第10話 逆転!天正最上の乱
❄️ 最上義光との邂逅:出羽の狐
雪がちらつく山形、寒々とした空気。斉藤猛は、ボロボロになったTシャツと短パンという異様な姿で、深い雪に足を取られていた。左腕に浮かぶ黄金のカードは、凍えるほどの冷気の中でも激しく熱を帯びている。
「寒い…!なんだ、この雪は。秋田の雪と比べても…いや、場所が違うんだ。ここは山形…最上義光の領地か」
猛は、頭痛をこらえながら状況を整理する。「天正最上の乱」といえば、伊達政宗が介入した、義光の領土を巡る抗争。清原家衡の戦場とは違い、周囲は火縄銃と鉄砲が飛び交う、より苛烈な時代だ。
その時、猛は、馬の蹄の音を聞いた。
⛩️ 狐と異形の闘士
厳重な武装をした騎馬武者の一団が、雪の山道から現れた。その中央にいる武将は、人目を引く豪華な具足を纏い、威厳に満ちている。だが、その表情は険しく、獲物を狙う狐の眼光のように鋭い。
「何者だ、貴様! この雪中で、そのような異形の
武将が馬を止め、猛を指差して叫ぶ。この男こそ、出羽の支配者、**最上
猛は、ムエタイの構えを取りながら答える。
「俺は、斉藤 猛。未来の秋田から、あんたを助けに来た」
義光は、家臣たちに静止を命じ、馬から降りて猛に近づいた。彼の視線は、猛の左腕に輝くカードに釘付けになっていた。
「未来…? そして、その腕の光る札は何だ。貴様、伊達の手の者か。それとも、京から来た天狗の末裔か?」
義光は、猛の言葉を信じている様子はない。しかし、彼の持つ「異様さ」が、ただの山賊やスパイではないことを直感させていた。
「天狗じゃない! 俺はムエタイ選手だ。…このカードが、あんたと伊達政宗の戦いを終わらせろって言ってるんだ」
猛はカードに書かれた内容を伝える。
「ほほう。『天正最上の乱』か。まさに今、政宗めが大崎に介入し、わしを挟み撃ちにする
義光は、一瞬の戸惑いの後、猛の言葉に真実味を感じ始めた。彼の父・義守との諍い(天正2年)を経て、ようやく最上を独立させたばかり。この乱で敗北すれば、最上家は終わりだ。
「もし、貴様が未来から来たと言うならば、この乱で、わしはどうなる? 最上はどうなるのだ、言ってみよ!」
「あんたは、この戦いで政宗を退け、出羽の統一を果たす。そして、関ヶ原の戦いでも東軍に就き、最上57万石の礎を築くことになる!」
猛は、中学の歴史でかろうじて覚えている知識を絞り出す。
「57万石…! (くっ、この男、ただ者ではない!)…ふむ。わしは未来を知りたいわけではない。知りたいのは、貴様の拳の力だ」
義光は、傍らに控えていた剛力で知られる家臣を指差した。
「与八郎! 貴様、あの男と組み合え。ただし、刀は使うな。その徒手空拳とやらで、わしの家臣を圧倒してみよ!」
💥 戦国の地で炸裂する肘
与八郎と呼ばれた巨漢の武士は、猛の前に立ち塞がる。その体躯は、現代のヘビー級ボクサーに匹敵する。
「異国の術使いよ! 俺の腹筋は、刀も通さぬ甲冑の如し! 拳ごとき、児戯に等しいわ!」
与八郎は、戦国武士特有の荒々しい組み打ちを仕掛けてきた。猛は、その野蛮なパワーをいなし、相手の懐に飛び込む。
「これが、児戯かよ!」
猛の得意技、**肘打ち(ソーク)**が炸裂する。
右ソークで与八郎の脇腹を抉り、武士の動きを一瞬止める。
武士が苦悶の声を上げる隙を見逃さず、今度は相手の顔面を捉える跳ね上げ式の左ソーク!
ギチッ!
甲冑の隙間を縫って放たれた一撃は、武士の鼻骨を砕き、鮮血が雪の上に飛び散った。与八郎は、そのまま意識を失い、ドサリと雪の中に倒れ込んだ。
義光は、その凄惨な破壊力に、目を見開いた。
「なんという…! 刀を用いずして、一撃で人を討つ! まさに鬼神か!」
義光は刀を抜き、雪の上に切っ先を突き立て、深く頭を下げた。
「…斉藤 猛殿。わしは、貴殿を信じる。最上義光は、貴殿の力を借り、この出羽の地を守り抜く。さあ、陣へ! まずは、伊達政宗の動きを封じる策を練るぞ!」
猛は、激しい頭痛と疲労を感じながらも、決意を固める。
「タイトルマッチまで残り10日。この戦を終わらせて、必ず秋田に帰る!」
猛にさらなる敵が現れた。
大内定綱である。
大内氏は、父・義綱の代に田村氏の内応工作に応じて主君・石橋尚義を追放し、塩松領主となって田村氏の旗下に属していた。
定綱は初めは田村氏の偏諱を得て顕徳と名乗っていた。家督を継いだ定綱は、天正7年(1579年)3月頃、田村氏が岩城氏を攻めた際に発生した田村・大内両家の家臣同士の争いの裁決に対する不満から、次第に田村氏からの独立を目論むようになる。 これを知った二本松城主二本松義継は田村清顕と定綱の仲介を勧めるが決裂し、同年6月に定綱は田村氏との手切れを宣言し名前を定綱と改名、面目を失った義継も同調した。
独立をした定綱は蘆名盛氏を頼った。蘆名氏はこれを受け入れ、同氏と同盟関係にあった伊達氏も縁戚である田村氏との間では中立との態度を取りながらも定綱の独立を認めた。
天正10年(1582年)、伊達輝宗が小斎城を攻略した際に、輝宗の陣に参上して伊達傘下に入り、以降は対相馬戦に度々従軍する。またこの頃、娘を二本松城主二本松義継の子・国王丸に嫁がせて足場を固めた。こうして天正11年(1583年)、田村領の百目木城主石川光昌(石橋氏旧臣、義綱と組んで尚義を追放した有信の子)を攻撃、田村氏と対立していた蘆名盛隆の支援を受けて田村清顕を破った。しかし、天正12年(1584年)に輝宗の子・政宗(正室は田村清顕の娘・愛姫)が家督を継ぐと、定綱は引き続き伊達氏への奉公を表明した。
一方、蘆名盛隆や二本松義継は大内氏・田村氏の和睦を図り政宗への了解を取り付けようとしていた。
しかし、8月になると政宗は田村氏に加担する方針に転換する。もっとも、政宗も蘆名盛隆との衝突を避けるために定綱への攻撃は行われなかった。
ところが、10月に蘆名盛隆が暗殺され、その家督争いの過程で親伊達派が力を失って佐竹氏の影響が強まると、伊達氏と蘆名氏の同盟関係は終焉に向かった。すると、定綱は突然米沢城の政宗を訪問して伊達氏に出仕して妻子を米沢に住まわせたいと申し出た。
政宗はこれは受け入れるが、義綱が塩松に戻るとこの約束を破棄したため、激怒した政宗は田村氏に加担して定綱の攻撃を決意した。一方、隠居した輝宗は秘かに定綱に政宗への謝罪を求めたが、定綱はこれに応じなかった。
翌天正13年(1585年)5月、政宗は蘆名氏が定綱を支援していることを理由に同氏を攻撃し、続いて閏8月には定綱を攻撃し、小手森城で撫で斬りを行うなどしたため、定綱は小浜城を放棄して二本松へ逃れ、ついで会津の蘆名氏を頼った。
天正16年(1588年)、郡山合戦の際には蘆名氏の部将として苗代田城を攻略するが、伊達成実の誘いに応じて弟の片平親綱と共に伊達氏に帰参した。 定綱は蘆名氏で冷遇されたことに不満を抱いている一方、親綱のいる片平城が政宗の会津攻略に必要な要地であることや塩松の浪人衆(大内氏や二本松氏の旧臣)が伊達氏に反抗を続けていることを知って、政宗と有利な条件で交渉できると踏んだのである。
更に定綱の没落後に塩松に入った石川光昌の謀反の風聞もあった(実際に石川は定綱の帰参後に相馬氏の誘いを受けて謀反を起こしている)。
その結果、定綱は天正16年3月に帰参を認められた代わりに旧領復帰ではなく伊達氏の本拠地に近い伊達郡や長井郡に所領を与えられた。蘆名氏からの軍事的圧力から一旦は帰参を見送った親綱も翌天正17年(1589年)3月には本領安堵の上で帰参したが、これを知った蘆名義広によって人質にされていた定綱・親綱兄弟の母が殺されている。
以後は、摺上原の戦いや葛西大崎一揆鎮圧、文禄・慶長の役にも従軍して功績を立てた。天正19年(1591年)、政宗が岩出山城に転封されると、胆沢郡に20邑余(およそ10,000石)の所領を与えられ、前沢城主となった。関ヶ原の戦いの折には京都伊達屋敷の留守居役を務めた。子の重綱の代にはこれらの功績により、一族の家格を与えられた。
慶長6年(1601)、伊勢の宗禅泰安を興化寺の再興開山として迎え、興化山寶林寺と改名して菩提寺とした。
慶長15年(1610年)、65歳で没し,前沢の小沢に葬られた。
定綱自身は戦上手として名高く、調略にも長け、武術においては十文字槍を得物とし、これを用いた槍術にも優れていたという。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます