一  ユゼフ

 四十一年の時を遡り、私たちはまず一人の殿方を知ることから始める。

 名はユゼフ・ヴィエルグス。ポロニア国はシロンスク地方、オポーレにほど近い小ぶりな領地を父祖より受け継ぐマグナート(上級貴族)にして、これから語られるべき少女の父君である。


 一二四一年一月。

 オーデル川の水面を削る霜風が、城門を出たばかりのユゼフを嬲る。馬上でマントの合せを手繰りながら川風の行先を振り返れば、午後の淡い日差しに照らされて、今しがた辞したばかりのポロニア大公をその中に抱く城館はいかにも堅牢に見えたであろう。

 大公ヘンリク二世は今、東の諸侯との会合を終えて宮廷を置くブレスラウへの帰途にあった。その途上、家族が冬を過ごすオポーレの城館に立ち寄り、ユゼフをはじめとするシロンスクのマグナートたちを慌ただしく呼び出したのには訳があった。

 三歳になる末娘のヤドヴィガを腕に抱き、ヘンリク大公はくつろいだ表情で、諸侯や各地よりの使節、司教区司教らが会する謁見の間に現れた。その腕からまろび降りて、聳え居並ぶ偉丈夫たちを気にも留めず露台に遊ぶ小鳥たちへと駆けて行く娘に、ユゼフ達が一様に髭の奥で頰を緩めるのを認めると、大公は玉座につき、重々しく口を開いた。

 ──ルーシが、落ちたそうだな。

 困惑と追従のどよめきが湧き、またすぐに沈黙が広間を満たす。その知らせはすでに銘々の伝で耳にしていた。ただ、どう受け止めるべきか計りかねたまま、今日ここに集っていたのだ。

 東の地平より忽然と現れた、人とも獣ともつかぬ蛮族の群れが、国々を蹂躙しながら迫りつつあるという報せは、スラブの大地を駆け抜け、遠く西の教皇領まで届いていた。人々は彼らを深き冥界タルタルスより出でし「タルタリ」と呼んで震撼し、地獄の風が次はどこに向かって吹くのかを声を潜めて噂した。

 前年の暮れ、ルーシの公国群を未曾有の劫掠と酸鼻を極めた殺戮で荒廃せしめたその怪物たちは、首都キエフの陥落を見届けると、蹄の先をさらに西へと定めた。ブーク川を越えればポロニアの地である。

 各国王侯や高位聖職者たちの間に慌ただしく書簡が飛び交った。助言と支援を求める悲痛な声は、しっかと受け止められる者もないまま、虚しく右往左往するばかりであった。

 ──帝国は、いささか腰が重いと見える。

 思案顔で大公が呟くと、周囲の騎士たちは声を荒げた。

 ──自国から散々入植させておいて、同胞を見殺しにするつもりでしょうか。

 ──我らを時間稼ぎのための盾と思っているに相違あるまい。

 いきり立つ諸侯を宥めるように、大公は手を上げてそれを遮る。

 ──選帝コンラート公は確か、まだ十二歳とお若い。シチリアにおられる父君と教皇庁とのいざこざでこちらに気を配る余裕などなかろう。代わりに教皇猊下から北のプルテニアに詔書が行ったと聞く。半月のうちには十字架騎士団が到着する……そうだな?

長卓の端でプルテニアからの使節と思しき人物が恭しく頷く。呻きにも似た嘆息が座から漏れた。

 ──半月だと、狡猾なドイツ人め、蛇のようにぐずぐずしおって……

聞こえよがしの悪態を吐く顔見知りの侯の隣で、ユゼフは一人算段していた。

 ──(我ら南部シロンスクのマグナートが召集できる勢力は八百から多くとも千。まずはこれを率いてクラクフの勢力に合流することになろう。西進するタルタリを最初に迎え撃つのは恐らく、ボレスワフ五世麾下のサンドミェシュ公国軍。ここでどれだけ持ち堪えられるのか……)

 その間も諸侯たちが銘々勝手に発する雑言を挟みながら、大公の隣に侍る書記官長の差配によってシロンスク諸侯の手勢が洗い出され、機動の筋立てが整えられていく。

 大方の合意を見て取った大公は、おもむろに立ち上がって、淡い西日の差し始めた広い露台に歩み出た。日輪に向かって両手を差し上げると、座は水を打ったように鎮まった。

 見計らい、大音声を放つ。

 ──主よ、今こそ祖国ポロニア存亡の危機と覚えたり。我が同胞を、この地の民草を救いたまえ。そのみしるしを、蛮族の前に示したまえ──

 そして、傍で父を見上げている愛娘に柔らかい一瞥を注ぐと、神妙に視線を向ける一同を振り返って叫んだ。

 ──奴らが地獄からの遣いであろうが何者であろうが、我らは常に主の導きの光とともにある。必ずやその光のもとに引きずり出して、塩の柱としてくれようぞ!

 両の拳を天に突き上げて男たちが放つ鬨の声に驚いて、周縁の鳥たちが一斉に舞い上がった。


 会議の後、宴席への招きに応ずるマグナートたちの殿についたユゼフを、ヘンリク大公が不意に呼び止めた。

 ──ときにユゼフよ、貴公にも娘があったな。

 ──ええ、姫君と同年で、三つになります。

 驚いてユゼフがそう返すと、大公は穏やかに頷いた。

 ──そうであった。息災か?

 ──ええ……姫も、増して愛らしくなられましたね……

 いくさ話の直後だけに戸惑い言葉に窮していると、まだ露台で遊んでいたヤドヴィガが、空を指差して振り返った。

 ──ことりさんたち、どこへいくの?

 ──お家に帰るんだよ。さあ、寒いからお前ももうお入り、ヤドヴィガ。

駆け込んできた娘を現れた時と同様軽々と抱き上げ、その小さな鼻を拭いてやる背中を見て、不意にユゼフの背筋に冷たいものが走った。

 つい先刻、武人達を鼓舞していた一国の君主はそこにはなかった。優しげに丸めた背は、紛れもなく幼い娘を抱く一人の父親のそれであった。そしてそれは、あまりにも無防備であったのだ。

 自分も、あのような後ろ姿を人に見せているのだろうか。

 ──貴公は知っていたか、私に兄と弟があったことを?

 数歩先を歩く大公が、不意に声を落として話しかけた。

 ──いいえ……寡聞にして存じ上げません。

驚きを隠してユゼフが答えると、大公は頷いて続けた。

 ──そうであろうな。我が兄は早くに召され、弟もまた狩りのさなかに身を過ち世を去った。残った私は継ぐべくして父王より王冠とこの国を継いだのだ。……もっとも私は、兄にも弟にもないものを持って生まれたのだがな。

そう言うと振り返って微笑む。普段は己の天分を微塵もひけらかすことなどない大公の軽口に釣られて、ユゼフも頬を緩めた。大公は周囲に一瞥を払うと、再び言葉を継いだ。

 ──身命を賭してこの国の民草を護る、神に誓ったその宣誓に一切の偽りはない。……だが、愛するものを失って後に遺される痛み、こやつが幼い時分から繰り返し我が身を苛むのだ。ボレスワフもコンラトも神の御許に召された、何を憂うことがあろう……何度己にそう言い聞かせてみても、身の内を抉るような苦患はついぞ癒えぬ。もはや共に狩りに行くこともない。まつりごとを相談することも、国の行末や理想を語らうことも叶わぬ……

 大公の肩越しに幼い姫がユゼフを見つめている。微笑みかけると目を逸らし、またすぐに真っ直ぐな視線を投げてよこす。召された者たちを抱く天を思わせる、清澄な水色を湛える瞳。

 ──この子らには同じ思いをさせぬ。招かれざる敵、タルタリか悪魔か、結構だ。だが、子どもたちには指一本触れさせぬ。この子らを守るためにこそ、私は、ポロニアは決して負けることはない──神に誓って、決して。

 大公の独白にユゼフは知らず怯んだ。それきりの沈黙が、今の言葉を他言無用にすべしとの口裏に思われた。

 ──御意に、ございます。

それだけ応えると、こちらを見つめ続ける幼い姫に努めて胸を張って見せながら、食堂へと続く柱廊を主君に続いた。

 宴席では誰が何人のタルタリを討ち取るか、取らぬうちからの自慢話に花が咲いたが、ユゼフは一言もそれに乗ることはなかった。先ほどの大公の背中と姫の瞳、そして居館で待つ妻子の姿が何度も目の前に浮かんだ。


「それはユゼフ、貴方の働きを陛下が覚えておいでだったからでしょう」

 帰館後、大公が自分たちの娘のことを記憶していたことを妻に伝えると、妻はさして驚きもせず微笑んで言った。

 娘が生まれて間もない頃、ヘンリク大公は教皇グレゴリウス九世と結んだ同盟の証しに、ブレスラウに新しい教会を建てることを決めた。建設にあたって、ユゼフは領内から大勢人手を工面し、みずからも現場指揮に当たったことがあった。巡察に訪れた大公と、親しく身の上の一つや二つ話した記憶もある。

 教会建設が成功裡に終わった労いに、妻や娘ともども大公家に狩りに招待されたこともあった。確か大公もヤドヴィガ姫を連れてこられ、まだ歩き始めたばかりの姫と娘はそこで初めて対面したのだ。娘は大公から、姫とお揃いの聖アダルベルトが彫られた首飾りを賜った。思い上がらぬよう自らを戒めてはいるが、目をかけられているという自覚がないわけではなかった。

 一国を統べる王とは言え、このポロニアでその権威は決して磐石ではない。実質的なポロニア王家であるピャスト家一門の中ですら内訌の絶えない時勢に、ユゼフのようなマグナートをはじめとする有力貴族の助力を確保することは、統治の安定を図る上で不可欠であったろう。とは言え、ヘンリク大公の場合、諸侯の後ろ盾を自ら汲々として繋ぎ止めていたわけではない。

 敬虔王──人々は親しくそう呼んだ。信仰に厚く人品穏やかなヘンリク二世は、ポロニアの善き父であり善き兄であった。身分の分け隔てなく清廉実直に接する人柄は誰をも魅了した。ユゼフもその一人であった。

 であればこそ……と、昼間のあらずもがなの独白が再び思い返される。

「とうさま、みて」

 先ほどから暖炉の前に這いつくばって一心不乱に何かを描いていた娘が、その紙を掴んで駆けてきた。懇意の修道院から融通してもらっている、写字生たちが修練に使った書き損じである。妻のマリアはこれを使って早くも娘に文字とラテン語を教えているという。内心、早過ぎやしないかと訝しみはしたが、妻の教育方針に直接口は挟まないことにしていた。

 写字生の几帳面に詰まった文字と綾なすように、合間の空白に妻が大きく開いて文字を並べて見せ、娘がそれをたどたどしく真似る。狭い余白いっぱいを使って、時折左右反転したり、線があらぬ方へ伸びたりするさまに、日中から張り詰めていた心がほぐれていく。

「蝋板の方が伸び伸び書けるのではないかね」

「暖炉の前でしょう、べたつくのを嫌がるんですよ」

妻の返事に得心して、改めて矯めつ眇めつ見入る。

「よく書けている。上手だよ、ウルカ」

「〝小鳥さん〟は滅法熱心で覚えが良いものね」

 父や母が褒めそやすと娘は嬉しそうに小鼻を膨らませたが、すぐに真顔になって父の手から紙を奪い取り裏返した。

「ちがう、こっち」

 表の三者三様の文字がいずれも羽ペンとインクを用いて書かれているのに対し、差し出された裏側には、執事が棒状の木炭に布切れを巻いて作ったウルシュラのための画材で、一面に何やら絵が描かれている。

「こんなゆめ、みた」

「お昼寝のあと、ずっと暖炉の前で描き続けていたんですよ。同じ絵を、何枚も何枚も」

二人の言葉に頷きながら暖炉の前の安楽椅子に腰を下ろすと、ユゼフはとっくりとそれを眺めた。

 画面の上半分に、びっしりと小さな十字架のようなものが散っている。星だろうか。左下には四つ足の獣のようなもの、右下には人らしきものが三体。

「これは、ウルカと、父様と母様かね?」

傍で椅子の肘掛に両手を乗せ、落ち着かなげに体を揺らしながら一緒に覗き込んでいた娘は、父の問いに黙って頷いた。ユゼフは左の四つ足を指差した。

「これは?」

「おおかみ」

 奥の食堂で侍女たちとともに夕食の支度をしていた妻を振り返る。

「館の近くまで狼は来るのか」

「いいえ、見ませんわ。声も聞かないわね?」

手を止めず鷹揚に返すマリアに水を向けられ、侍女のタマラも、聞きません、と首を振る。

「ウルカ、狼を見たことがあるのか?」

娘は黙って頷いた。ユゼフはにわかに慌てた。妻が言う。

「お見回りに連れておいでになった時ではなくて?」

時折の所領内の巡察に、何度か娘を一緒に馬に乗せて回ったことがあった。途中、古い森のとば口を通る。狼を目にするとすれば、確かにそこが最も可能性が高い。ただ、若い頃から狩猟で腕を鳴らしたユゼフは狼の気配を敏感に感じ取れた。娘が目に留める距離に狼がいたのなら気づくはずである。第一、狼の姿を指して「あれが狼だ」と教えた覚えもない。

 再び絵に目を落として問う。

「狼と、ウルカたちは何をしているんだね」

「まいご。いっしょにいくの」

「迷子の狼を助けてやっているのか」

「ちがうー」

小さな地団駄に促されて今一度よく見れば、確かに、左の四つ足は頭を左に向け促すように首を反らせ、右の三人は逆にその後ろに従っているようにも見える。

「ウルカも、父様も母様も迷子なのかい? 狼が道を教えてくれている?」

娘はようやく我が意を得たり、とばかりに満足げな笑みを浮かべて、椅子に手をかけたまま跳ねた。揺れる安楽椅子を押し留めながら、ユゼフは娘の無邪気な笑みに引き込まれるままその瞳を見つめた。陽のもとでは柔らかな榛色が、暖炉の炎を受けて暗褐色に近い琥珀色を湛えている。

 この子は、いったいどんな夢を見たのだろうか──腑に落ちぬまま、娘を膝に抱き上げる。

「そうか、ウルカは絵も上手なんだね。……ただ、狼はとても怖いのだから、もし見かけたら父様に教えてくれるかね」

理解しているか覚束ぬまま頷く娘のつむじに、ユゼフはそっと接吻した。

 夕食後、娘を寝かせ、使用人もあらかた自室に引き上げたのを潮に、ユゼフは妻と執事フベルトに昼間の謁見と決起の次第を伝えた。気丈なマリアは、眉宇一つ曇らせることなく夫が加わる戦の話を聞き、その場で執事に武具調度の指示を出す。もっともそれは、マリアにも、そして当のユゼフ本人にも、迫り来る蛮族の実勢がいかほどのものかを測り兼ねていただけのことであったのかも知れない。


 それから数日のうちに、ユゼフ・ヴィエルグスは同盟傘下のシュラフタ(主に騎士層からなるポロニアの貴族階級)総勢八十余名に対し、蛮族迎撃の下知を発する。打ち集った騎乗の武人たちを一目見ようと、近郷近在は大祭のごとき賑わいであった。貴族騎士たちはそれぞれの配下や伝手をかき集め、在郷の者だけで軍勢は二百を下らぬ勢いであったが、その実、まだ年端もいかぬ従騎士や放浪の自由騎士、俄仕立ての歩兵に、素性の知れぬ傭兵崩れまで紛れ込んだ玉石混交の様であった。

 戦装束のユゼフは、見送りの執事以下家人一同と握手を交わした後、妻と固く抱擁し、神の名のもと無事の帰還を誓った。

「ウルカ、母様の言うことをよく聞いて、良い子でいるんだよ。毎晩神様に、父様の武勲をお祈りしておくれ。頼めるかね」

父の腕に高く抱き上げられ、幼い娘は父の目をまっすぐ見つめ、頷いて言った。

「とうさまも、おおかみにきをつけてね」

 邪気のない手向の言葉に破顔し、陽気に請け負って一層強く抱きしめる。やがて娘を妻の腕に帰すと、ユゼフは朝日の昇りつつある方角を睥睨した。


 行軍はヴィスワ川に沿って東に進路をとり、道々数を増しながら進んだ。四日目の天幕設営の刻、斥候が東の要衝ルブリン陥落の報を携えて舞い戻った。予想を上回る敵陣の速度に、居合わせた誰もが言葉を失った。

 夜も更け、天幕の中で一人祈りを捧げていたユゼフのもとを訪う者があった。

「団長殿、暫し構いませんか」

 男はブルグントのルシアンと名乗った。削げ落ちた頰に毟ったようなまばらな髭を生やし、眼窩の奥からまっすぐに向けられる眼差しには、弩の矢を思わせる鋭い重みがあった。いかにも胡乱な風体ではあったが、まとった鎖帷子は使い込まれてはいてもよく手入れされている。

「傭兵か。ブルグントとは、遠方の床しい名だな」

「今はサヴォイアの一領邦ですが、代々の墓がありましてね。酔狂で昔の名で呼んでます。とは言え、しのぎを追って西へ東へ、親が死んでからは帰ってやいません」

「それで事もあろうにタルタリ退治にまで出張ってきたか。加勢はありがたいが、こたびの戦、物見遊山では済まぬぞ」

「でしょうな」

男は天幕の入口脇に膝丈の小岩──ユゼフが天幕設営の際に勝手が良かろうと内に取り込んだものだ──を見つけると無遠慮に腰を下ろし、上目遣いにユゼフを見上げて言った。

「ですから団長殿。悪いことは言いません、この戦はやめたほうがいい。引き返して、できるだけ遠く、西へお逃げなさい」

 ユゼフは推し量るように相手を見つめた。「今、何と言った」

「この戦は、勝てません。今なら間に合う。大事なご家族を連れて、西へ、お逃げなさい」

男は一語一語、噛んで含めるように区切って繰り返す。ユゼフは耳を疑った。──この男は一体、何を言っているのだ。ここへ何をしに来た。まだ会敵前の、行軍の最中だぞ。

 長いこと目の前の得体の知れぬ男を睨みつけたのち、ユゼフは思い定めて寝床の脇に設えた三連祭壇画の前に渡し置いていた短剣の柄を掴んだ。

「なるほど……福音書に記された《荒野の誘惑》とはこのことか。主イエスを惑わしてなお飽き足らず、このようなところにまで現れて我らの道をも挫こうとするか。よもやその方、名はルシアンではなく、ルシフェルではあるまいな」

男は切っ先を向けられても怯む素振りも見せず、じっと相手を見据えて低く言った。

「切ってご覧なさい、悪魔の真っ赤な血をお目にかけましょう」

 そうしてこの男、傭兵ルシアンは仮初めの雇い主を向こうにひとくさり、これまで参じた戦の数々と今回の大戦についての所見を語ったというが、ユゼフ・ヴィエルグスの手記にその詳細は記されていない。ただ、この夜の語りが彼の胸に抜きがたい楔を打ち込んだことだけは、後述する通り確かなようであった。


 二月十三日。

 サンドミェシュ公国に入り、クラクフの軍司令官ヴォジミェシュ公率いるポロニア軍の後方支援についたユゼフらは、ついに相対する敵をその視野に捉えた。

 視界前方に横たわるヴィスワ川は雪解けまだき、水嵩が減っているところに連日の寒波で河流は固く凍りついていた。

 目を凝らすと、対岸の茂みから無数の騎馬兵が、ある者は見慣れない三角旗の馬標をはためかせ、ある者は馬の尾のような房をまとわせた三叉戟を掲げながら、次々と現れては氷上を此岸へ渡ってくる。

 角笛が高らかに吹き鳴らされた。

 高々と天を衝くヴォジミェシュ公の長剣に鯨波が呼応し、氾濫原に染み広がる敵軍めがけて嘶きと地を蹴る蹄音が雪崩を打つ。

 敵の散兵は巧みに距離をとりながら激しく矢を射掛けてくる。いかにも戦い慣れしたその動きに、ポロニア軍は翻弄され、次第に陣形を乱されていった。

 人外に例えられるタルタリ軍であったが、こと兵術に関しては一日の長を認めぬわけにはいかなかった。牧羊犬が羊の群れを集めるように、見る間にサンドミェシュの街ごとポロニア軍を包囲していく。

 それからは瞬く間もなかった。高台から矢の雨を降らせていたユゼフらのもとにヴォジミェシュ公の撤退の声が届く頃には、すでに方々の人家から火の手が上がっていた。あたり一面に火の粉や灰燼が舞う中、総崩れのポロニア兵が短躯の馬に跨ったタルタリ騎兵に追い散らされる様を、呆然と目で追いながら踵を返す他に術はなかった。

 奇しくもこの日は四旬節の始まり、《灰の水曜日》であった。


 大敗を喫したこの日から、各地で干戈が交えられた。ひと月余りの間に隊は、オポーレから来し方の半分も押し戻されていた。兵士たちの間に疲労と無力感が広がっていた。

 ユゼフは、夜ごと天幕に隠れて妻子の無事を祈った。何を祈っているのか、郷里から引き連れてきた配下の者たちには気取られぬよう努めた。今は北部で軍の増強に奔走しているはずのヘンリク大公の言葉が脳裏に蘇る。

 ──この子らには同じ思いをさせぬ。この子らを守るためにこそ、私は、ポロニアは決して負けることはない──。

 ああ、そうだ。私が守りたいのも、この身命を賭して守りたいのも他の誰でもない。

 戦場の只中にあっても瞼を閉じれば、張り詰めた胸中を溶かす肌の温もり、嫋やかな笑み、柔らかな瞳の色が次々と脳裏を奔る。今は遠く聞こえぬはずの声が耳朶をくすぐる。その全てが今、脅かされている。

 肚の底から熱い塊が、臓腑を滾らせてせり上がる。

 呼ばれもせぬ悪魔め。二人に指一本でも触れてみろ。その指の先から全身切り刻んで鳥に食わせてやる。一人ひとりの上に血の雹を降らせてやる。貴様らが這い出てきた地の孔へ再び叩き込み、そこへ火の山を、ニガヨモギの星を落としてやるぞ。

 ポロニアの地を踏んだことを、末代まで後悔するがいい。


 三月十八日。

 フミェルニクの集落を入り乱れての戦乱のさなか、サンドミェシュでの戦いに引き続きポロニア軍を率いていたヴォジミェシュ公が、一瞬の不意を突かれて陣没した。ポロニアの騎兵隊はたちまち恐慌に陥り、次々と凶刃の下に斃されていった。もはや前衛も後衛もなかった。ユゼフも狂瀾の渦に弓を捨てると、あとはただ無我夢中で剣を振るった。どうにか収束を見た日没に未だ命脈を保っていることが、にわかには信じられなかった。

 ポロニア軍の主力を形成していたサンドミェシュ軍も、ユゼフら南部シロンスクのマグナート軍も、ともに櫛の歯を欠くごとく数を減らしていった。日毎濃くなる敗色は誰の目にも明らかであった。加えて、いつ来るとも知れぬ援軍を待ちながら、連日の強襲を劣勢で迎え続けることに耐えきれなくなった者たちが、夜毎酒の勢いで諍いを繰り返し、士気は下がる一方であった。

 そこへ、早馬が報せをもたらした。

 ヘンリク大公が北方諸侯に招集をかけて北部シロンスク軍を編成、同時にようやくプルテニアの十字架騎士団と、ドイツ王コンラート四世が差し向けるドイツ軍、そしてヘンリク大公の義弟にあたるボエミア王ヴァーツラフ一世率いる援軍が、近日中に合流を果たすという。大連合は兵数三万に届くだろうとの目算に、それまで消沈していた一同は一斉に歓喜の声を上げた。タルタリは少し北寄りのブレスラウを次の標的に目指しているという。大連合の合流地点は、それを迎え撃つべく二十里ほど西のレグニツァに定められた。


 夜、天幕の脇で愛馬の鎧を解き毛を梳いていたユゼフのもとへ、両手に木杯を捧げたルシアンがふらりと現れた。既にいささか酩酊した様子を繕う素振りもない。

「焚き火から焚き火へ経めぐるたびに乾杯です。団長殿もひとついかがですか」

「私はもう団長ではない。本隊への合流と兵の損耗で出立時の隊は解消したのだ」

「俺はあんたの隊に給金をもらってついて来たんです。あんたは俺の団長殿だ。残金いただくまでは死んでもらっちゃ困りますよ」

そしてユゼフの胸に木杯を押し付けると、自分の木杯をそれに打ち付けて呷った。ユゼフも仕方なしに口をつける。焚き火のそばの樽から酌んだのか、ぬるく酸っぱい麦酒だ。

「見てごらんなさい。もうすっかり勝ち戦のつもりだ」

 幕営を眺めやる男の視線に促されて、夜闇の遠く近くに点々と灯る焚き火の群れを見渡す。揺れる人影の塊から時折歓声や歌声が湧いた。

「シナイ山から降りてきたモーセは、こんな気分だったんですかね」

ユゼフは意外な思いで男を見遣った。

「聖書を読むのか」

男は、ベネディクト会で少しばかり……、と言いかけて自嘲するように鼻を鳴らした。

「ほんのいっときの気の迷いです。すぐに嫌気がさして逃げました」

食えない男だ──ユゼフはかぶりを振って再び浮かれる兵営に目を戻す。

「モーセの気分と言ったな、なぜそう思う」

なぜ?、と男は目を剥く。

「ここに来るまでにどれだけ殺されたか、もうお忘れで? 言ったでしょう、相手はすでに国をいくつも潰してきた化け物だ、まるで勝負になりゃしない。なのにここの連中ときたら、次こそは勝てると喜んでいる。明日死ぬのは自分だなんて考えもしない。エジプトを脱した途端、どれだけ虐げられてきたかすっかり忘れて、金の子牛を担いで浮かれ騒いだユダヤ人と何が違う? 度しがたい。全く、この国の連中は度しがたい」

 ユゼフの脳裏に、この場で目の前の無礼千万な男を斬って捨てる様が浮かぶ。何ら呵責を伴う光景ではなかったが、男への気まぐれな興味に任せて試すように訊ねた。

「ならばなぜ、一緒になって酔っ払っているのだ」

男は問われると再び遠くに目をやり、やがて神妙に誦じ始めた。

「《生きているものは死ぬべきことを知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。

 その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消え失せて、彼らはもはや日の下に行われるすべてのことに、永久にかかわることがない。

 あなたは行って、喜びをもってあなたのパンを食べ、楽しい心をもってあなたの酒を飲むがよい。神はすでに、あなたのわざをよみせられたからである。》」

最後の段をことさら芝居がかった抑揚で結ぶと、男は「全ては主のお赦しのままに」と宮廷道化師のように慇懃に腰を折ってみせた。

 死ねばそれまで。だから今はこの生を楽しめ。神もそれを良しとされている──

 ユゼフは顔を顰めて、残りの麦酒を飲み干す。


 四月九日。

 レグニツァの街を人と馬が埋め尽くした。さまざまな言語や方言が飛び交い、飲食を提供する宿や食堂はこの世ならぬにわか繁盛に恐れをなして、早々に店を閉めた。

 北からヘンリク大公率いるシロンスク軍、および十字架騎士団とテンプル騎士団、西からドイツ軍と、総勢二万五千余りの軍勢がこの地に集結した。ヴァーツラフ一世率いるボエミア軍は未だ到着の知らせがなかったが、先着組の設営する陣幕だけで既に地の果てまで続くかに見えた。

 街の中心の大聖堂に、各軍、各隊の主だった指揮官が集まった。

 脇手から内陣に現れた司祭が講壇へ登ると、堂内は水を打ったように静まる。

 身廊に列をなして居並ぶ武人たちの中頃から、ユゼフは最前列のヘンリク大公の後ろ姿を認めた。大公はやがてこころもち顔を上げると、朗々と響く声で交唱の第一声を放った。


  聖母 神の母 神に祝福されしマリア


 ポロニアの男たちがそれに続く。諸外国から来た者たちはじっと耳を傾ける。


  聖母 神の母 神に祝福されしマリア

  我らが主 神の名を冠せしマリアよ

  そなたの息子にとりなしたまえ

  我らを憐れみ 導きたまうよう

   主よ 憐れみたまえ


  神の子よ そなたの洗礼者たちの声を

  我らの祈りを聞き届けたまえ

  我らの求めるものを与えたまえ

  地上での敬虔と 天なる楽土への道を

   主よ 憐れみたまえ


 穹窿に祈りの歌が染み込み霧消するのを聞き届けて、司祭が聖書の詩篇を開く。

《主よ、わたしのあだのゆえに、あなたの義をもってわたしを導き、わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください。

 彼らの口には真実がなく、彼らの心には滅びがあり、そののどは開いた墓、その舌はへつらいを言うのです。

 神よ、どうか彼らにその罪を負わせ、そのはかりごとによって、みずから倒れさせ、その多くのとがのゆえに彼らを追い出してください。彼らはあなたにそむいたからです。

 しかし、すべてあなたに寄り頼む者を喜ばせ、とこしえに喜び呼ばわらせてください。また、み名を愛する者があなたによって喜びを得るように、彼らをお守りください。

 主よ、あなたは正しい者を祝福し、盾を持ってするように恵みをもってこれをおおい守られます。──》

 大勢の会衆が水を打ったように静まり返る中、司祭の朗誦が響き渡る。

 やがて騎士も従者も打ち揃って膝をつき、祖国を守る決意を巖のごとく胸に抱いて、剣を前に神の名を呼ぶ。


 そして、この国の命運を決する時が来た。

 馬上から遥か前方に再び相まみえたタルタリ軍は、地平に沿って軽装騎兵を真一文字に配し、満を持して勢を整えた大連合軍の出方を伺っているのか、動く気配がない。

 落ち着かぬ様子の愛馬をその背の上から宥めながら、ユゼフは前にひしめくドイツ騎士団の背中越しに目を凝らす。

 厚い横隊の軽装騎兵、両翼に槍騎兵。奥には主力部隊が控えているはずだが、なだらかな起伏に遮られて自陣からは確認できない。それでも見る限り、数は連合軍と同等かやや劣るようだ。

 対する連合軍は前衛と後詰めにドイツ騎士団、間にポロニア軍、殿に歩兵隊が控える四段構えの編成である。とりわけ主力のドイツ重装騎兵は、かつて東方より侵入した強敵のマジャール騎兵をレヒフェルトの戦いで完膚なきまでに打ち破り、神聖ローマ帝国初代皇帝オットー一世の威信を不動のものとした実績と伝統を誇った。

 加えて、地の利もこちらにある。レグニツァの平原一帯には大小の湖沼が散在し、土の緩い湿原がまばらに広がる。無闇に馬を駆ると足を取られかねない。地形と地盤の様子はあらかじめ土地の者から全軍に詳しく伝えられていた。

「聞け、我が兄弟よ。そして遠方より馳せ来たりし我らがともがらよ」

 馬上より羽飾りを頂いた大兜を小脇に抱えたヘンリク大公が大音声で呼ばわる。

「主は正しき者の道を知られる。そして悪しき者の道は滅びる。我らの道はこのレグニツァに結ばれた。これより主の御名によりて、ここレグニツァが、第二のレヒフェルトとして歴史に刻まれるのだ」

約束された栄誉に、大地を揺るがさんばかりの喚声が上がる。

「我らの道を、ただ進め」

蒼穹を割く大公の長剣に肺も破れよと角笛が呼応し、前衛のドイツ騎士団が地を鳴らして駆け出した。

 同時に敵の軽装騎兵隊が散開し、先陣のドイツ騎兵めがけて一斉に矢を放つ。前衛はひきも切らぬ矢の雨に大きく陣形を崩しながら、銘々馬首を返して退却を余儀なくされた。

「第二陣、前へ」

敵の矢の勢いの衰えを見定めて、ポロニア軍に下知が下る。いまや遅しと逸る馬たちは、主人の合図を横腹に受けて次々と飛び出していく。ユゼフも馬首を並べて一陣の風に乗る。舞い戻った前衛部隊も早々に形勢を立て直して合流する。その向こうに目をやると、タルタリの軽装騎兵群は勢いに押されるように退き始めていた。

「ここを先途と見よ。勝機は我らにあり、押せ、押して参れ」

シロンスク・ピャスト家の黒鷲の紋章を染めた馬標をはためかせながら、軍師が長槍を突き上げ檄を飛ばす。騎士たちは一斉に鬨を作って猛然と敵陣の中央めがけて馬を駆る。


 ──団長殿。俺は常々不思議だったんです。なぜ王様や騎士殿の軍隊は揃いも揃って、馬鹿の一つ覚えのように一点突破を好むのか、とね。

 ブルグントの傭兵ルシアンが初めてユゼフの天幕を訪った夜、男はひとしきり己の戦歴を披瀝した後、無礼を憚る素振りも見せず、思案顔で言った。

 怒りを通り越して乾いた笑いが込み上げるのを覚えながら、ユゼフは努めてそっけなく返す。

 ──我々の戦いは主の御意志なのだ。神の鉄槌に搦め手も駆け引きも必要ない。

 ああ、ああ、と男は何度か深く頷き、

 ──でも、これだけは覚えておいてください。イエスの導き、聖霊のご加護、神の国……そんなもの知ったこっちゃない連中がこの地上には掃いて捨てるほどいるってことを。そんな奴らを相手に主の御意志なんぞ通用しやしません。

そして正面からユゼフの目を見据えると、膝を詰めて声を落とした。

 ──団長殿。もし、あんたが誰かを守り続けるために生きようと思うなら、戦場で生き残ることを恥じちゃいけない。敵はあんたの神も、あんたの命も、馬の糞くらいにしか思っちゃいない。タルタリの進撃は、奴らにとってみれば馬房の掃除みたいなもんだ。猪突猛進しか知らない敵をいなすためなら、奴らは押しも引きも自在に使いこなす。……いいですか、奴らが退く素振りを見せたら、決して深追いしちゃいけません。

 ユゼフは呻くように強く遮った。

 ──いい加減にしろ。一体貴様は、タルタリの何を知っているというのだ。軍師にでもなったつもりか。傭兵風情が調子に乗るな。大公殿下にいま言ったことを進言できるのか。貴様が率いたらこの戦は勝てるのか。ポロニアを救えるのか。

 男は黙り、やがて溜息と共に諸手を上げた。

 ──いささか出過ぎたことを申しました。仰る通りです。俺には、この国は救えない。

そして腰を上げると、暗く射るような一瞥で黙礼し、天幕を出ていった。


 手綱をしごいて愛馬を駆り立てながら、大兜の中で舌打ちをする。あの夜以来、忌々しい傭兵の戯言が肚から離れない。そしてまさに今、男が指摘した通り、連合軍は撤退する敵兵を追って一点突破の構えに入った。だが、何を恐れることがあろうか。今この時も我らポロニアは主の導きに従って進み、その懐深くに護られているのだ。蛮族ごときに屈するはずがない。

 ユゼフ・ヴィエルグスは恐らく、恍惚と笑みすら浮かべていたであろう。

《この風、このどよめき、この反撞、この爪音。主の約束された道をひた走る栄光。これこそ久しく忘れていた騎士の本懐。傭兵にこの恍惚を味わうことは叶わぬ》

 悲鳴のような矢音を立てて飛んでくる矢を翳した盾で受けながら、一層手綱を振るう。隆々と肩を怒らせるドイツ騎士や、サンドミェシュ、フミェルニクの戦いを共に搔い潜った手練れのマグナート達と轡を並べて、一気にタルタリ軍の陣深くに潜り込む。

 背を向け逃げ惑うタルタリの軽装騎兵めがけて長槍を構えた刹那、頭上からひときわ激しく矢の雨が降り注ぐ。咄嗟に盾を振りかぶりながら長槍を振って払い除ける。驚いて蹈鞴を踏む愛馬を手綱で導きながら、ユゼフはふと辺りに漂い始めた異臭に気づいた。降り続く矢を必死で払い落とし馬首を返して、唖然とする。

 背後一面に煙が立ち込めていた。後方に控えているはずの後詰めとの間の視界が完全に遮られている。

 煙幕だ、退け──方々で上がる叫び声に連合軍騎兵の一団は混乱に陥った。急速に広がる煙に巻かれて方角を失い、咳込む。不意の地鳴りに振り返ると、煙の壁と反対方向から、緋の衣に革の鎧をまとったタルタリの重装騎兵団が迫り来るのが見えた。馬の横腹を強く蹴り、手綱を絞る。斑らにまとわりつく煙を裂いて、もと来た方角と思しき方へ馬を飛ばした。後方から矢の追撃が鎖帷子を掠めサーコートを裂き、大兜を鳴らす。

 すぐ傍を味方と識別できるサーコートをまとった騎士が並走していた。大兜のため視線は掴めないが、一瞬こちらを向いて頷いたように見え、ユゼフは頷き返すと長槍で前方を示した。ここまで共に戦ってきたのだ、卑劣な煙幕ごときに惑わされて命を落とすまいぞ、一旦退いて立て直すのだ。

 相手も、今度ははっきりと頷き返す。そしてそのままぐらりと身を傾げると、疾駆する馬の背から滑り落ちた。首筋に深々と矢が刺さっていた。

 直後、長槍を握るユゼフの右肩にも激痛が走る。鎖帷子を貫いて食い込んだ矢をすぐさま左手で引き抜くと、痛みの奥から得体の知れぬ気が満ち広がった。──主よ、おお、主よ。お導きを感謝します。

 衝かれたように振り返ると、タルタリ騎兵が反った大太刀を横薙ぎに構えて迫っていた。咄嗟に感覚の薄れた右腕を操られるように大きく振りかぶり、長槍を相手の胸に叩き込む。敵の落馬を視野窓の端で見届けるとそのまま駆けた。さらに一本、二本と矢を受けたが、もはや痛みはなかった。

 やがて霧を抜けるように煙幕を掻い出たユゼフは振り返って、この戦が既に勝敗を決していることを知った。

 煙の薄れ始めた平原には夥しい人馬の骸が折り重なっていた。その向こうからタルタリの重装騎兵団を中心に全軍が凄まじい勢いで追い迫る。初めて全身に震えが走った。

 控えていた後詰めや歩兵団も既に潰走を始めている。陣の立て直しはもはや絶望的であった。手綱をふるい続けながら戦場に目を走らせ、大公の兜の羽飾りを探す。

 不意に、天地がぐらりと反転した。いななく馬の背から放り出され、水音を上げて泥に叩きつけられる。たちまち大兜の中に鼻をつく土の匂いが満ちた。


 全身を焼くような痛みに意識を引き戻された時、ユゼフには今が昼か夜かも判らなかった。爪音も怒号もすでに聞こえない。代わりに周囲からは押し殺した呻き声が漏れ、何かが焦げるような異臭が立ち込める。頭に手をやると兜はすでになく、それでも視界は暗いままであった。

「失血で一時的に見えなくなったんでしょう。傷は塞いだから、じきに目も戻る。まずは食うことです」

ルシアンの声がして、矢庭に干し肉を挟んだ乾燥パンが口に押し込まれる。

「しかし団長殿、ひどい有様だね。助けておいて何だが、生きてるのが不思議なくらいだ」

 男の弁によれば、落馬して泥に半ば埋もれた雇い主は、馬にも踏まれずタルタリにも捨て置かれたまま、そのサーコートによって奇跡的に見つけ出されたという。忸怩たる思いで礼を言うと、男は、金のためだと言ったでしょう、と笑った。

「それよりタルタリはどうした。戦況は今、どうなっている」

泥だらけの籠手をつけた手で、齧りかけのパンを掴んだまま、見えない目で闇雲に辺りを探る雇い主を制し、ルシアンは間を置いて声を落とした。

「終わりましたよ。あんたたちは負けたんです、完膚なきまでにね」

 負けた──? 言葉の意味がほどけて掴めない。何を言っている、そんなはずがない。我々には大公が、敬虔王がおられるのだぞ。神をも知らぬ蛮族などに負けるはずがないではないか。

「大公は……」

知らず声が上ずる。長い沈黙を置いて、ルシアンが言う。

「判りません……だが、もう指揮は取られていません。見渡すかぎり骸の山だ。首を落とされている者も多い。見つけるのは骨でしょう……団長殿、見えなくて幸いでしたな。これは地獄だ」

 不意に胃の腑が突き上げられ、ユゼフは先ほど飲み込んだばかりのわずかなパンを残らず吐いた。我々が蛮族に負けた。それが何を意味することになるのか考えようとした途端、全身の血が音を立てて逆巻き、総毛立った。

「屋敷に戻らねば」

立ち上がりざまに最後の血の気が失せ、昏倒した。


 ……ここに、アングリアの高名な修道士、マシュー・パリスの著した『大年代記』の抜粋写本がある。紐解くのも恐ろしいこの数葉に、一二四一年のあの惨劇とその後についてのあらましが記されている。

 その云いによれば、レグニツァで連合軍を壊滅せしめたタルタリは、ボエミアのモラウィアまで南下して本隊と合流──何と、我が国を未曾有の混乱に貶めたタルタリの一軍は本隊ですらなかったのだ──した後、なおもアウストリアやフンガリアのストリゴニウムと交戦するも、翌一二四二年三月には撤退を開始した、とある。

 失血が祟って気を失ったユゼフを傭兵ルシアンは馬の背に乗せ、生き残った数名の同郷の兵と共に、南進するタルタリを避けながら六日かけてオポーレ近郊の屋敷まで送り届けた。道中の介抱により意識と視力を取り戻したユゼフは、道々、出立時から変わり果てた各地の荒廃を見ることになる。待ち受ける耐え難い悲しみの予感と全身に受けた深手がもとで、いつしか高熱を帯びた体躯が馬の背から滑り落ちぬよう、傭兵は細心の注意を払いながら最後の道を馬に急がせた。

 出迎えた執事のフベルトは二人の姿を見て言葉を失うも、すぐに侍従らを呼んだ。遅れて迎えに出たマリアと、悲鳴をあげて立ち尽くすタマラを促して主人を運び込むと、傭兵には残金を遥かに上回る額を支払い、懇ろに労った。

 傭兵ルシアンは雇い主が目覚めるまでは屋敷に厄介になることを決め込むと、その間、近郷各地に馬を駆り、状況を見て回った。領民には恐れをなして逃げ出す者も多く、侵略の歯牙に直接晒されていない地域にも明らかな混乱の跡が見られた。さらに範囲を広げると、逃げ出しているのは力を持たない者たちだけではないことが判った。都市部に入植して経済を牽引していたドイツ人達や、領を治めるマグナートやシュラフタ達の中にも、遠隔地や近隣諸国の血縁を頼って避難する者が出始めており、傭兵の目にも、人ごとながらこの国の立て直しが長期戦を強いられるであろうことは疑うべくもなかった。


 屋敷の寝台で目を覚まし、傍に執事のフベルトと妻のマリアの姿を認めた時、ユゼフは神の国で再会を果たしたのかと錯覚した。

「旦那様、お目覚めになられましたか」

枕元の執事が、深い安堵の息を吐いた。

「ここは」

「おかえりなさい、あなた」

マリアが手を握って微笑み、そのままそっと首に腕を回す。ユゼフは自由のきく手で妻の髪を確かめる。ふと足元に重みを覚えて目をやると、父の目覚めを待ちくたびれたのか、ウルシュラが寝台の隅で丸くなり、寝息を立てていた。

「良くお戻りになられました……本当に」

感無量の面持ちでフベルトが静かに口を切った。

「この数日というもの、奥方様もお嬢様も、旦那様の恢復を一心に祈っておられました。今、旦那様が再び私共の前に戻られたこと、まさに神の御加護に他なりますまい」

ユゼフは傷む体を押して身を起こすと、力なく問うた。

「他の者たちも、皆、無事か」

「はい、旦那様」フベルトが頷く。「ですが、ご報告しなければなりません。タルタリの侵攻に恐れをなした領民たちが、幾世帯も領地を離れ避難を始めております。ある者は着の身着のまま、ある者は家財一切を荷車に積んで」

聞いていたユゼフの顔色が変わった。

「民が、逃げただと。黙認したのか、フベルト」

執事は穏やかに、しかし毅然と応える。

「旦那様、彼らは生き延びるために決断を迫られたのです。力を持たぬ者は他に身を守る術がございません。それに、避難を始めたのは領民だけではございません」

執事が報告する名の中に、ヴィエルグス家が数代にわたって懇意にしていたマグナートやシュラフタの家名もあった。

 ユゼフは苦々しげに呻いたが、拳を握ろうにも力が入らない。

「ここに留まって戦うのは尊いことですが、彼らが生きて次の世代を育むこともまた、大切な使命でございましょう」

「私は……この地を放棄することはできぬ。ここは我が先祖代々の領地だ。民が逃げても、私はここに残る」

その言葉を予期していたように、フベルトは穏やかに一歩踏み出した。

「旦那様、どうかお聞きください。旦那様の父祖の地に対する忠誠を誰も疑いはいたしません。しかし、今はご自身とご家族の安全が何より肝要と存じます」

そして一息つき、主人を真っ直ぐに見つめる。

「もし旦那様がここに残れば、ご家族を守ることは恐らく叶いますまい。奥方様とお嬢様には、旦那様が必要なのです。たとえいっときこの地が踏み荒らされることがあろうとも、旦那様が生き延び、ご家族と共に再び立ち戻ることが、お家の復興に繋がるのではありますまいか」

ユゼフは口を開きかけたが、もはや言葉は出なかった。重苦しい沈黙を押して、フベルトはさらに続けた。

「旦那様方がこの地を離れるのは一時のこと。それまでは私がこの地を守り、皆様が無事に戻られる日をお待ち申し上げましょう。どうか、奥方様とお嬢様を連れて安全な場所へ移られることをお考えください。それこそが今最大の使命と、憚りながらこの老僕、伏して具申いたします」

 部屋の扉が遠慮がちに開いた。機を伺っていたかのように、神妙な面持ちでルシアンが入室する。そして執事や妻と向かい側の少し離れた椅子に腰を下ろすと、初対面の夜を思い出させる弩のような眼差しでユゼフを見た。

「団長殿、もう一つ耳に入れておきたいことがある。ヘンリク公のことです」

ユゼフは顔を向け、知らず息を詰める。ルシアンは慎重に言葉を選びながら口を開く。

「あのレグニツァの平原に、おいででした。王妃アンナ殿の検分で、確認されたとのことです。左足の……六本の指で」

 ユゼフはゆっくりと頭を抱え、頽れた。マリアが無言で強く抱きしめる。ユゼフの脳裏に、かつてヘンリク公と過ごした日々が、交わした言葉や盃とともに奔流のように去来した。そして、わずか三ヶ月前の決起のあの日、宴席へ向かいながら独白する大公の背中と、幼い姫の瞳が瞼に甦った。

 ──もっとも私は、兄にも弟にもないものを持って生まれたのだがな。

六本の指。あれは、そういうことだったのだ。それが、遺された家族との最後の絆となった。

 ──この子らには同じ思いをさせぬ。この子らを守るためにこそ、私は、ポロニアは決して負けることはない──。

一人の父親としてそう誓った大公殿下が、誓いを果たせぬままこの世を去った。

 やおら顔を上げると、ユゼフは居合わせた一同を順に見渡し、執事に視線を止めた。深く息を吸い、絞り出すように告げた。

「わかった、フベルト。お前の言う通りだ。私は、家族と共にこの地を離れる。だが、ほんのいっときだ。いっとき、後を頼めるか」

ユゼフの手を握るマリアの手に力が籠る。執事は静かに頷き、深い敬意を込めて言った。

「ありがとうございます、旦那様。ご決断に心から敬服いたします。私はこの地を守り、旦那様が戻られるその日までお待ちすることを、お約束いたします」

 ゆっくりと頷いて、ユゼフは再び目を閉じ横たわった。ヘンリク公の無惨な最期の光景が瞼に浮かぶ。その無念を繰り返してはならない。あの吐露は、大公がこの日のために残してくださったのだ。

「とうさま、またどこか、いく?」

 いつの間にか目を覚ましたウルシュラが父ににじり寄って訊ねた。

「ああそうだ、ウルカ。だが今度は、三人で行こう。馬車に乗って旅に出かけようじゃないか。楽しいぞ」

努めて陽気に応えるユゼフに、マリアも頷く。

「さあ〝小鳥さん〟、旅に出ましょう、はラテン語でなんて言うのかしら?」

娘がもぐもぐと口を動かした後、はにかみながらゆっくり首を傾げるのを見て、微笑み、朗らかに声を張った。

「Age, iter faciemus!」


 Age, iter faciemus. ──「旅に出ましょう」というその成句は、同時に「道を作りましょう」という意味にもなる。私たちは、この時のマリアの言葉に、いずれ再び立ち返ることになろう。

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