第4話 恋と逃げと
夜もふけた居酒屋の半個室は、別の世界みたいに静かだった。
天井近くの換気扇が低い唸りを立て、煙を吸い上げている。壁際の小さな照明が、テーブルの上だけをぼんやりと照らしていた。
桜子の前には、もう何杯目かも分からないジョッキ。
幸の前には、吸い殻の山になりかけている灰皿。
入店してから、どれくらい経っただろうか。
桜子は、グラスの側面を伝う水滴を親指で拭いながら、ぼんやり考える。
(私達は何をしてるんだ)
居酒屋で、何も喋らない二人。
酒とタバコだけが、黙って減っていく。
(何を話せばいいんだ)
ここに来ようと言い出したのは幸だ。
嘉穂の家を出る時、「二次会しよう」と半ば強引に連れてきた。
(……何が目的だ。わからない。何故ついてきたのかも)
沈黙はじわじわと伸びる。
耐えかねたように、桜子が先に口を開いた。
「……お前、何か話があったんじゃないのか? このヤニカス」
幸がストローを咥えたまま目だけでにらみ返す。
「は? あんたこそ、なんかあるでしょ。アル中女」
言ってから、幸は自分でふっと笑った。
罵り合いの言葉のわりに、声の温度はぬるい。長く積み重ねた関係の中でしか成立しない、いつもの調子だった。
だが笑いは、そこで途切れる。
短いやり取りのあと、空気はまた沈黙に戻った。
(私に話すことなど……ないはず)
そう思ってから、自分で苦笑する。
(いや、そんなわけもない。ただ、どうすればいいか分からないだけだ)
グラスをテーブルに戻し、桜子は改めて幸を見た。
「……お前はいつもいい加減だな」
幸がストローをくるりと回す。
「知ってる。……さくらは逆だね」
「そうだな。私達は全く逆だな」
幸はしばらく黙っていた。氷をストローでつつきながら、視線だけを木目の上でさまよわせる。
「だからさ……上手くいってるんだろうね、わたしたち」
ぽつりと、言葉が落ちた。
「でも、根っこは同じ気がするんだ」
「……根っこ?」
「……そ、根っこ」
幸は軽く言う。
「だからさ、二人して嘉穂ちゃんに何にも言えないんじゃないかなって」
図星だった。
「私は……」
言い出して、自分の声が少し掠れていることに気づく。
「私は、最初から賭けに出ない方を選ぶ」
視線をテーブルに落として、ゆっくり言葉を紡ぐ。
「失敗しなければ、傷つかずに済むと思っているからだ」
本当は、一度くらい賭けに出てみたいと思っている。
誰かの手を取って、手を引かれて、どこかへ踏み出すことが出来たら――。
(それでも、今夜もまた、一歩を踏み出せずにいる)
その事実から目を逸らしてきたことも、分かっていた。
「だからこそ、お前の方が、うらやましい」
口に出してから、自分でも少し驚く。
幸が目を瞬かせた。
「……うらやましい?」
「お前は、怖いくせに、“怖いから逃げている”と、自分で言える」
桜子は、ゆっくりと息を吐いた。
「私は出来ない。怖いと口にすることすら、怖い」
言葉にした途端、胸のどこかがきゅっと締め付けられた。
(本当に、面倒な性格だ)
幸が、烏龍茶のグラスを持ち上げて、またテーブルに戻す。
「……面倒くさい同士だから上手くいってるのかも、わたしたち」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
桜子は、少しだけ口元を緩める。
「そうだな」
「私、恋愛無理かも……」
「いや、それは私だ……」
「こんなとこだけ、一緒なんてね」
二人とも、くすりと笑った。
本音を言葉にした後の笑いは、さっきまでより少しだけ柔らかかった。
その時、テーブルの上で、桜子のスマートフォンが小さく震えた。
画面には「店主」の名前。
着信音は切ってあるが、通知の振動だけは控えめに鳴るように設定してある。
桜子は、反射的に画面をスワイプした。
メッセージアプリを開くと、短い文章が一つだけ表示される。
――今日はほんとにありがとう。
今度は、ゆっくり飲もう。
(今度は、ゆっくり飲もう)
最後の一行だけが、妙にはっきりと目に残った。
隣から、幸が身を乗り出す気配がする。
「……嘉穂ちゃん?」
画面を覗き込んだ幸が、小さく息を呑む。
「うわ」
それきり、言葉が続かなかった。
冗談も、軽口も、この場にふさわしい形を見つけられなかったのだろう。
桜子は、スマートフォンをテーブルに伏せて置こうとして――指先を滑らせた。
「あ」
スマートフォンの角が小皿の縁をかすめ、皿が床に落ちる。
からん、と乾いた音がして、視線が一斉に落ちた。
立ち上がろうとして、今度は自分のグラスをひっかける。
氷と酒が、テーブルの上に派手にこぼれた。
「す、すみません……!」
慌ててナプキンを掴み、桜子は必死にテーブルを拭く。
頬が熱い。耳まで熱い。
(何をしているんだ、私は)
こういう時に限って、指先がうまく動かない。
店員が駆け寄ってきて、「大丈夫ですよ」と笑いながら新しいグラスとナプキンを置いていく。
桜子は、ひたすら頭を下げるしかなかった。
幸はといえば、スマートフォンの画面をちらりと見たきり、妙に大人しい。
何か言いたそうに口を開きかけては閉じる。それを二度、三度繰り返す。
(ほらな)
桜子はテーブルを拭きながら、ちらりと幸を見た。
(結局、お前も、いちばん大事なところで何も言えない)
(本当に面倒くさい女……女たちだな)
責める気持ちは、少しもなかった。
自分も同じだからだ。
こぼれた酒が片づけられ、新しいグラスが置かれたあと、テーブルの上には整えきれない気配だけが残った。
煙だけが、いつも通り天井へ昇っていく。
自分たちの「逃げ方」を自分たちで笑い合えるくらいには、もう大人だ。
それでも、一歩を踏み出すには、もう少し時間が要るのだろう。
桜子は、新しいハイボールを一口だけ飲んだ。
冷たいはずの液体が喉を落ちる頃には、妙に熱く感じられた。
向かいでは、幸がグラスを両手で抱えたまま、まだ画面の中の一文を思い出しているような顔をしている。
女二人、二十八歳。
まだ、恋は始まらない。
女二人、二十八歳。まだ恋は始まらない ネコ屋ネコ太郎 @kinpika4126
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