法の黎明 -異世界裁判官は法を編む-

園口回

目醒めは槌の音と共に

目醒めは槌の音と共に 1/5

 そのとき、王国中央裁判所裁判官アストラは覚醒した。


 重厚な石造りの法廷。高い天井から差し込む光が、塵を照らして揺らめいている。裁判官席は法廷の中で最も高い位置にあり、そこから見下ろすすべてがアストラの裁きを待っている。黒い法服に身を包んだアストラは、いつものように槌を手に取ろうとした。


 その瞬間だった。


 脳裏に、激しい閃光が走った。


 両目が、激しく痛んだ。椅子の肘掛けを掴む手が、無意識に震えている。


 二つの人生が、同時に存在する。


 この世界の裁判官アストラとしての二十数年。


 そして、日本で裁判官として十数年勤務した前世の記憶。


 二つの時間軸が激しく交錯し、境界が曖昧になっていく。まるでFPSとTPSを同時にプレイしているような、現実を俯瞰する自分と、現実で生きている自分が連続的につながっている感覚。気持ちの悪い浮遊感が全身を包む。


 左目がこの世界の記憶を映し出し、右目が前世の記憶を映し出す。二つの金色の瞳が、それぞれ違う世界を見ている。


 前世の記憶が鮮明に蘇る。


 東京地方裁判所の法廷。整然とした手続き。厳格な証拠法則。弁護人の鋭い反対尋問。検察官の冷静な立証。そして、法の下の平等。


 一方で、この世界の人間・アストラとしての記憶も同時に流れ込んでくる。


 拷問による自白を当然のように採用した裁判。証拠不十分でも権力者の訴えを認めた判決。種族による差別的な量刑。亜人には重く、貴族には軽く。被告人の弁明をまともに聞かなかった数々の裁判。


 どちらも、自分が主宰した法廷だ。どちらも、自分が裁判官として立っていた。


 二つの正義が、激しくぶつかり合う。前世で正しいとされていたことが、この世界では行われていない。この世界で当然だったことが、前世では許されない不正だった。


 両方とも自分自身の記憶だからこそ、引き裂かれるような苦しみが胸を締め付ける。


「私は……」


 アストラは呆然と法廷を見渡した。


 目の前には、鎖につながれた痩せ細った被告人。怯えきった表情で震えている。傍聴人たちは野次を飛ばし、魔法での「真実確認」を要求している。そして、被告人の隣には誰もいない。弁護人が、いない。


 前世の記憶が警鐘を鳴らす。


「これは……裁判ではない」


「リンチだ」


 罪の有無はまだわからない。しかし、それはどうでもよい。眼前では強い人間が弱い人間をいたぶっている。


 正義が行われるはずの法廷で、これほどの不正義が行われていることがアストラにとっては耐え難かった。


 心臓が激しく鼓動する。呼吸が浅くなる。しかし、表面だけでも冷静を保たなければならない。プロフェッショナルの矜持だけが、アストラを支えていた。


「アストラ様……?」


 隣の書記席から、小さな声が聞こえた。専属秘書官のソフィアだ。青い目が、メガネの奥から不思議そうにこちらを見つめている。大きく見開かれた瞳には、心配の色が滲んでいる。


 一年前に配属されてきた若い秘書官だ。丁寧で、几帳面で、的確に仕事をこなす。アストラの指示を正確に理解し、法廷の記録を完璧に残す。だが、その関係は常に職務的なものだった。


 アストラは何も答えられなかった。二つの人生の狭間で、言葉が出てこない。


 ソフィアは一瞬戸惑ったように目を伏せたが、すぐに姿勢を正した。


「アストラ様、開廷のお時間です」


 もう一度、今度は少し大きな声で、しかし丁寧に呼びかける。職務を全うしようとする、いつものソフィアだ。


 そうだ、今は裁判を始めなければならない。どれだけ混乱していても、目の前には裁かれるべき事件がある。守られるべき正義がある。


 アストラは深く息を吸い、法廷を見渡した。


 前世の視点と現世の視点が、二重に重なって見える。


 この裁判を、二つの目でしっかりと見なければならない。


◇◇◇


「では、これより殺人事件の審理を開始します」


 アストラの声が法廷に響く。


 槌を手に取る。


 前世では使ったことのない道具だ。日本の法廷に、槌はなかった。


 しかし、不思議なほどに手に馴染んでいた。


 槌を一度叩くと、重い音が石壁に反響した。


 法廷の中央には、被告人セドリックが立っている。二十代前半の若い平民だ。痩せ細った体、ぼろぼろの衣服、そして何より、絶望に染まった目。鎖で両手を拘束され、まるで獣のように扱われている。


 王都に身寄りはない。助けてくれる者もいない。完全に孤立した存在だった。


 訴追側の席には、王国検事官ダリウスが座っている。整った顔立ち、自信に満ちた態度、そして勝利を確信したような笑み。彼は立ち上がり、法廷を見渡した。


「裁判官、傍聴人の皆様」ダリウスは朗々と声を上げる。「本日ここに、極悪非道な殺人犯を裁くため、法廷が開かれました」


 アストラは眉をひそめた。


「極悪非道」という言葉。まだ判決は出ていない。有罪とも決まっていない。なのに、検察官が被告人を「殺人犯」と断定している。


「被告人は、セドリック。二十代前半の行商人です」


 ダリウスは書類を一瞥し、すぐに被告人席を指差す。


「地方の村から来た、この王都には何の縁もない流れ者です」


「知り合いもいない。素性も定かではない」


「そんな男が、この王都で尊敬される商人、ガブリエル様を殺害したのです!」


「足がつかないと踏んだのでしょう。しかし浅はかでした」


「目撃者による証言により、この男は捕らえられました!」


「このままこの獣を放置していれば、またいずれどこかで人を殺すでしょう!」


「我々、偉大なる王都の人間がその罪を断ち切らなければならない!」


 その瞬間、傍聴席から一人の男が立ち上がった。


 立派な服を着た、背の高い男。ヴィクター。被害者ガブリエルの息子だ。


「父上の仇を討て!」


 ヴィクターの叫びが法廷に響く。


 ダリウスはヴィクターに向かって、わずかに頷いた。


 ヴィクターはその視線を受け取り、満足そうに頷き返す。


 まるで、あらかじめ筋書きが決まっているかのような、そんな合図だった。


 その声に呼応するように、傍聴席が爆発した。


「許せない!」

「魔法で真実を確認しろ!」

「ヴィクター様のお気持ちを考えろ!」


 野次が飛び交う。ヴィクターは拳を振り上げ、セドリックを睨みつけている。


 セドリックは怯えた表情で、小さく身を縮めた。


 アストラは槌を叩いた。「静粛に」


 しかし、誰も聞いていない。


 前世の記憶が告げる。「法廷の秩序を守るため、騒ぐ者は退廷させることができる」


 だが、この世界の記憶が囁く。「傍聴人の反応は判決の参考になる。静かにさせる必要はない」


 二つの価値観が、激しくぶつかり合う。


 ダリウスは証人を次々と呼んだ。


 近隣の商人、町の物乞い、通りすがりの通行人。


「被告人は事件当日、現場付近にいた」

「被告人はガブリエル様に恨みを持っていた」

「被告人は金に困っていた」


 証言はすべて伝聞だ。直接見たわけではない。誰かから聞いた話。噂。推測。


 セドリックは震えながら訴える。「私は……私は殺していません……」


「嘘をつくな!」

「拷問にかければ白状するぞ!」


 傍聴人の罵声が飛ぶ。法廷は完全に無秩序だった。


 アストラは法廷を見渡した。


 二重の視点で見ると、すべてが歪んで見える。


 これはリンチだ。法の支配が完全に崩壊している。被告人の権利は無視され、証拠法則は存在せず、傍聴人が裁判を支配している。


 右目が、鋭く痛んだ。


 前世の記憶が警鐘を鳴らす。許容できない不正を見ている。


 しかし、これが普通だ。これまで何百回も見てきた光景。自分も何の疑問も持たずに、こうした裁判を主宰してきた。


 左目が、鈍く痛んだ。


 この世界での罪を、思い出させる痛み。


 アストラは理解した。右目は前世の価値観で許容できないことを見た時、左目はこの世界での過去の罪を思い出した時に痛むのだと。


 罪悪感が胸を締め付ける。


 今、この瞬間から、変えなくてはいけない。


 アストラは深く息を吸った。


 そして、槌を激しく叩いた。


「静粛に!」


 今度は、法廷全体に響き渡る声だった。


 一瞬、静寂が訪れた。


 傍聴人も、ダリウスも、セドリックも、皆がアストラを見つめている。


 アストラは被告人を見た。セドリックの怯えた目が、わずかな希望を宿している。


「被告人は、弁護人を選任する権利があります」


 その言葉を口にした瞬間、両目の痛みが、すっと消えた。


 法廷は凍りついた。


 数秒の沈黙。


 そして、困惑のどよめきが法廷を包んだ。


「弁護人……?」

「平民に?」

「何を言っているんだ、この裁判官は」


 ダリウスは目を見開いている。完全に予想外の展開だ。


 金銭的余裕のある貴族以外で、弁護人をつけることは一般的ではなかった。いや、ほぼ存在しなかった。


 セドリックも困惑している。「弁護人……とは?」


 アストラは冷静に続けた。「被告人には、自己の防御のため、弁護人を選任する権利があります。これは法の下で保障された権利です」


「で、でも……」セドリックは震えながら言う。「お金が……ありません……」


「では、裁判所が適切な弁護人を手配します」


 法廷がさらに騒然となる。


 裁判所が弁護人を手配する? そんなこと、前代未聞だ。


「異議あり!」


 ダリウスが立ち上がり、抗議する。顔は紅潮し、怒りが滲んでいる。


「裁判官、そのような手続きは前例がありません! 被告人に弁護人など必要ない!」


「異議を認めません」


 アストラの声は冷静だった。


「これは被告人の正当な権利です。王国法典第三章、裁判官の裁量権に基づき、公正な裁判を実現するため、弁護人の選任を命じます」


 ダリウスは言葉を失った。


 確かに、裁判官には王国法典によって認められた広い裁量権——自ら判断して裁判の進め方を決められる権限——がある。だが、それをこのような形で使うなど、誰も想像していなかった。


 アストラは槌を叩いた。


「次回期日までに、被告人の弁護人を用意します。それでは本日は閉廷とします」


 もう一度、槌を叩く。


 重い音が法廷に響き渡った。


 傍聴人は騒然としている。


 ダリウスは憤怒の表情で書類を掴んでいる。


 セドリックは、まだ状況が理解できずに呆然としている。


 ソフィアは、書記席でアストラを見つめていた。青い目に、驚きと困惑が浮かんでいる。


 裁判官席から立ち上がるアストラの横顔が、まるで別人のように見えた。


 その変化が、恐ろしくもあり、しかし不思議と、期待に似た感情を呼び起こしていた。


 そんな様子をよそに、アストラは静かに立ち上がった。


 黒い法服の裾が揺れた。


◇◇◇

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