26.身代わりじゃなくて

 生徒会室の戸の前で、一つ深呼吸をする。

 きっと今から彼女を甘やかすことになるが……保健室では危なかった。


 触れるにしても、もう少し節度を持たなくては。雛菊先輩が禁断症状で多少暴走するのは仕方ないから、俺が制御するべきなんだ。


 ノックをして扉を開けた瞬間、雛菊先輩に部屋の中に引き摺り込まれる。


 ジャケットをシワにならないように脱がされたかと思うと、ソファまで一瞬で連行され、あっという間に俺の腕の中に雛菊先輩が収まった。


 さっきの続き、とばかりに。


「遅いっ」

「すみません」

「待ちくたびれたんだから……!」


 喉がカラカラのとき、ペットボトルの底に僅かに残った数ミリの水を飲み干せば余計に喉が渇く。


 雛菊先輩も同じで、甘やかされていたのが途中で中断され、増大した欲求を募らせていたのだろう。


「ねぇ、早く」


 彼女もジャケットを脱いでいるらしい。

 

 ほっそりした腕、薄い肩、柔らかい胸、しなやかな脚。


 華奢な感覚は愛くるしいだけで、思ったより変な気持ちにならずに済んだことに、少しだけ安堵した。


 今はただ、この人を思い切り甘やかしてあげたい。


「雛菊先輩、今までよく頑張りましたね」

「うん……」


 小さくも嬉しそうな声は、ワイシャツに吸収されていった。


 彼女はなぜか、俺のシャツに顔を押し付けて、すーすーと呼吸しているようだ。

 息が苦しくないのかと思ったが、まぁ好きにさせておくことにした。


 良い機会だから聞いてみる。


「禁断症状って、いつから始まったんですか?」

「……去年の晩冬、かしら。前の書記と会計がいなくなって、二人きりになる時間が増えて。最初は嬉しかったけれど、段々怖くなったの」


 会長は許嫁を深く想っている。

 よりにもよってそれは自分の姉で、家に帰ればその相手がいるのだ。


「お姉ちゃんと顔を合わせるたび、後ろめたかった。一刻も早く、会長を好きなのをやめなきゃって、ただの仕事仲間にならなきゃって、強く焦り始めて……始まったの、禁断症状が」


 禁断症状。

 何かを急に中断しようとする際に起こる症状。


 夏目会長が好きで、彼の隣にどうしても行きたくて生徒会に入った。

 結果、夏目会長と過ごす時間が格段に増加。しかし当時の他の執行部員が消え、二人きりになってしまう。


 彼女にとってそれは会長の過剰摂取で、抑えようとした反動が禁断症状となって現れたのだろう。


「よく一人で耐え抜きましたね」


 勉強も運動も生徒会の仕事も、禁断症状を一人で何とかしようとしていたことも。


 わざわざ生徒会室に篭りながらセルフ甘やかしなんて相当リスキーなことをしていたのも、家では牡丹さんが居るせいだったんだろう。


 シャツの胸にぴとり、と彼女の頬が擦り寄せられる。


「雛菊、えらい?」

「偉いです。雛菊先輩が世界で一番偉い」

「んへへ……」


 雛菊先輩は嬉しそうにはにかむ。可愛い。


 普段のクールビューティーな姿は「綺麗」という言葉がよく似合うが、禁断症状の際は「可愛い」と強く思う。


 綺麗で可愛いだなんて、天下無双にも程がある。


「もっと、甘やかして?」


 こめかみのあたりがドクンドクンとうるさくなってきた。


 心臓は左胸にあるというが、実際は皆が思うより中心寄りの位置にあるらしい。


 ちょうど雛菊先輩が頬と耳をつけているあたり。酷く速い鼓動の音が聞かれてしまっているかもしれない。


「臣の心臓の音、聞こえる」


 聞かれてしまっていた。雛菊先輩は悪戯っぽく、くすっと笑った。


「どきどきしてるの?」

「……してますけど」


 顔を背ける。

 男が照れても可愛くなんて無いのに、ぶっきらぼうな返事になってしまった。


 雛菊先輩は余計に楽しそうに、ふふふっと笑っている。


「いっしょ」


 俺の左手が取られ、彼女の顎の下──多分頸動脈のあたりに当てられる。

 薄い皮膚の下、トクトクトクトクと小刻みに血が脈打っているのが分かった。


 脈拍にも可愛さってあるんだ、なんてバカな思考が頭に過ぎる。


「あのね。お花屋さんの前で、お姉ちゃんと臣が話してるのを見たときね……」


 長い睫毛を持ち上げ、彼女は上目遣いで話し始めた。


「臣までお姉ちゃんに取られちゃうかも、って思ったの」


 雛菊先輩は首に当てている俺の手をギュッと握りしめる。これは自分のものだと主張するかのように。


 そんなことありえないのに、嫉妬するみたいな仕草のせいで、喉に熱が溜まる。


「そんな馬鹿な。初対面でしたし」

「だって結局愛されるのは、お姉ちゃんみたいな、ちょっと抜けてて可愛げのあるタイプなのよっ。私みたいな捻くれ者じゃなくて!」


 彼女にしては珍しい、いじけたような子供っぽい言い方だった。鼻を鳴らした彼女から、じとりとした視線が向けられる。


「ねぇ臣。お姉ちゃんと話してたとき、デレデレしてなかった?」


 つんつんつん、と頬が指で突かれる。容赦のない指圧は結構痛かった。


「してませんよ」

「本当に?」


 そこで気づいた。これは本気で疑ってるわけじゃなくて、ただ構ってほしいだけなのだと。


 一般的には面倒なムーブなのかもしれないが、単純にも俺の頬は緩んでいく。


「本当です。可愛げだって、ちょっとくらい捻くれてる方が──」

「うるさいっ」


 ぺちんっ。

 ちょっと揶揄おうと調子に乗ったら、右頬を軽く叩かれてしまった。音が出ただけであまり痛くはない。


「『可愛げ』じゃなくて『可愛い』って言いなさいっ!」


 機嫌を損ねてしまった理由は、言葉選びだったらしい。求められるまま、俺は口を開く。


「可愛いです」

「……ほんと?」


 急に声が甘くなり、心臓が一際大きく跳ね上がった。


 ……今の言い方、結構刺さってしまった。

 

 蜂蜜みたいな響きが、毒のように脳を侵食していく。こちらはもう、黙ってこくこくと頷くことしかできない。


 一瞬嬉しそうな顔をした雛菊先輩だったが、何故か目を伏せる。


「私ね……どこかで貴方のこと、夏目会長の代わりにしようとしてた」


 まるで懺悔するみたいな、弱々しい声だった。


 生徒会加入直後、自分が身代わりなんだと気づいた日を思い出す。


 会長には許嫁がいるとか、会長はもっと背が高くて声が良くて優しく抱きしめてくれるなどと散々に言われたあの日のことを。


「そんなの、とっくに気づいてましたよ。でも別に俺は良かったんです、雛菊先輩が楽になるなら」

「良いわけないでしょ……っ! ごめんなさい」


 頭が下げられる。絹のような黒髪が、ぱさりとシャツにかかった。


 首に置かれていた手を滑らせ、流れる黒髪に指を通しながら彼女の頬をそっと持ち上げる。

 その瞳は罪悪感で揺れていた。睫毛もふるふると震えている。


 俺なんかに謝る必要なんて、どこにもないのにな。


「本当、気にしないでください」


 親指で頬をなぞれば、涙がじわりと浮かび始める。


「今までずっと頑張ってきたの、報われなくても努力だけはしようって。でも会長が好きなのはお姉ちゃんだし、私、何のためにこんなことを、って……心の底で思ってた」

「はい」

「でもね、臣がそのご褒美だったのかも。頑張ってきた私への、ご褒美」


 澄んだ瞳からは、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。


「そんな大層なものじゃないですよ」

「ううん、ご褒美なのよ」


 雛菊先輩はそう言うと、徐にスマホを取り出す。


 そして、いつも禁断症状を抑えるために使っていた会長の音声が入ったアプリを開き──「削除」のボタンを押した。


「え……よかったんですか?」

「だって、臣がいるもの。臣がいれば、私はきっとこれからも完璧で居られる」


 スマホを置いた彼女は、頬に当てられたままの俺の手に触れる。


「完璧で居続けるのは、私の矜持。ずっと守ってきたプライド。そうじゃないと、もう自分を許せなくなってしまった」


 《完璧》は彼女にとって、剣であり鎧だった。

 会長の隣に居続けるために、自分を肯定するためには完璧である必要があったんだ。


 その意志は、どこまでも気高くて眩しい。


「だけど、臣の前だけは……完璧じゃない久慈方雛菊で居ても、いいんでしょ……?」


 少しの不安と、多大なる期待を乗せた声に、俺は笑う。


「当然です」


 その瞬間、ぽろりと雫が白い頬を伝うのが見えた。涙で光る睫毛が、綺麗だと思った。


「臣のこと、会長の代わりだなんてもう思わない。ううん……きっともう、思えない」


 代わりで良いって思っていたはずだった。


 なのに良いんだろうか。こんな、こんなことを言ってもらって。


「ねぇ、臣。臣だけは、ずっと私を見ていて……」


 雛菊先輩は、はにかんだ。


 柔らかい彼女の両手がそっと俺の頬を包む。他を見ることなんて許さないとでもいうような、我儘な手の感触。


「臣だけが、私だけを甘やかして……」


 少し上擦った、蕩けるような声。潤んだ瞳。濡れた長い睫毛。紅潮した頬。


 身を震わせる歓喜が、ため息となって漏れる。


 ──雛菊先輩は今、俺を見ている。夏目会長じゃなくて、俺だけを。

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