第3話
2085年1月6日AM8:00―ニューヨーク州マンハッタン
オフィス街はいつも通り、膨大な通勤者で溢れ返っていた。地下鉄はすでに限界まで混雑し、道路は朝の光を反射しながら無数の車列を作っている。クラクションが断続的に鳴り響き、まるで街全体が眠りから覚めるための目覚まし時計のようだった。
誰もが毎朝目にする光景。それはもはやマンハッタンの代名詞になってしまった――『恒例の渋滞』。
そんな雑踏の中、あるオフィスビルの入り口にも人の波が絶え間なく流れ込んでいた。社員たちは無表情で会員証をかざし、ビルの内部へと吸い込まれていく。その群衆の中に――
組織の工作員である彼女が紛れていた。
だが、超高層ビルはそう簡単に侵入者を許さない。見える範囲だけでも何十個もの防犯カメラが隈なく監視し、AIは常に画像を解析している。正面突破など、ほとんど不可能に近い。
私はエントランスへ向かい、ゲートに近づいた。しかしここで不用意に入れば、即座に警戒リスト入りすることは明白だった。
――必要なのは、ゲスト用キーかマスターキー。
計画段階からわかっていたことだ。キーを手に入れるか、偽装するか。その二択のうち、私が選んだのは『偽装』だった。
かけているサングラスは組織製の特注品。普通のスマートグラスではなく、目の前の電子機器の内容からコードまで瞬時に解析できる高性能仕様だ。
カード媒体はすでにこちらで作成済み。あとは情報を正確にプリントするだけだが、そんな情報が容易く手に入ることはない。視界から共有されたデータは、組織の一流ハッカーたちによって即座に解析され、コードを書き換えた上でカードにインプットされる。
しかし、警備は簡単に出し抜けるほど甘くはない。無理に突破すれば、計画は頓挫するだろう。
エントランス前。私は「ただの通勤者」の顔を作り、列の流れに身を任せた。心臓の鼓動は周囲のクラクションよりも大きく感じられる。
サングラスの内側に淡い光のインターフェースが展開される。
――解析開始。
目の前で次々と社員がカードをかざし、ゲートを通過する。その一瞬一瞬の動作、読み取りの反応速度、警備AIの処理のタイミング。すべてが私の視界に情報として流れ込む。
だが――
(速い……想定よりも一拍早い)
わずかなズレ。それだけで警報が鳴る。
私はゲートまで、あと三人というところで足を止めた。あえて、立ち止まったのだ。
後ろから舌打ちが聞こえ、視線が突き刺さる。しかし、焦るわけにはいかない。ここで慌てれば、すべてが水の泡だ。
――その瞬間。
視界にある進行バーがついに最後まで到達した。そして、カードへの情報インプットが完了した。
解析終了。
私は平然を装いながら、カードをかざす。ゲートは何事もなかったかのように開いた。
受付のスタッフは忙しさに追われ、AIも偽造データを受信して社員だと誤認している。計画の第一段階は、完璧に成功した。
この『朝の混雑』こそが、彼女が潜入のタイミングにこの時間を選んだ理由だった。
誰もが昨日の『世界同時ハッキング事件』を恐れつつ、どこかで他人事だと思っている。
まさか、自分のすぐ隣を歩く人物が、あの映像の組織の一員だとは
――誰も想像していないだろう。
そしてそのまま分かりきっているような鮮やかな動きでエレベーターに乗り込んだ。
打ち込み式のエレベーターに目的階を打ち込む。
――100階。
打ち込まれるとともに、高速エレベーターは、即座に目的の階へと上昇していった。
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