わたしはわたしのサンタクロース
@harucomax
社会人になっておおよそ十年。給与明細の数字を見ると、毎月、なんとも言えない気持ちになる。総支給額……ふむふむ。社会保険料、うっ。所得税、うげっ。厚生年金、ハァ……。まるっと一週間分くらいタダ働きさせられてない? と思うような金額が天引きされ、口座に振り込まれる。それでもまだ、今月はましだ。残業をがんばらざるをえなかったので、ここ数ヶ月のなかでは一番大きな数字だった。
これは――ちょっとくらいご褒美があってもいいでしょう。
女はマフラーで隠したくちびるの端を、ほんの少しだけ上げた。満員電車から弾き出されるようにしてターミナル駅へ降り立つ。いつもならここで各駅停車に乗り換えて自宅の最寄駅に向かうのだが、ショッピングに繰り出すことにした。
十一月の最終週。ブラックフライデーの装飾が並ぶ駅ビル内をそぞろ歩く。本格的に冷え込む前にアウターを買っちゃおうか。でも、持ち帰るのが大変かな。そういえば靴も欲しいんだった。いま履いてるスニーカー、何年前に買ったんだっけ……。購買意欲を煽るディスプレイを眺めつつ、彼女はフロアを上がっていった。何もかもステキに見えるけれど、キラキラしすぎてなんだかもう、よくわからない。流されるようにエスカレーターに連れて行かれた最上階は、書店とコーヒーショップのフロアだった。
本なんて、すっかり読まなくなったなぁ。赤と緑。もみの木にサンタクロース。本を引き立たせるクリスマスの飾り付けが可愛らしい。なんとなく目を惹かれて、入り口の雑誌コーナーから見てみることにした。人気の女優が表紙のファッション誌。大掃除特集のページをぱらりと開いて、すぐに閉じた。話題のビジネス書。資格用の参考書に、漫画……店内の奥へ進むと、プレゼント用ディスプレイの一角に行き当たった。周りの棚をちらりと見やる。なるほど。絵本ね。
そこかしこで、仕事帰りと思わしき大人が色々と品定めをしている。平置きされている絵本は、見た覚えがあるような気もする名作から、まったく知らない新しげなものまでさまざまだ。何冊か、手に取ってみた。お腹を空かせた人に自分の顔を食べさせるヒーローが、サンタクロースに扮してプレゼントを配るお話だった。ほかにも、白い猫の男の子が、赤い自動車を持ってきてくれるサンタクロースを待つお話……。クリスマス、特にサンタクロースの絵本だけでこんなにあるなんて! ずらりと並んだ赤い表紙たち。クラクラしそう。
いつだったかなぁ。サンタのことを信じなくなったのは。絵本を元の場所に戻しつつ、思い出してみる。小学校の高学年の頃には、たしかもう「正体」を知ってしまっていた。晩ご飯を食べながら、母親に、ほしいものをおねだりしたような……。もううちにはサンタが来ないね、と呟いたときの母の反応は、妙に覚えている。
「なに言ってんの。そんなことないわよ」
大根の味噌汁をすすりつつ、さらに喋り続けていた。
「サンタさんはね、世界中の大人の心にいるのよ。クリスマスは、子どもたちにプレゼントを、ってね」
完全に、うまいこと言った! みたいな表情をしたのにイラつきながらも、笑ってしまった。そんなの、見えないじゃん。赤い衣装も、トナカイも。晩ご飯を平らげて、母は笑ったんだった。
「いいの、いいの。大切なことはね、目に見えないもんなの」
また得意げにニコニコしちゃって。このセリフが母のオリジナルではなく、本の引用だと知ったのは、数年後のことだった。なんて本だったっけ……確か、そう、絵がかわいくて……。なんとはなしに、棚を移動すると、一枚のポスターが目に入った。
――あなたが選んだ本を、サンタクロースが全国の子どもたちに届けます。――
乱雑に積まれた本の上を、楽しげに歩く子どもたちのイラスト。どういうこと? よくよく見てみると、下の方に説明が書いてある。
ここで本を選びレジで会計すれば、さまざまな理由で困難な立場にいる子どもたちにそれを贈り届けてくれるらしい。へぇ。そんなチャリティーがあるなんて、初めて知った。どんな本でもいいんだろうか。何か自分にご褒美をしたいけど、何を買えばいいのか迷っている、私が選んだようなものでも。
ポスターから視線をずらす。平置きされた絵本の表紙を眺めていると、ある一冊に目が止まった。鮮やかな黄色の表紙。真ん中にはサーベルを持った子どもが堂々と立っている。タイトルは「星の王子様」。そこまで見てピンときた。――この本だ! 恐る恐る手に取り、ページをめくってみる。あのセリフは、確か……。
読み始めると、意外と内容が濃い。これは立ち読み程度では味わいつくせなさそうだわ。女は本を閉じ、小脇に抱えた。そしてもう片方の手で、さらに一冊を持ち上げる。レジに向かうと、同じ本を二冊、店員に差し出した。
「片方は……ブックサンタ? で、お願いします」
さっきのポスターはレジの下にも貼ってあった。店員は一瞬だけ眉をひそめ、だがすぐに言葉を理解し、にっこりと微笑んだ。なんて素敵な笑顔なんだろう。二冊分の会計を支払い、手元に戻ってきたのは、一冊だ。温かな重みを受け取ると、店員はレシートと、さらにもうひとつ何か差し出してきた。
「ブックサンタへのご協力、ありがとうございます。こちらはサンタさんへシールのプレゼントです」
レシートともに受け取り、早速、本の間にしまった。書店を後にし、となりのコーヒーショップに向かう。いつもは買ってもコンビニコーヒーだけど、期間限定のジンジャーミルクティをオーダーした。
ソファ席に陣取り、シナモンが香るマグカップをテーブルに置く。買ったばかりの本をめくると、さっきもらったシールが目に飛び込んできた。高く積まれた本を楽しむ子どもたちのイラストと、Thank You! の文字、その横には小さくこう書いてあった。
――あなたも誰かのサンタクロース――
マフラーの下。口元が自然とゆるんでいく。世界中の大人の心にいるというサンタクロース。私の中にも、ひょっとしたらいるのかもしれない。
帰ったら実家に電話でもしようか。昔のことだし忘れてるかな? そんなことを思いながら飲むミルクティは、舌が焼けそうなほど熱く、心がとろけるくらいに甘かった。
おしまい
わたしはわたしのサンタクロース @harucomax
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