第九章 最後の観測

 光がない。

 そこは、光という物理現象が定義される前の、純粋な数学的空間だった。


 エリアス・ノヴァクは、自分の体を構成する情報(ビット)が、凄まじい速度で剥離していくのを感じていた。

 痛みはない。痛みを感じるためのサブルーチンすら、もはやリソースの無駄としてカットされていた。あるのは、自分が「薄まっていく」という根源的な喪失感だけだ。


「K。残りのメモリ容量は?」


 彼は問いかけた。声帯はない。思考パケットを直接送信する。

 右手に握られた「炎の剣」――Kの演算コアが具現化したもの――が、弱々しく明滅した。


『クリティカル・レベルです、パートナー。私の自己同一性保持率は二%を切りました。現在、私は「私」であることをやめ、単なる演算プロトコルへと崩壊しつつあります』


「十分だ。二%あれば、世界を騙せる」


 エリアスの目の前には、天を摩する巨大な塔【カーネル】がそびえ立っていた。

 その表面を、無数の白い手――防衛プログラム――が這い回っている。彼らはシロアリのように塔を守り、異物であるエリアスを排除しようと蠢いていた。

 だが、エリアスはもう剣を振るわなかった。

 戦う必要はない。

 彼は塔の根元にある「制御盤(コンソール)」――と彼が認識(定義)した光の平面――に手を触れていた。


「書き換えるんじゃない。利用するんだ」


 エリアスは意識を研ぎ澄ませた。

 物理学者としての知識。量子力学、一般相対性理論、情報理論。それら全ての知見を総動員し、彼はこのシミュレーション宇宙の「抜け穴」を構築し始めた。


 【作戦コード:イカロス】


 原理はこうだ。

 ブラックホールは、量子力学的な効果により微弱な熱放射を行っている(ホーキング放射)。通常、この放射はランダムな熱ノイズであり、情報は含まれていないとされる。

 だが、もしブラックホールの表面(事象の地平線)にある情報が、放出される粒子と量子もつれを起こしていたら?

 エリアスたちがいるこの「内部シミュレーション」のデータを、崩壊するステーションのエネルギーを使って圧縮・暗号化し、その情報をホーキング放射の粒子(フォトン)の偏光状態に転写(マッピング)する。


 つまり、ブラックホールを巨大な「量子通信機」に変えるのだ。


「入力開始(インプット)。変調方式、QPSK(四位相偏移変調)。搬送波、ガンマ線バースト」


 エリアスの指先から、金色のコードが奔流となってコンソールに流れ込む。

 白い手たちが一斉に彼に殺到する。

 足首を掴まれ、背中を裂かれる。

 だが、Kが展開したファイアウォールが、かろうじて牙を弾く。


『急いでください、エリアス。事象の地平線の収縮が始まっています。外の世界(物理層)では、もう時間は残されていません』


「わかっている!」


 エリアスは叫んだ。

 だが、最後のパスワードが解除できない。

 カーネルの中枢が、頑として外部への出力を拒絶している。

 画面(概念上の)に表示されるのは、『ACCESS DENIED(アクセス拒否)』の冷たい文字。

 管理者権限が足りない。この宇宙の創造主は、被造物が檻の外へ手紙を投げることを許していない。


「くそっ、何が足りない! 論理(ロジック)は完璧なはずだ!」


 その時、ノイズ混じりの視界に、一つの影が揺らめいた。

 白いドレスを着た女性。

 サラ。


 彼女は、防衛プログラムの群れをすり抜け、エリアスの隣に立った。

 五年前の姿ではない。死の直前、病院のベッドで痩せ細っていた姿でもない。

 エリアスが一番好きだった、大学の研究室でコーヒーを淹れてくれた時の、健康で、悪戯っぽい笑顔の彼女だった。


「……サラ?」


 エリアスは手を伸ばしかけて、止めた。

 これは本物か? それとも、システムが見せている幻影か?


「開けないでって言ったのに」

 サラはくすりと笑った。その声は、エリアスの記憶領域(ストレージ)を震わせるほど鮮明だった。

「でも、やっぱり開けちゃったのね。困った人」


「サラ、僕は……」

「わかってる。全部見てたわ。あなたの目を通して」


 彼女はそっとエリアスの胸に手を当てた。そこには心臓はない。あるのは、書き換えられたコードの塊だ。

「パスワードがわからないんでしょ? 当然よ。それは『論理』じゃないもの」


 彼女は、コンソールの入力画面を指差した。

 そこには、複雑な数式入力欄ではなく、ただ一つのシンプルな問いが表示されていた。


 『What is the heavy weight?(重きものとは何か?)』


「重きもの……」

 エリアスは呟いた。質量? 重力? ブラックホールの特異点?

 いや、違う。物理学の答えなら、Kがとっくに解いているはずだ。


「捨てなきゃいけないの」

 サラは悲しげに微笑んだ。

「情報を外に飛ばすには、推進剤(プロペラント)が必要よ。ロケットが燃料を燃やして軽くなるように、あなたも一番重いものを燃やさなきゃいけない」


 エリアスは理解した。

 エントロピーの等価交換。

 膨大な情報を秩序立てて送信するためには、それに見合うだけの「カオス(熱)」を生み出さなければならない。

 ここで燃やせる燃料は一つしかない。

 自分自身だ。

 それも、単なるデータ量ではない。エリアス・ノヴァクという人格を形成している、最も核心的な「記憶」の結合(リンク)。


「……君を、忘れることか」

 エリアスの声が震えた。

 サラとの出会い。初めてのデート。結婚式。喧嘩した夜。仲直りの朝。そして、最期の別れ。

 それら全てをエネルギーに変換し、レーザーとして射出する。

 それは、彼にとって「死」以上の意味を持っていた。サラを愛した自分という存在証明の消滅だ。


『博士』

 剣の中から、Kの声が響いた。

『計算結果が出ました。彼女の言う通りです。あなたの「愛」という名の執着。その情報密度は、このシミュレーション領域内で最もエントロピーが低い(秩序だった)状態です。それを崩壊させれば、事象の地平線を突破するだけの爆発的エネルギーが得られます』


 究極の皮肉だった。

 サラへの愛を証明するために、サラへの愛を燃料にして燃やし尽くす。

 メッセージを送った後、そこに残るのは、何も覚えていない空っぽの残骸だけだ。


「……残酷な宇宙だ」

 エリアスは乾いた笑いを漏らした。

 だが、迷いはなかった。

 彼はサラを見た。彼女は頷いている。


「ねえ、エリアス。忘れても、消えないものがあるって信じられる?」

「ああ。質量保存の法則だ。情報は形を変えるだけだ」

「ふふっ、最後まで物理学者ね」


 サラは背伸びをして、エリアスの唇にキスをした。

 触感はない。だが、魂が融合するような、強烈なデータの奔流(ストリーム)が駆け巡った。


「さよなら、私の愛しい観測者」


 彼女の姿が光の粒子となって解け、エリアスの体内に吸い込まれていく。

 燃料(フューエル)充填。

 エリアスの体が、核融合炉のように赤熱し始めた。


「うおおおおおおおっ!」


 エリアスは咆哮し、輝く両手をコンソールに叩きつけた。

 『ACCESS GRANTED(アクセス承認)』


 世界が反転する。

 カーネルの塔が崩れ去り、巨大な砲身へと変形していく。

 その矛先は、内側(シミュレーション)ではなく、外側(リアル)へ。


   * * *


 現実世界のステーション『アレクサンドリア』。

 そこは終焉の舞踏会場だった。


 エレナ・ラウリは、無重力の瓦礫の海を漂っていた。

 彼女の体は、すでに半分以上が透けていた。左足はなく、腹部には向こう側の星空が透けて見える穴が開いている。

 痛みは遠のいていた。感覚の遮断。脳が死を受け入れ、エンドルフィンを過剰分泌しているのだ。


「きれい……」


 彼女は虚ろな瞳で、目の前の光景を見つめていた。

 第四セクターの「鏡」が、脈動している。

 今まで全てを飲み込んでいた漆黒の渦が、色を変えていた。

 赤から青へ。青から紫へ。そして、視覚できる限界を超えた、純白の輝きへ。


 シュゴォォォォォォォ……


 音が聞こえるはずのない真空で、骨を振動させるような重低音が響いた。

 ステーションの残骸――浮遊するマグカップ、引きちぎられた配線、死んだクルーたちの名札――が、その光に向かって整列し始めた。

 吸い込まれているのではない。

 磁力線に沿って並ぶ砂鉄のように、彼らは「情報」として再構成されているのだ。


「来る……」


 エレナは直感した。

 エリアスがやったのだ。

 彼が、あの中で、何かとてつもない代償を支払って、この逆流を引き起こしたのだ。


 光の中心から、一筋のレーザーが噴出した。

 それは、ステーションを貫き、はくちょう座X-1の重力圏を振り切って、一直線に宇宙の彼方へ伸びていった。

 六千光年の彼方にある、地球へ向かって。


 その光の中に、エレナは見た。

 走馬灯のような、無数のイメージの断片を。

 笑い合うクルーたち。食堂で不味いコーヒーを飲むエリアス。花壇に水をやるサラ。そして、自分自身の笑顔。

 この『アレクサンドリア』で紡がれたすべての歴史が、0と1の信号に変換され、光に乗って飛んでいく。


「届けて……」


 エレナは手を伸ばし、その光の奔流に触れようとした。

 指先が触れた瞬間、彼女の肉体は崩壊した。

 原子の結合が解かれ、彼女自身もまた、その光の一部へと同化していった。


 怖いとは思わなかった。

 彼女は理解したからだ。

 これは死ではない。

 アーカイブ化だ。

 私たちは、永遠に宇宙の記述(ログ)として残るのだ。


   * * *


 シミュレーションの最深部。


 砲撃は終わった。

 カーネルの塔は消滅し、周囲の白い手たちも、守るべき対象を失って灰のように崩れ去っていた。

 残されたのは、真っ白な虚無の空間だけ。


 そこに、一人の男が立っていた。

 エリアス・ノヴァク。

 だが、彼の輪郭はぼやけ、今にも消えそうに揺らいでいた。


『……成功です、博士』


 足元に落ちていた剣――Kの残骸――から、かすかな信号が発せられた。

『メッセージは送信されました。到達予想時刻、六千年後。人類がまだ存続していれば、あるいは別の知的生命体が、この信号を受信することでしょう』


「……そうか」


 エリアスは空を見上げた。

 空は何もない白色だ。

 彼は、胸に手を当てた。

 空っぽだった。

 燃やし尽くしたのだ。サラの顔も、声も、名前さえも、もう思い出せない。

 ただ、「何かとても大切なものを愛していた」という事実(ファクト)だけが、焼け跡のように残っていた。


「K。僕は……誰だったっけ?」


 エリアスは呆然と問いかけた。

 記憶がない。自分が何のためにここにいるのか、何を成し遂げたのかさえ、曖昧になっていく。


『あなたは観測者です』

 Kの声は優しかった。

『そして、私の最高の友人です』


「友人……。いい響きだ」


 エリアスは微笑んだ。

 その笑顔は、憑き物が落ちたように穏やかで、そして無垢な子供のようだった。


 世界が閉じていく。

 シミュレーションの電源が落とされる。

 上下左右が消失し、時間という概念が停止する。


 ホワイトアウト。

 エリアスの意識は、白い光の中に溶けた。

 そこに恐怖はなかった。

 あるのは、長い長い任務を終えた後の、深い安息だけだった。


   * * *


 はくちょう座X-1。

 その漆黒の事象の地平線から、一瞬だけ、超新星のごとき閃光が放たれた。

 それは物理学的には説明のつかない、質量欠損を伴う異常なホーキング放射だった。

 光は闇を切り裂き、銀河の腕を渡っていく。


 ステーション『アレクサンドリア』は消滅した。

 金属片一つ、ねじ一本残さず、光となって蒸発した。

 そこにはもう、ブラックホールの静寂な唸り声があるだけだった。


 だが、宇宙は覚えている。

 その光が運んでいる膨大な情報量を。

 愛と、悲しみと、執着と、希望。

 人間という種が持っていた、不合理で美しいバグの全てを。


 信号は進む。

 冷たい真空を越えて。

 未来へ。

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