カルネアデスの選別

モーセ

第1話透明人間の招待状

給湯室のドアは、三センチだけ開けておくのが正解だった。

完全に閉めると、誰かが近づいてきたとき足音が聞こえない。かといって開けすぎれば、廊下を通る人間の視界に入ってしまう。三センチ。ちょうど隙間風が頬を撫でる程度の幅が、雨宮ミオにとっての安全圏だった。


「……」


ミオはマグカップを両手で包み込むようにして、窓の外を眺めていた。六月の雨が、三十二階のガラスを灰色の膜で覆っている。遠くのビル群が滲んで見えるのは、雨粒のせいだけではない。給湯室の蛍光灯が一本だけチカチカと点滅していて、それがミオの瞳孔を不規則に収縮させていた。

交換申請は三週間前に出した。総務の担当は、もちろんミオ自身だ。

しかし、蛍光灯の在庫管理はミオの担当ではなく、正社員の羽村さんの仕事だった。羽村さんは「発注したから」と言った。その「から」の語尾が上がっていたから、きっと嘘だろうとミオは思っている。


人は嘘をつくとき、ほんの少しだけ声が高くなる。あるいは、語尾が跳ねる。あるいは、瞬きが増える。あるいは、視線が一瞬だけ右上に泳ぐ。

それは、十八年間、虐待する父親の「今日は機嫌がいいのか悪いのか」を読み取り続けた結果、ミオの身体に刻み込まれた生存本能だった。


コツ、コツ、コツ。

廊下から革靴の音が近づいてくる。

ミオの指先が、マグカップの取っ手をきつく握った。

歩幅は広い。体重移動は踵から。わずかに外側に重心が偏っている。靴底の減り方でわかる。営業部の桐嶋主任だ。

足音はドアの前で止まった。


「……あれ、雨宮さん?」


ドアが開く。三センチではなく、全開に。

桐嶋主任は三十代半ばで、スーツの肩には雨粒がいくつか残っていた。外回りから戻ってきたばかりなのだろう。その唇の端が、ほんの〇・五センチだけ下がっている。

機嫌が悪い。

いや、機嫌が悪いというより、苛立っている。眉間の皺は深くないから、怒りの対象はミオではない。しかし、八つ当たりの標的を探している目だ。


「お疲れ様です」


ミオは視線を下げた。目を合わせない。肩を縮める。存在感を消す。十八年間で磨き上げた「透明人間」のスキル。


「あ、うん。悪い、コーヒー淹れてくれる? 砂糖二つね」


主任は自分で淹れる気など最初からなかった。ミオは頷き、棚からインスタントコーヒーの瓶を取り出す。

これでいい。

透明人間は、便利な道具として使われているうちが一番安全なのだ。存在を忘れられるよりも、存在を軽視されている方がまだマシ。忘れられると、突然思い出されたとき「なぜここにいる」と理不尽な怒りを買う。

経験則だった。

すべてが、経験則だった。


「サンキュ」


桐嶋主任はマグカップを受け取ると、ちらりとミオの胸元を見た。視線の滞在時間は一・五秒。不快だったが、ミオは表情を変えなかった。その一・五秒を指摘すれば、「自意識過剰だろ」と笑われて終わりだと知っている。

主任は給湯室を出ていった。


ミオは、自分のマグカップに残っていたぬるい緑茶を流しに捨てた。

飲む気が失せていた。

時計を見る。十七時四十八分。定時は十八時。あと十二分。

ミオは給湯室を出て、自分のデスクに戻った。


オフィスは、雨のせいで薄暗かった。

天井の蛍光灯は煌々と点いているはずなのに、窓の外の灰色がすべてを侵食している。ミオのデスクは窓際だった。窓際といっても、景色のいい席という意味ではない。エアコンの風が直撃し、夏は寒く冬は乾燥する、誰も座りたがらない席だ。

そこが、ミオの居場所だった。


デスクの上には、未処理の書類が三センチほど積まれている。

派遣社員のミオに与えられる仕事は、正社員が「面倒くさい」と判断したものばかりだった。領収書の整理。備品の発注。会議室の予約。来客へのお茶出し。コピー機のトナー交換。シュレッダーのゴミ袋交換。

どれも簡単な仕事だ。しかし、簡単な仕事ほど、ミスをしたときの風当たりは強い。「こんな簡単なこともできないのか」と言われる。複雑な仕事でミスをすれば「難しかったから仕方ない」と言ってもらえるのに。

理不尽だと思う。

けれど、理不尽に抵抗するエネルギーを、ミオは持ち合わせていなかった。

生きているだけで精一杯だった。


「雨宮さん」


声をかけられて、ミオは肩を跳ねさせた。

振り向くと、総務部の部長である三島が立っていた。五十代後半、白髪交じりの髪をオールバックに撫でつけた男だ。


「は、はい」


「これ、君宛てに届いてたよ」


三島部長が差し出したのは、一通の封筒だった。

白い封筒。宛名は「雨宮ミオ様」。差出人の欄には「Karneia Productions」とだけ記されている。会社の住所宛てに届いたのに、個人名指定。

奇妙だった。


「ありがとうございます」


ミオは封筒を受け取った。三島部長は特に興味なさそうに自分のデスクへ戻っていく。その足音が遠ざかるのを確認してから、ミオは封筒を裏返した。

封緘のシールには、何かのロゴマークが刻印されている。天秤と、その上に乗った人間のシルエット。どこかで見たことがあるような気がしたが、思い出せなかった。


ペーパーナイフで丁寧に開封する。

中には、一枚のカードと、もう一枚、折り畳まれた書類が入っていた。


カードを取り出す。

厚手の紙。高級感のあるエンボス加工。指先で触れると、微かな凹凸が感じられた。



    ***


**雨宮ミオ様**


あなたは「奇跡の生存者」の一人として選ばれました。


来る七月十二日、私どもの施設にて、特別なドキュメンタリー番組の収録を行います。テーマは「カルネアデスの舟板——極限状態を生き延びた者たちの証言」。

あなたの体験談を、一〇〇〇万円でお買い上げいたします。


詳細は同封の書類をご覧ください。

ご参加をお待ちしております。


Karneia Productions

プロデューサー 神崎總一郎


    ***



ミオは、カードを持つ手が震えていることに気づいた。


一〇〇〇万円。


派遣社員の年収が二五〇万円に届かないミオにとって、それは四年分の収入だった。

いや、金額の問題ではない。

「生存者」という言葉が、ミオの鳩尾を突いていた。


——あの夜のことを、誰かが知っている?


父親から逃げた夜。燃える家。悲鳴を上げる弟。

逃げた。

逃げた。

逃げた。

弟を置いて。


ミオの手から、カードが滑り落ちた。

床に落ちる音は、オフィスの喧騒に紛れて誰にも聞こえなかった。


折り畳まれた書類を開く。

そこには、詳細な日程と、集合場所の地図と、そして——五人の名前が記されていた。


参加者No.1 雨宮ミオ(虐待サバイバー)

参加者No.2 高城蓮(山岳遭難サバイバー)

参加者No.3 郷田剛(火災サバイバー)

参加者No.4 西園寺麗華(移植サバイバー)

参加者No.5 矢部健二(冤罪サバイバー)


ミオは、自分の名前の横に記された括弧書きを見つめた。

「虐待サバイバー」。

そう呼ばれるのは初めてだった。そう呼ばれることが正しいのかどうかも、わからなかった。


ただ、一つだけ確かなことがあった。


この招待状を送ってきた人間は、ミオの過去を知っている。

あの夜のことを。

弟を見捨てたことを。


窓の外で、雷が光った。

一、二、三——三秒後に、腹の底を震わせる雷鳴が響いた。雷は約一キロ先だ。

ミオは窓ガラスに映る自分の顔を見た。

青白く、痩せこけた顔。大きすぎる目。乾いた唇。

「透明人間」にしては、ひどく目立つ顔だと思った。


定時のチャイムが鳴った。

ミオは書類をバッグにしまい、静かに席を立った。


帰り道、雨に打たれながら、ミオは考えていた。

一〇〇〇万円。

それがあれば、この街を出られる。父親の影響が及ばない場所へ逃げられる。弟への罪悪感を抱えたまま、誰も自分を知らない土地で、新しい人生を始められる。

いや、違う。

本当に考えていたのは、金のことではなかった。


——私は、本当に「サバイバー」なんだろうか。


生き残った。それは事実だ。

でも、生き残るために、何を犠牲にした?


弟の悲鳴が、今も耳の奥でこだましている。


アパートに帰り着く頃には、ミオの服は完全に濡れ切っていた。

傘は持っていた。差さなかっただけだ。

雨に打たれていると、あの夜のことを思い出さずに済むような気がした。嘘だとわかっていても。


六畳一間の部屋。

ミオは濡れた服のままベッドに倒れ込み、天井を見上げた。

蛍光灯は点けなかった。雨雲を通した夕暮れの光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。


バッグから招待状を取り出す。

もう一度、じっくりと読み直した。


「カルネアデスの舟板」。


その言葉に、ミオは見覚えがあった。

大学時代、法学部の講義で聞いた話だ。古代ギリシャの哲学者が提唱した思考実験。船が難破し、一枚の板にしがみつく二人の人間。板は一人分の浮力しかない。片方がもう片方を突き落として生き残った場合、それは罪に問われるのか。

答えは「否」だった。

緊急避難として、罪には問われない。


でも、それは法律上の話だ。

倫理的に、道義的に、人間として——「許される」のか?


ミオは目を閉じた。

まぶたの裏に、燃える家が浮かんだ。

煙の中、弟の手を振りほどいた自分の手が浮かんだ。


参加しよう。


その決断は、ミオ自身にも不可解だった。

怖くないはずがない。過去を知られているかもしれない恐怖。見知らぬ人間と対峙する恐怖。

それでも、ミオは参加を決めた。


もしかしたら。

もしかしたら、他の「サバイバー」たちも、同じ重荷を背負っているのかもしれない。

生き残ってしまった罪悪感。

誰かを犠牲にしてしまった後悔。

そういう人間たちと、言葉を交わしてみたかった。

同じ傷を持つ人間と。


ミオはスマートフォンを取り出し、「高城蓮」と検索した。

すぐにヒットした。

若いIT起業家。三年前の北アルプス遭難事故で奇跡の生還を果たしたことで知られている。精悍な顔立ち。自信に満ちた笑顔。インタビュー記事では「仲間の死を無駄にしないために、自分は生き続ける」と語っていた。


——この人も、「英雄」なんだ。


ミオはそう思った。

自分とは違う。

堂々と、過去を語れる人間。

光の当たる場所を歩ける人間。


でも、何かが引っかかった。


インタビュー写真の高城蓮。その目が、笑っていなかった。

口元は完璧な笑顔を形作っているのに、瞳の奥には、ミオがよく知っている色があった。


恐怖。


何を恐れているのか、写真だけではわからない。

でも、確かに見えた。


ミオは画面を消し、天井を見上げた。

雨音が、アパートの薄い壁を叩いている。

あと二週間。

七月十二日。


その日、ミオは「奇跡の生存者たち」と出会う。

そして、「英雄」たちの仮面の下に、どんな怪物が潜んでいるのかを、知ることになる。


まだ、何も知らなかった。

この招待状が、「地獄への切符」だということを——。

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