青の回廊

心音

第1話

平日の放課後、水族館はほとんど人がいなかった。

制服のまま来るのは、少しだけ悪いことをしているみたいで、

私は胸がどきどきしていた。


セーラー服の襟に、外の雨のしずくがまだ残っている。

濡れた靴が、静かな館内に小さく音を立てた。


青い光がゆらゆら揺れる回廊を歩くと、

壁一面の大きな水槽が私を包みこんだ。

水の向こうで魚たちがゆっくり回り、

まるで時間だけが海の中を漂っているようだった。


私はガラスに手のひらをそっと当てた。


「今日はね、言いたいことがあるの」


もちろん魚に届くわけじゃない。

でも誰かに聞いてほしかった。

人間じゃなくていいから。


最近、学校でうまく笑えなくなっていた。

友だちはいるし、嫌われているわけじゃないのに、

ふとした瞬間に空っぽになる。


そんな時、水族館の青い光だけは、

私の心を静かにしてくれる。


ガラスの向こうで、一匹の赤い魚がふわりと近づいてきた。

青の世界でその赤だけが小さく灯っていて、

私は胸がぎゅっとなった。


「ねぇ、もし海の中に行けたら、

 もっと上手に生きられるのかな」


魚はもちろん答えない。

ただ尾びれを揺らし、網みたいに薄い影を水面に落とした。


その影は、そっと水に溶けるように優しかった。


しばらくすると、館内放送が閉館の時間を告げた。

私は制服のスカートを整え、

ガラスに映る自分と目を合わせた。


青い光に染まったセーラー服は、

普段よりずっと大人びて見えた。


「…大丈夫。もう少し頑張ってみる」


そう小さく呟くと、

赤い魚がまるでうなずいたように尾を振って、

大きな影の中へ溶けていった。


私は出口に向かって歩いた。

雨は止んでいて、外の空気は少しひんやりしていた。


振り返ると、水族館の青い光がまだ薄く漏れていて、

その光が背中をそっと押してくれた気がした。


まるで「またおいで」と言われたみたいに。

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青の回廊 心音 @kokone_0920

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