三秒削れの観測者──都市の時間は、静かに壊れ始めている
@ryutan
第1章 第1話 三秒の欠落
午前一時四十八分。
久世静真は、モニターの最下行で止まったログを見つめたまま、マウスから指を離した。
都内にある中堅IT企業からの依頼は、「夜間にだけ発生する不定期なシステム停止の原因調査」という、ごくありふれたものだった。
表向きはそういう名目になっているが、担当の情報システム部長は、打ち合わせの席で、声を落としてこう付け加えている。
「本当のところはですね……社内の誰かが、管理ログをいじっている可能性がありまして」
内部不正。
フォレンジックの現場では、決して珍しくない話だ。
静真は、企業に常駐するのではなく、自宅のワークステーションからVPN経由で対象サーバに接続し、監視ログを片端から洗っていった。
深夜帯のアクセス、権限変更、例外エラー。
不自然な点はいくつか見つかったが、「犯人」と断定できるほどのものではない。
ただ、一つだけ、どうにも説明がつかない箇所があった。
「……飛んでるな」
システムログのタイムスタンプが、ある一点で不自然に飛んでいる。
午前〇時〇二分一四秒の次が、〇時〇二分一七秒。
たった三秒。
その間のログが、きれいに落ちている。
普通の人間なら、見落とす程度のズレだろう。
だが、静真はこういう“綺麗すぎる抜け”を嫌う。
ログローテーションの設定を確認する。
パラメータは問題ない。ローテーションが走った形跡も、その時間帯にはない。
エラーやプロセスの再起動履歴も、直前・直後ともにきちんと残っていた。
「三秒だけ、ね」
大きく消す方がまだ分かりやすい、と彼は思う。
五分、十分、丸ごと抜けているなら「人為的な編集」と判断しやすい。
しかし、三秒だけを完璧に消し、かつ他のログとの整合性を保つのは、むしろ高度すぎる。
椅子の背にもたれて、天井を一度見上げる。
冷めかけたマグカップのコーヒーを一口含み、口内の苦味だけで意識を覚醒させる。
久世静真は、数字の並びに嘘が混じるのを嫌う。
依頼の範囲に含まれるかどうかは、本質的に重要ではない。
「見えてしまった違和感」を放置できるほど、彼は鈍感ではなかった。
ごく稀に、だが。
過去にも一度だけ、時計の表示と自分の体感が、説明しづらい形でずれたことがある。
仕事中ではなかったし、記録も残していないが、「あれは何だったのか」という問いだけが、薄いノイズのように頭の片隅に沈殿していた。
「現場、見たほうが早いか」
モニターに表示されたラック番号とサーバIDをメモに書き写す。
外は、東京の深夜特有の、乾いた静けさが支配していた。
◇
都心からやや外れたビル街。
人のまばらなオフィスフロアを抜け、カードキーで施錠されたサーバルームに入ると、ひんやりとした空気と低い冷却ファンの唸りが、一定のリズムで彼を出迎えた。
ラックが整然と並ぶ一角に、問題のサーバがある。
静真は持参した小型端末を管理コンソールに接続し、時刻同期やクロックのズレ、ログファイルの物理配置を一つずつ確認していった。
「……クロックは正常。ログファイルも断片化なし。編集痕も、なし」
人間がいじった痕跡はない。
となれば、次に疑うべきは監視側だ。
監視カメラの管理システムを開き、例の時間帯の映像を呼び出す。
サーバルームの天井に取り付けられたカメラが捉えた映像が、モニターに映し出された。
ラック、配線、出入口のドア、温度センサー。
何の変哲もない画面だ。
再生バーを、午前〇時〇二分あたりまでスライドさせる。
こともなげに映像は進んでいき――対象の時刻に差し掛かったところで、一瞬だけ、ざ、と砂嵐が走った。
「……」
ノイズの後、映像は何事もなかったかのように続く。
ほんの一瞬。
ただ、そのわずかな乱れが、やはりきっちり「三秒」分の時間と一致していた。
静真は再生を止め、フレーム単位でコマ送りにしていく。
ノイズの直前と直後。
ラックのランプの点滅パターン、床に落ちたコードの位置、温度センサーの表示値。
どれも連続しているように見える。
ただ、その三秒だけが、ざらついた静止画のように塗りつぶされていた。
「ログも、映像も三秒。偶然としては、少々整いすぎているな」
独り言を落としながら、視線を画面と現実のサーバルームの間で行き来させる。
差異はない。
だが、“何か”が引っかかっていた。
ラックの並び。
カメラの死角。
映像の端で、わずかに歪む影。
微かに眉間に皺を寄せた、その瞬間だった。
耳鳴りがした。
高い音が、遠くから近づいてきて、頭蓋骨の内側で反響する。
冷却ファンの音が急速に遠ざかり、自分の心臓の鼓動だけが、やけに大きく聞こえ始めた。
空気の温度が、わずかに変わる。
冷房の冷気が、ぬるく、重く、そこに留まる。
久世静真は、とっさに深呼吸を一つした。
体調不良や過呼吸の類いなら、この時点で兆候に気づけるはずだ。
だが、手の震えも、視界のぼやけもない。
代わりに――音が、完全に消えた。
ファンも、蛍光灯の微かな唸りも、廊下の足音も、何もかも。
世界から音が剥ぎ取られたような静寂が、サーバルームの中を満たす。
映像モニターに映るLEDランプの点滅が止まり、天井から吊るされたケーブルが、途中の揺れを保ったまま固定されている。
時間が、止まっている。
静真は、瞬きすらせず、その事実を受け入れた。
驚きより先に、検証すべき事項のリストが頭の中に並ぶ。
呼吸はできる。
視界は動く。
首を動かせば、視野も変わる。
すなわち、自分だけがこの現象の“外側”にいる。
彼は試しに、一歩、足を踏み出した。
床の上のゴムマットの感触は、そのままだ。
感覚の齟齬はない。
腕時計に目を落とす。
秒針は、〇時〇三分一九秒を指したまま、ぴたりと止まっていた。
――ここから、三秒か。
直感的にそう考えた。
根拠はない。ただ、サーバのログと監視映像で見た値が、既に頭のどこかに刻み込まれていた。
彼は、停止した世界の中でサーバラックに近づき、目視でケーブルの一本一本を確認する。
途中で切断された跡も、変形した部分もない。
パネルのランプは、中途半端な点灯状態のまま静止している。
やがて、耳鳴りが一段階大きくなった。
次の瞬間、世界が唐突に「音」を取り戻した。
ファンの唸り、空調の風、蛍光灯のノイズ。
秒針は、何事もなかったかのように〇時〇三分二〇秒へ進んでいる。
彼は、腕時計とサーバのシステム時刻を見比べた。
ずれはない。
「……体感三秒前後。計測上のギャップは、ゼロ」
不快感よりも、興味が勝った。
人間として多少は不安を覚えるべき現象なのだろうが、久世静真の脳は、すでにこの出来事を「検証対象」として扱い始めていた。
サーバルームを出る前に、監視カメラの映像をもう一度だけ確認する。
さきほど見たノイズの塊は、そこに確かに存在した。
ログの三秒の欠落。
映像の三秒の乱れ。
体感時間の三秒の停止。
偶然が三つ重なる確率は、職業柄、無視できないレベルで低いと知っている。
「三秒、か」
エレベーターで地上階へ戻りながら、彼は小さく呟いた。
この都市のどこかで、三秒単位の何かが、静かに削り取られている。
その事実だけが、確かな“異常”として、彼の中に残った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます