ウルシュラの日

鉄塔舎

 主よ、私たちが隣人の荷を解くように

 私たちの負う荷を解いてくださいますよう




 鐘綱の軋みに手が止まる。

 鐘楼に近い角部屋では、その気配を耳より早く肌が覚える。身構えるいとまもなく、猛々しい鐘の音が暁闇を裂いてトシェブニツァの丘を深い眠りから揺り起こす。

 あぁ──力なく漏れる声を、他人のもののように聞く。


 旅装を解いてはや一週間が経とうというのに、両の肩には解かれぬままの荷がますます食い込むようだ。院長様より、長旅の疲れを癒すようにと夜半の時課まで免除されて与えられたこの部屋には、姉妹たちの寝息も祈りも届かない。ただ自分の呼吸と、夜ごと虚しく炎を揺らすランプの芯が爆ぜる音、そして、最初の一語を置きあぐね、いたずらに羊皮紙を擦る袖の音だけが、埋められぬ静寂の裳裾を染めていく。時禱の鐘はそれらを無情に薙ぎ払い、肩の荷はいよいよ重さを増していく。

 やがて大部屋の姉妹たちが引きずる足音。オルガ、マヤ、ハンナ、ユルカ。隠しきれぬ眠気が扉越しに伝わる。この慌てた小走りはユスティナ、いや、ラウラだろうか。そして今、あらかたの足音が階下へと降りていく中、一人部屋の前で立ち止まったのはバルバラに違いない。言葉もなく扉の外に佇むあの子の懊悩が、静かに部屋に滲み入る。

 そう、この荷の幾分かは、彼女が担うはずのものであったから。


 一週間前、約二年半ぶりにこの聖クララ修道院に帰り着いたその日、真っ先に出迎えたのはバルバラであった。馬車の音を聞きつけたのだろう、ウィンプルを振り乱し階段を駆け降りた彼女は、そのまま私の首にぶら下がって大声で泣いた。駆けつけた修練長や姉妹たちの手で引き剥がされた弾みに、私は尻餅をついた。そして、修練長に叱られながらなおも身を絞るように涙を流すバルバラを見て、私はようやく旅を終えたことを知り、それぞれに過ごした年月の重さを今更のように悟ったのだ。


 ある女性の生い立ちを詳細に聞き取り、調べ、一冊の書にまとめてほしい──はじめ院長様にこの奇妙な依頼を持ちかけられたとき、一体それが聖フランチェスコ様や聖クララ様のお導きのもとで主を思い暮らす私たちの日々に何の関わりがあるのか測りかねた。院長様はごく短く、ただそれが私たちにとって、そして私たちに続くであろう多くの姉妹たちにとって必要になる日が来ると思うのです、と仰るのみであった。

 深慮を推し量れず返答に窮していた私に、院長様は思いがけないことを打ち明けられた。

 ──わたくし、実は今年でここの長を辞するつもりなのです。今お話ししたことは、私の最後の心残りでした。最後の願い……として聞いていただけると嬉しいのですが。

 否も応もない。院長様は時折こういう仰りようをして私たちを困らせる。まるで王家の姫君のような奔放さで思いつきを仰せになっては、そのたびに私たちを右往左往させるのだ。以前、若い姉妹の間で院長様の出自が話題になり、修練長様に訊ねたことがあった。

 ──詮索なんてはしたない、院長様は幼い頃より修道院でお過ごしなのです。多少浮世離れされているのもそのせいですよ。

 浮世離れされた院長様の最後の願いは、しかし、途方もない難事であった。

 私たち修道女は単独行動が許されていない。私はともかく共に務められる者は、と問うと、院長様は長いこと沈思の末、ブレスラウ近郊の農家の娘で、まだ修練中のバルバラの名を挙げた。

 ──ああ主よ、卑しくも短慮な私をお赦しください。それと言うのもこの時ばかりは、私は院長様の正気を疑わざるを得なかったのだ。修練中の娘を修道院の外に出すなんて。

 院長様は、彼女の素直で清廉な信仰心、修道院に来てからの短い期間で目を見張るほどの読み書きの習熟、そして何より幼い頃から家業の手伝いで培った体力を見込んだのだ。確かに、待ち受ける難事にあたってこれだけの条件を満たせる姉妹は他にいない。同時に、院長様がただの思いつきではなく、よくよく熟慮の上でこの件をご相談されていることも察せられた。

 とはいえ、修道請願前の十六の娘に重荷を負わせる事には躊躇があっただろう。院長様の苦渋の眼差しに、結局私は首肯せざるを得なかった。その場に呼び出されたバルバラは、ことの重大さを半分も理解していなかったのではなかろうか。私と始めることになる旅を無邪気に喜んだ。


 修道院を出るのはいつ以来であったろう。断ち切った俗世への未練が再燃するのを恐れながら、胸にきつく十字を切った。最初の目的地をブレスラウに定めた私たちは、二、三の聞き取りを試した後、バルバラの実家に挨拶に立ち寄って大いにもてなされた。

 名残惜しさに出立が遅れ、入り日を追いながら灌木の林道を次の集落へと急ぐさなか、ふと後を付けられていることに気づいた。

 そっと耳打ちして急かしたのが、今思うと私の失態であった。薄暗くなった木立で、バルバラが木の根に躓いたところを数人の野盗に囲まれた。一人はどこで手に入れたものか、擦り切れて垢にまみれたスカプラリオをまとい、荒い鼻息で忙しなく十字を切りながら私たちのベールとウィンプルを剥ぎ取ろうとした。取るな半端坊主め、背徳の味を知れ、と他の男が偽修道士を蹴り飛ばして私たちに覆いかぶさり、汚れた歯を剥いた。後ろで男たちの誰かが呆れたように呟くのが耳に届いた──しかし、でけぇ尼さんだな。

 私の伝法な叫び声に、通りがかった馬車の商人が気づいて下男と共に駆けつけると、虻を払うごとく野盗を追い払った。旅慣れた者にとってはごく日常であったのだろう。そしてそのまま目指す集落まで私たちを送ってくれたのだが、道々、女二人で日没後に表を歩くなど野良犬に餌を放るようなものだ、ときつく諭され続けた。積荷の胡椒の咽んばかりの香に茫然と包まれながら、私たちはただ項垂れて、誰にともなく謝り続けるばかりであった。

 このとき足を痛めたバルバラは、身を寄せた集落の施療院から先へ進めなくなった。無理もない。親元と修道院しか知らない生娘が胸を踊らせて臨んだ初めての冒険で、いきなり恐怖の底に叩き落とされたのだ。震え続けるバルバラを抱いて三日逡巡し、私は文で院長様に判断を仰ぐことにした。食堂で文面に迷いながらも、心は次第に一つの決断に傾いていった。

 ──還俗すれば、一人でも旅を続けられる。

 我なから馬鹿げた思いつきだとは思った。神をのみ想う暮らしにようやく見出した安寧を手放すだけの価値が、この旅にあるのか。けれど、もとより私に失うものなどあろうか。神への愛だけはどこにいようと、どんな姿であろうとこの胸から消え去りはしないのだから。

 私の企てを知った施療院の院長は慌てて遺留を図った。書棚からベネディクトゥス会則まで引っ張り出して思い留まるべき理由を並べ立てたが、数日も経たずに届いた返事で、院長様は主と聖クララ様のご加護を祈ってくださった。加えて、私が旅から帰った際の再受入も保証する、とある。バルバラへの労いは慎重に抑制された言葉に留められていた。読み返しながら、次第にふつふつと複雑な笑いが込み上げてきた。そしていよいよ、私はこの仕事を何があっても完遂せねばなるまい──そう思い定めた。

 バルバラは涙を流して詫びたが、彼女に何の非があろう。そう言って慰め、トシェブニツァでの再会を約束して修道院へ帰る馬車に乗せると、私は修道服を脱いだ。施療院の院長は天を仰いで嘆き呆れながらも、私の願いを汲んでできるだけ粗末な服を選って譲ってくださった。かつて着慣れていたはずの農婦服はいささか寸足らずで、ひどく心許ないものに思えた。


 旅を再開してすぐ、先の殿方の忠告が牽制でも脅しでもないことを思い知る出来事が続いた。修道女の姿であろうが還俗していようが、女の一人旅は終始殿方から好奇の目で見られる。

 私は、ほどなく男の姿に身を窶すことを覚えた。

 禁忌を犯しているという自覚と、男物の着物の感触に、肌は終始粟立った。女としては並ならぬ長身と低い声が幸いしてか、見咎められることはなかった。それでも、適当な方便で都合した大きな服に袖を通すたび、申命記の教えが胸の内に囁かれる。

《女は男の着物を着てはならない、そのような振る舞いをする者を主は忌むからである》

 泥を飲むような息苦しさに耐えかねて、教会にたどり着くたびに許しを乞う日が続いた。こんな無情な旅にお遣わしになった院長様を時に恨み、その度に己の穢れに慄いた。そうして身の内にも外にも幾重もの罪の衣を重ねながら、私は一人の女性の足跡を辿り続けた。

 拭えない疑問は幾度となく足を重くした。私たちが身を寄せるのは聖クララ様の家、私たちを導いてくださるのはアッシジの聖女様のはず。それを誰よりご承知の院長様が、なぜ列聖もされていない現身の女性に執心されるのか。その来し方を記し留めることに何の意味があるのか。憚らずに言うならば、これは不貞ではないのか。疑心はとめどなく湧いて渦巻き、その人に会うことがあればああも言ってやろう、こうも言ってやろうと、言いがかりでしかない言葉の数々を奥歯で噛みしだきながら、ただ歩みを進め、所縁の人々に会っては話を聞き続けた。


 そのようにしていつしか、旅に出てから二年の歳月が過ぎた。

 マッシリアの南の外れ、白く険しい岩肌の隙間から地中海を臨む山間に設けられた、ただ「家」とのみ呼ばれる寓舎で初めて拝したその姿は、思い描いていたよりずっと小柄であった。

 こんな小さな方が──?

 まるで少女のまま歳を重ねたようなその人は、けれど確かに、女性ばかりが働き暮らすこの共同体の心柱なのであった。その様子は、辿り着いたばかりの私にもすぐに見て取れた。

 私の到来を認め、あの方は待ちかねたとばかり両腕を広げ、満面の笑顔を浮かべるのだ。私は言葉を失い、跪いた。心中に重ね書きしてきた雑言は残らず掻き削られ、乾いた土塊のように剥がれ落ちた。ろくな挨拶もできぬまま蹲る私の肩を、あの方は黙って抱き止めてくださった。

 トシェブニツァの聖クララ修道院から修道女──元修道女──が会いに来ることは、すでにブレスラウの修道院にお移りになられた院長様──元院長様──からの報せでご存知であった。ちょうど新たな旅への荷造りを済ませたところで文を受け取り、そのままひと月近く首を長くして待っていてくださったのであった。

 言葉を交わして判ったのは、その並ならぬ聡さであった。決してご自分からお示しになることはなかったが、この方の目には全てが映っているのではないか──そんな空恐ろしさすら、たびたび感じた。気づくと私は、課された務めも忘れて供奉の許しを請い願い出ていた。どこへ行くのだって構わない、ここから先の足跡に自分のそれを重ね、この方をもっと深く知りたいと強く思った。この方について様々な縁者からどれだけたくさんの言葉を集めてもなお埋まらない、最後のひと欠片がまだ残されているような気がしたのだ。

 しかしあの方はかぶりを振って、まずは待つ人のもとに帰り、自分の務めを果たすようにと私を諭した。

 ──「あなたの召命を知りなさい」、クララもパウロを……パウロの言葉を引いて仰ったのではなかったかしら?

 我に返り、私は悄然と認めるほかなかった。私の浅はかな迷いなど、この方は全てお見通しなのだ。主に召される前に著された遺言の冒頭で、聖クララ様は確かに聖パウロの言葉としてそのように仰っている。今のわずかな言い淀みは、その引用が恐らくは聖パウロではなく、聖ペテロの取り違えであることさえもご存じなのだろう。そして私が望んだものが、この方の来し方を書き記すという召命に対する、ただの先延ばしに過ぎないということも。

 腹を括った私は、出立までの数日を共に過ごすあいだ、この旅のせめてもの答え合わせを試みた。あまりに多くの断片を収集したために、時間に沿って整理すると多くの矛盾や齟齬が浮かび上がった。あの方は私の問いの一つひとつに辛抱強く耳を傾け、時折懐かしそうに微笑んだり、初めて聞くように驚いたりしながらも、決して自ら詳しく語ろうとはしなかった。

 翌朝発たれるという最後の晩、あの方は私を「家」の回廊の中庭へと連れ出した。四隅に灯してあった灯火を、一つ一つ慎重に消してまわる。そして、惣闇に立ちすくむ私の手を取り、草に腰を下ろして背を地に預け天を仰ぐと、何が見えるか、と静かに問うた。

 見上げれば、回廊に四角く切り取られた空は一面、川底の砂子のような星月夜であった。

 思い返せばこの道中、一度たりと星を見上げることなどなかった。日中は歩けども歩けども果てなく続く礫の道をただ睨めながら辿り、夜になれば疲れて泥のように眠る日々であった。

 ──星です……なんて綺麗……

譫言のようにやっとそれだけ答えると、傍であの方が小さく肯んずるのが判った。

 ──ええ、とても、とてもたくさんの星。旅のあなたを、昼の陽射しに隠れて、あのたくさんの星はずっと導いていたのね。

 そう言われた途端、私の記憶の中で、地平まで続く砂礫の道はぐるりと反転し、一条の道標のように頭上の闇を彼方まで指し示す。

 そうか、そうだったのか。私の中で、何かが澄んだ音を立てた。

 ──だから……ここまで一人で来られた……?

 ──そう。こんなに遠くまで、あなたは導かれてきた。あなたが何をなそうとしているのか、あの星たちは全てご存じだから。だから、迷わずここに辿り着いたのね。

そして吐息がかかるほどに顔を寄せると囁いた。

 ──ありがとう。よく来てくれましたね。

 その一言で、張り詰めていた最後の気力が体の芯から抜けていくのがわかった。たちまちに見えていた星々までがぼやけ、慌てて袖山で拭う。今目に映るものを、ひとつたりとも見逃したくなかった。あの方は私の手を握って、まるで幼子をあやす母のような声音で続けた。

 ──そのまま歩いてお行きなさい、そして主の御名を讃えるの。それはね、他の誰のものでもない、あなたの道をつくる、ということなのよ。神の似姿として作られたあなた自身の歩みで贖い、証を立てるということ。Age, iter tuum fac!(あなたの道を、おつくりなさい!)

 子守唄のように紡がれる言葉の合間に幾度も光芒が流れ、岸壁に荒波の打ち寄せる音が届く。気が遠くなりそうになりながら、私はその言葉の一つひとつを胸の新たな羊皮紙に書き留めた。

 翌朝、あの方は別れを惜しむ「家」の人々を順に抱擁し、一人ひとりと接吻を交わした。

 最後に、屈む私に背伸びをして頰を寄せると、あなたの院長によろしく伝えてくださいね、と囁いた。私は頷きながら、わずかに赤みかがった柔らかな榛色の瞳をまっすぐに見つめ、目に焼き付けた。

 拱門の手前で待っていた供の女性と手を携え、あの方は一度も振り向くことなく山を降りて行った。


 「家」の方々の計らいで、ニッサからヴェネツィアまで、聖ヨハネ騎士団のまだ少年のような修練騎士アンジェロが護衛についてくれた。懐かしいトシェブニツァへとはやる心を抑え、私は彼に頼んで道を逸れると、海沿いにトスカーナを経てアッシジへ立ち寄り、念願のサンタ・キアラ聖堂を訪ねた。

 一歩ごとに高鳴る鼓動を抑えながら畏るおそる薄暗い身廊を進み、その下に聖クララ様が眠るという祭壇に歩み寄って、そっと手を触れた。清貧、貞潔、従順──聖フランチェスコ様が示し、聖クララ様が守り通した教えを二度、三度と繰り返し唇に乗せる。

 耳を圧する静けさが堂を満たしていた。ただ、それだけであった。

 長いこと高い穹窿を仰いで、私は途方に暮れた。正直に告白すれば、ほんの少しだけがっかりしていた。ここまで来たなら聖クララ様の御心を直に拝聴することも叶うはず。それだけの患難の旅を経てきたのだから──どこかでそう思い上がっていた自分に気づいた。手を引かれて順を待つ盲目の巡礼者に場所を譲り、のろのろとアンジェロの待つ表に出た。

《あなたの召命を知りなさい》

不意によぎった言葉が聖クララ様の声なのか、それともあの方の声なのか、立ち止まって耳を澄ませてみたものの、再び繰り返されることはなかった。


 ヴェネツィアに差し掛かるあたりで、共和国の衛兵たちが慌ただしく行き交うのに出くわした。アンジェロが言うには、シチリア島のパレルムでアンジュー伯配下の雑兵が起こした、土地の女性への狼藉を端緒に、シチリア王国全土で暴動が起きているとのこと。ここヴェネツィアでも、アンジュー家とシチリアの積年の対立を静観しながら、飛び火を警戒しているのだ。

 船着場を目指してサン・マルコ広場に差し掛かる頃であった。

 ──何とか無事に半島を抜けられましたね……!

来し方を振り返りながら、アンジェロが安堵の息を漏らした。

 ──フランスから来たというだけで誰彼見境なく襲われていると聞いていましたから、ソレッラ(修道女さん、私のことだ)を無事お護りできるか、正直心配でした。

よほど気を張ってくれていたのだろう、その場に踞らんばかりの様子に、私は心から感謝を伝えた。安堵のあまり、彼は少年らしく私を詰った。

 ──それにしたってソレッラ、お一人でこんな長旅はあまりに向こう見ずです。今は僕がお護りしているからいいけれど、これまでどうされてきたんですか? 本当なら神の家で固く護られておられるべき方が、ご婦人の身で、神をも恐れぬ大それた旅をなさるなんて……

 ──ああ、兄弟アンジェロ……

彼の矛先をいなすつもりで、いくぶん大仰に嘆いて見せる。

 ──本当にその通りよ。私自身、戒めを顧みない道行に毎日許しを乞うてばかりいた。こんなこと早く終わらせたい、なんで私がこんな目に、って、泣きたくなる日が続いたこともあった。

 けれど言葉とは裏腹に、私は笑みすら浮かべていたのだろう。傍のアンジェロは不審げに私を見上げる。私はふと浮かんだ言葉を口にした。

 ──でもね。確かに私は、導かれていたの。

 ──導かれて……? 誰にです?

訝しげに問うアンジェロに私は、主に……と言いかけて少し考え、言い直した。

 ──いいえ、そう答えるべきなのかも知れないけれど、よく判らない。主のお導きのようでもあり、クララ様だったようでも、あるいはもっと……

言いながら私は、あの方と「家」の中庭で見上げた星空を思い出していた。星の数ほどの人々と出会い、その一人ひとりに送り出されて、確かに今、私はここにいる。

 アンジェロは首を傾げたまま、私の言葉を引き取るように黙考し、やがて生真面目な顔を上げて言った。

 ──僕たちは皆、主イエス・キリストに導かれて神の国を目指すんです。主イエスは神様をかしらとして僕らの先導に立つ、僕らのかしら。そして……

 ──そして、私たち女のかしらはあなたたち男。

私がそう引き取ると、アンジェロは不意を突かれたように瞬きをして頷いた。

 ──ええ……聖書には、そうあります。

 ──コリント人への第一の手紙、十一章三節。それを書いたパウロは、ガラテア人への手紙の三章二十八節では《もはや男も女もない、あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである》、そう言ってるわ。人の世が大きく動く時、使徒ですら揺らがざるを得なかった……私はそう思うの。

 広場の端の方で二人の衛兵が大きな荷を担ぐ行商人に誰何するのを、私たちはそれとなく注意深く見守った。少しでも不審な動きをすれば、私たちもすぐに囲まれるだろう。

 一人の婦人への乱暴を発端として今、イタリアの地を揺るがす事変が起きている。時代はまた、大きく変わろうとしているのかも知れない。

 ──確かに、私たちは導かれてる。でも、それは決して一方的な従属ではない。主は私たちに、自分の足で立ち、自分の目で見る力もお与えになった。そのことに、男女の別はないわ。

 ──それも、ソレッラが旅の最後にお会いしたという方のお考え、ですか?

 ──あの方はあまり多くを語られなかった。だから、私が代わりに書かなくてはいけないんだわ。人は、女はこんなふうにも歩けるのだという、道のりについて。

 道のりについて……と私の言葉を繰り返したアンジェロが不意に、あぁ、と奇妙な息を漏らした。まるで恐ろしいものを見るようにこちらを見上げた後、ゆっくりと視線を私の背後にずらす。振り返ると、塔の先端で有翼の獅子の像が、傾き始めた日を受けて黄金色に輝いている。それを崇めるように、鴎が大きく弧を描いて飛ぶ。

 長い沈黙のあと、塔の先端に視線を定めたままのアンジェロが静かに言った。

 ──ご存知でしたか。この街の守護聖人は聖マルコ、あの獅子はその福音書記者を象徴しているんです。僕は、この街まであなたを護衛できたことを、今とても誇りに思います。いつか、あなたが書き終えたお仕事を、ぜひ読ませてください。約束です、姉妹カタジーナ。

そして、船を確認してきますね、と小さく言い残すと足早に船着場へ向かった。

 私は呆気に取られて佇んだまま、その背と塔の獅子像を交互に見やった。今のはどういうこと? まさか私がこれから取り掛かる仕事を、聖マルコによる福音書になぞらえているの? 例えに事欠いたとしても、まさかね……かぶりを振って十字を切る。

 そして遠く金色に照り映える獅子の像に手を伸ばした。


 トシェブニツァの短い夜が明ける。

 羽ペンを置き、窓を押し開ける。ひんやりとした風に身内の熱が冷まされて気持ちがいい。東の裏手に広がる農場の牧草地を朝陽が撫でていく。もうすぐ朝課が終わる。刻を置かず一時課の鐘も鳴るだろう。身支度しなければ。

 ふと思い出す。いつであったか底冷えのする写字室で、凍えながら最後の一頁に記した解放の安堵。

 ──紡がれた声と、一杯の熱い湯に神の祝福を!

 あの方がご自分の召命に従って歩まれたように、私たち一人ひとりに召命が下されている。私に本当に書けるのかは判らない。けれど、記されなければ掻き消えるだけの声を確かな一条に紡ぎ、私たちが歩む足がかりとして、楔として紡ぎたい。

 主の召命に従い、今ここに、一つの物語を書き始めよう。


 一二八二年五月 アタナシウスの日に 聖クララ修道院にて カタジーナ記す




 補記


 以下の記録は、記録者が各地の関係者を訪ねて聞き取った証言、並びに手記(故人のものを含む)、公書、その他信頼に足る各種証跡等に拠っている。特に個人の内省・心情・独白の部分についても全て本人の手記、または本人が第三者に語った言葉を再構成した。ただ、どうしても埋めることのできなかった間隙は、充分信頼に足る伝聞や状況証拠をもとに、極力抑制した想像で補わざるを得なかった。ここに忸怩たる思いでその旨を断るとともに、主と、誰よりも姉妹ウルシュラその人、及びご両親、そしてのちの読者に許しを請う。

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