第7話 「せんぱい、お手伝いっス!」

 次の日になっても、耳元で囁いた小夏の声が忘れられなかった。

 むしろ、アレを忘れられる方がどうかしていると思う。

 抱き寄せられた肩、太ももに添えられたもう片方の手、耳に触れる熱を持った吐息と、密着した事によって感じる好きな人の匂い……。


『……なーいしょ』


 そして、頬を赤らめて笑ったその言葉が、可愛すぎて蠱惑的すぎたせいだった。


「駄目だな……義兄あにとしても、先輩としても、駄目駄目だ……」


 あまりのしてやられっぷりに、普段はしないような独り言が口から零れる。

 元々昨日は俺が小夏を心配して部屋に行ったのに、気づけば小夏が俺を気遣うような形になってしまっていた。

 いつも元気いっぱいにからかってくる小夏の素は、優しさに満ち溢れている。


 その優しさに甘えてしまうのは、義兄としても先輩としても情けなかった。


「……駄目だ駄目だ。今はまず、部活に集中集中!」


 弱気になった思考を、両手で頬を叩き外に追い出す。

 早いもので九月ももう終わり、十月になれば中間テストが待ち構えていた。

 そうなっては部活も休みになってしまうので、今の時期は特に集中したいのだ。


「えっと、ライン引きは……」


 校庭の隅にある体育倉庫。

 埃っぽく薄暗いこの場所に俺はいた。

 いつもはマネージャーがやってくれる仕事だけど、今日は委員会があるから遅れますと昼休みに連絡があった。

 運動部なんだから一年にやらせれば良いと言う意見も分からないでもないけれど、次期部長に選んでもらった俺としてはまず率先して自分が部活の為に行動する姿を見せた方が良いと思った。


「いや、何処だ……?」


 だと言うのに、肝心のライン引きが見つからない。

 ハードルとか、マットとか、授業で使うサッカーボールとかは大量に見つかるのにライン引きだけが見つからなかった。

 これはマズい。

 校庭に白線を引くだけなのに、それすら始められないなんて。

 マネージャーに連絡しようにも今は委員会中だろうし、そもそもスマホを更衣室のロッカーに置いてきているので、その手段すら無かった。


「ライン引きなら多分サッカーボールカゴの奥じゃないっすか?」

「え? 奥?」

佳穂かほちゃん先輩が言ってたんス。二学期からサッカーの授業が始まったせいで、体育の先生が元あった備品をどんどん奥に押し込んじゃうって」

「うわ本当だ! マジで奥にあった! ありがとな小夏!」

「いえいえ~! 私も佳穂ちゃん先輩に聞いただけっスから~!」


 小夏の言う通り、授業で使うサッカーボールが大量に入ったカゴの奥にライン引きはあった。

 しかも体育倉庫の角にピッタリとフィットしているように押し込まれていて、体育の先生が雑なのか几帳面なのか判断に困るぐらいに完璧な死角となっていた。

 これは佳穂かほ、陸上部マネージャーの情報が無ければ気づけないだろう。


 それを教えてくれた小夏にも感謝だ。

 ……ん?


「小夏っ!?」

「はい?」

「な、何でここにいるんだ!?」

「え~?」


 振り向けば、小夏がいた。

 というかいつの間にか、小夏がいた。

 制服からユニフォームに着替えていた小夏は、驚く俺を見上げては悪戯な笑みを浮かべる。


「ただのお手伝いっスよぉ~?」


 小夏が笑う。

 手伝ってくれるのはとても嬉しいし実際に助かった。

 だけど昨日の今日の事があるので、嫌な予感しかしないのは何故だろうか。


「そ、そうか……。小夏の、のおかげで助かったよ」

「いえいえっス~!」


 ニコニコの小夏。

 気を引き締めなければ、と思った。

 まだ俺と小夏が義理の家族になった事は誰も知らない。

 余計な混乱を招かない為にも、今は先輩と後輩モードに戻らないと……。


「じゃあ、これ持って部活に行こうか」

「駄目っすよ?」

「え?」


 ライン引きを持つ手を、小夏が掴む。

 健康的に日焼けをしているけれど、小さくて華奢な女の子の手。

 その柔らかな感触に包まれたのと同時に、俺の頭に疑問が浮かび――。


「昨日、言ったじゃないっスか」


 ――ガシャン、と。

 ライン引きが体育倉庫に倒れた音がした。

 それは小夏が、急に俺の手を引っ張ったからで。


「……私も、頑張るって」

「こ、小夏っ!?」


 薄暗い二人きりの体育倉庫の中で。

 小夏が、正面から俺に抱きついてきたんだ。

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