にいたる額ではなかったと良人を慰めた。
翌日、ユゼフは修道院長に呼ばれ、都市参事会がヴィエルグス一家の滞在許可を再検討していると聞かされ耳を疑う。行方をくらませた毛皮商人には度重なる前科が疑われていること、ポロニアからルーシにかけて偽造毛皮を扱う協力者の存在が掴まれていることが、ギルドを通じて都市参事会の知るところとなり、ユゼフの関与が改めて疑われていた。何よりユゼフを逆上させたのは、修道院長のもとに都市参事会から届いた文で仄めかされていた、参事会内でのやりとりであった。
《ルーシがタルタリとやらの襲撃で壊滅したと伝え聞いてから、確かに彼の地からの入荷が激減している。それは複数の帳簿が明かすところである。ポロニアからやってきたというあの御仁は貴族騎士だそうだ。入市の際の面談ではタルタリと戦ったと言っていたというではないか。ではルーシが今どういうことになっているのか、そこからの品が容易に手にできる状況でないことくらいご承知ではないのか。よもや騎士というのも偽りではあるまいな。どうにもポロニアのごとき辺境の民は信用に足りぬ……》
部屋に戻るなり荒ぶりながら荷造りを始める良人を、マリアは、世話になった方々への挨拶を済ませるまであと幾日かだけ待ってほしい、とようやく思いとどまらせた。
実のところ、ユゼフが商売を試みていたのと前後して、マリアにも心に深く刻まれる出会いがあった。修道院の薬草園の手入れを手伝っている中で知り合った姉妹マリアンヌは、深く豊かな草花の知識を持った、寡黙な女性であった。薬草園の畝の整え方、土の調整、水やりの頻度を言葉少なに教わりながら、マリアは彼女に土地のものではない訛りがあることに気づいた。ある時、マリアは一足早く畠に駆けて行ったウルシュラが姉妹と一緒にいるのを目にした。彼女はウルシュラに歌を教えていたのだが、それは耳に覚えのない異国の言葉であった。
「賢い子ね。何でもすぐに覚えてしまう」
マリアに気づいて、姉妹マリアンヌは微笑んだ。
「ええ、特に言葉は……あちこち旅をしてきましたから」
教わった歌を口ずさみ、マリアンヌに頼まれてセージを摘むウルシュラを二人で見守りながら、マリアは屋敷を出て以来の心やすさを相手に感じている自分に気づいた。その心やすさは容易に、屋敷に残してきた懐かしい人々を思い出させて狂おしい郷愁を掻き立てたが、同時に姉妹の寡黙ながら気のおけぬ佇まいに触れていると、故郷への想いはじきに鎮まっていくのであった。
その日から、マリアは薬草園で姉妹マリアンヌの指示のもと働くようになった。厨房用の香草や、施療院から注文を受けた薬草を収穫したり、仕分けたりしながら、フランス訛りを隠すように言葉を選ぶ姉妹と少しずつ身の上を分かち合った。
マリアは時折、姉妹が憔悴した様子でセージを摘んでいるのに気づいた。そっと訊ねると、
「……眠れないのです」
と弱々しく笑った。傍で聞いていたウルシュラが、生真面目な顔で両の手を上下に重ねて叩き始めた。
「ぱちゃ、ぱちゃってやってみて。くびに、あとおむねにも……ね、かあさま」
マリアが寝付けぬ夜に、ワインに浸したセージを首や胸に当てがって気を鎮めているのを、この小さな娘は理解した上でマリアンヌに教えようとしているのであった。
マリアが笑いながら説明すると、姉妹は破顔してウルシュラを抱き寄せ、思いがけないことにそのまま涙をこぼし始めた。マリアは慌てて訳も知らぬまま慰め、ウルシュラは困惑して身を縮めた。
落ち着きを取り戻した姉妹は、吶々と眠れぬ理由を語った。時折ラテン語や聞き取れぬ異国の言葉を交えたドイツ語でおよそマリアが理解した限り、彼女は生まれ故郷の小さな村(モンヴィメ、と聞こえた)から着の身着のまま逃げてきたという。inquisitio、というラテン語に、マリアは一瞬心臓を掴まれたような気がして身震いした。異端審問。彼女の村は審問官に率いられた夥しい数の武装兵に包囲され、およそ百八十名ほどの村人が抗う間もなく松明のように燃やされたというのだ。独り身の彼女を家族のように愛してくれた大切な人々が次々と引き立てられていくのを、納屋に隠れ息を殺して見送った。父と慕う完徳者の日々の教えが、彼女が声を立てるのを厳しく戒めていた。
──あなたは悪しき神の創りしこの偽りの世を生きなさい。どこまでも生きて、見て、聞いて、そして伝えなさい。一人でも多くの同志を、正しき道へ導くために──
そこまで一息に話して、姉妹は我に返ったように口をつぐんだ。
「ごめんなさい、あなた方にこんな話……どうか、忘れてください」
マリアはそっと傍のウルシュラを伺う。さすがに今の話は理解を超えていたらしく、小さな娘は他に興味を奪われている。ほっとして、改めて姉妹に向き直ると囁いた。
「胸に固くしまっておきます。何か……困ったことがあったら、いつでも仰って」
姉妹は弱々しい笑みを浮かべ、しかしはっきりとしたドイツ語で、ありがとう、と応えた。
修道院の人々にいとまを告げて回った最後に、マリアは薬草園に赴いた。姉妹マリアンヌはマリアの姿を認めると微笑んで抱擁を求めた。
「また、旅に出るのだそうですね」
マリアはこれまでの礼を厚く述べたあと、手短に、西を目指すことを話した。姉妹はしばし眉宇を曇らせて黙っていたが、気を取り直すように傍のウルシュラに身を屈めて抱擁した。
「ウラ、あなたにも、いっぱい、いっぱいありがとうを言わせて」
ウルシュラは短い腕を精一杯姉妹の首に回すと、心配げに訊ねた。
「まいあんぬ、ぱちゃぱちゃしてちゃんとめむれた?」
「ええ、ええ、おかげでぐっすり眠れたわ。……優しい子、ありがとう」
そしてまなじりの涙を拭うと、再びマリアに向き直って言った。
「西、と仰いましたね。具体的にどこを目指されるか、もうお決めになりました?」
「いえ、主人とも今一度確認しなければと思っているのですけれど。でも恐らく、アルル、ベザンソンあたりを目指すことになるように思いますわ」
「そこに留まられるのですか?」
「わかりません……そうできたらいいのですけれど、もしかしたらもっと先の……」マリアは耳に刻まれた傭兵の言葉を思い出して言う。「……オクシタニア、まで」
その瞬間、姉妹の表情がさっと固くなったことにマリアは気づいた。
姉妹はしかし言葉を返さず、やがて小さく頷くと何事もなかったかのように微笑んだ。
「お見送り、させてくださいね」
久方ぶりに幌馬車に繋がれた馬たちが勇んで嘶くのを宥めるユゼフから少し離れて、マリアは修道院の玄関に集った人々と最後の言葉と抱擁を交わす。再び臙脂色の衣を身につけた小さなウルシュラは、全身白い修道服をまとった聖エギディウス修道院の修道女たちに取り巻かれて代わる代わる接吻を受け、まるで鳩の群れに啄まれる果実さながらであった。
姉妹マリアンヌが人垣から遠慮がちに進み出て、丁寧に畳まれた、純白のリネンの手巾をそっとマリアに手渡した。そしてそのまま腕を背に回して抱きしめた。
「どうかご家族ともども、いつまでもお元気で」
「あなたもね、マリアンヌ」
二人のやり取りに気づいて駆けてきたウルシュラを抱き上げ、姉妹はその額にも接吻する。
「ウラ、ああ、愛しいウラ。美しい魂。あなたはいつまでもそのままでいてね、また会いましょうね」
姉妹の腕の中でウルシュラが何か、マリアの解さぬ言葉で呟いた。姉妹ははっとしてまじまじと腕の中の幼子を見つめると、そっと地面に下ろし、わずかの間その柔らかな髪の波打つ頭頂に手を添えた。ウルシュラはその手を握ると、いつになく強い眼差しで姉妹を見上げた。
馬車を参事会館につけ、預けていた剣と弓を受け取ると、ユゼフは手綱を思い切り振った。城門を潜って跳ね橋を渡る間、マリアは幌をめくって越し方を振り返る。
ふと握りしめていた手巾を思い出して、マリアは四つ折りのそれの皺を伸ばすと改めて見入った。縁に小さく野花の刺繍が施された上品な、そして恐らくは上等な手巾であった。姉妹の心づくしの餞別を胸に掻き抱く。そして四つ折りを広げ、息を呑んだ。
折りたたまれて隠れていた部分に、びっしりと文字が書き付けられていた。手紙ではない、全て街の名前だ。地名ばかりが十、二十と連なり、そして最後に、ラテン語で一文が添えられていた。
Haec memoriae manda et combure.
マリアは馭者台のユゼフがいつも懐にしまっている地図を借りると、地名の一覧と照らし合わせた。それらはノリンベルガから西へ南へと連なり、一筋の道を形づくっているように見えた。声に出さないまま、何度も繰り返し書き付けられた地名を読み返し、地図の上を指で辿る。そうしながら、マリアは心の中で訊ねる。
この通りに進め、と仰るの、マリアンヌ──?
記された街の名を記された順序で完全に覚えてしまうと、マリアは奇妙な思いに囚われた。自分と似た名を持つ姉妹マリアンヌ。迫害を逃れて西から来た彼女と、タルタリの襲撃を避けて東から来た自分が、ノリンベルガでまるで姿見を挟むように入れ替わり、私たちは彼女の越し方へと「帰って」行く。
西へ丸一日進んだその夜、オノリヌムの修道院に身を寄せると、マリアは暖房室の火にそっと手巾をくべた。野花の刺繍も細かい文字も、見る間に灰へと帰っていった。
食堂で夕食をとりながら、マリアはウルシュラに話しかけた。
「ねえ〝小鳥さん〟、マリアンヌ、優しいひとだったわね」
湯気の立つ豆と根菜のスープを旺盛に口へ運びながら、ウルシュラは頷いた。
「おはなのなまえ、たくさんおしえてくれた」
あやめ、きしょうぶ、ばら、まよらな、めぼうき、いのんど、おおぐるま、ころは、らべんだー、せーじ、かもみーる、みんと、たいむ……、と指を折りながら、辿々しくもドイツ語で数え上げて見せる娘に、ユゼフが黒パンをちぎりながら、久しく見せなかった晴々とした笑顔で言った。
「ウルカ、お前もすっかり花博士じゃないか」
「ねえ〝小鳥さん〟」
久方ぶりの団欒を噛み締めながら、マリアはふと気になっていたことを訊ねた。
「マリアンヌとのお別れの時、抱っこされながら、あなた、なんて言ってたの」
ウルシュラはその時のことを覚えていないのか、小首をかしげたまま黙り込んでいる。
「あの人、ウルカのことをウラ、って呼んでたな。この土地じゃあその方が通りが良いのか」
ユゼフが独りごちたのを潮に、マリアは質問を変えた。
「ねえ、ウルカ。父様や母様はあなたのことを、ウルカ、って呼ぶでしょ。私は〝小鳥さん〟とも呼ぶわね。お屋敷ではみんな、ウルシュラお嬢様、って呼んでいたわ。そしてマリアンヌは、ウラ。あなたはごちゃ混ぜになってしまって、自分のことを、うーしゃ、って名乗るけれど。ね、あなたはどう呼ばれるのが一番好きかしら」
ウルシュラは黙り込んだまま母を見、父を見た。ゆで卵に伸ばしかけた手が宙で止まっている。長い沈黙に両親が、おや、という表情を見せた時、小さな娘は静かに言った。
「どれもすき。どれもわたし。でも、わたしはわたしなの」
両親は言葉を失い、目を見交わした。この子は、私たちの娘は、本当にわずか三歳の幼子だっただろうか──
マリアはこの瞬間のことを、やがて旅を終えた後も決して忘れることはなかったと言う。娘に目覚ましい成長をもたらしたあの日々は、一体何だったのだろうか、と。
しかし、振り返る日はまだ先のこと。彼らの旅はなお続く。
主よ、どうかこの小さき者たちに、道のりの全てに、
あなたの御手の守りと平安を与え給え
暗闇にあっても、あなたの光が彼らを導きますように
我が祈りが、時を手繰ってこの家族に届きますように──アーメン
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