第2話
彩河さんに連れて来られたのは、最近建て替えが完了した綺麗なオフィスビル風の大学棟、通称「
入り口には「第2備品倉庫」と書かれたプレートが、半分錆びついてぶら下がっている。
「ん。どーぞ。入って」
中に入ると、意外にも埃っぽさはなかった。よく使っていると言っていたので案外掃除をしているのかもしれない。室内は積み上げられたパイプ椅子や壊れた石膏像が迷路を作っている。
その場所は、学校というよりは、忘れられた遺跡のような雰囲気があった。
彩河さんは床に置かれた跳び箱の一段目に腰を下ろすと、長い足を組んで俺を見上げた。
「……さて。ここなら誰も来ない」
彼女は再びスマホを取り出し、画面を俺に向けた。
「さっきの続き……結論から言うと、イノセントホワイトのアイリは私のお姉ちゃん」
「はっ……えっ!? そうなの!?」
「ん。そうなんだ。ライブはよく旅行も兼ねて見に行ってて、この前みたいにライブ後に合流してご飯を食べに行ってる。北海道の時はジンギスカンに行ってるんだ」
「あー……確かに。ライブ後にアップされた写真はジンギスカンだったね」
「ふふっ。よく見てるね」
「けど……さすがに信じられないよ。アイリちゃんの妹だなんて。俺を騙してたりしない?」
「騙してなんの得があるの?」
「それは……俺を笑うためとか? これまで完璧にアイドルオタクを隠してた俺をさ」
彩河さんはしばらくポカンとして、その後「ふはっ」と吹き出した。
「一ノ瀬くん。実はなんだけど……皆にバレてるよ? アイドルオタクってこと」
「えっ……そ、そうなの!?」
「ん。出処は中学の同級生かららしい」
「まじかよ……」
「だから女子たちの間では『イケメンで背も高いのにガチなアイドルオタクなところが無理』っていうのが君の評判。ま、私はそうは思わないけど」
「ば……バレてたのか……」
最初から俺というおにぎりの海苔はバリバリに破れていたわけだ。裸の王様状態。恥ずかしすぎる。
「わっ、私はそうは思ってないけどね?」
「皆に……バレてた……」
彩河さんが何か言っているが俺の耳には届かない。
「私は無理なんて思ってないよー?」
「バレたバレた……」
「……コホン。一ノ瀬くん」
不意に冷たく真面目な彩河さんの声がして我に戻る。
「はっ……はい!」
「とにかく、伝えたいことは1つだけ。私のお姉ちゃんがイノセントホワイトのアイリだってことは秘密にしてほしいんだ」
「それは……全然いいんだけど。さっき言ってた見返りっていうのはその話と繋がるの? というか本当なのかどうか……」
ぱっと見た感じ、姉妹と言われてもそこまで二人は似ていない。彩河さんは想定通りと言いたげに「ん」と喉を鳴らして頷いた。
「じゃ、お姉ちゃんのホクロの位置は知って――」
「左胸! 胸の付け根と鎖骨の間!」
グラビア写真を何度も見たのでこれは即答可能だ。
「ん。正解。私も同じところにね――」
そう言って彩河さんがシャツのボタンをいくつか外し始める。少しだけ下着の紐が見え、慌てて目を逸らす。
「えっ……な、何してるの!?」
「や、私も同じ場所にホクロがあるから証明にならないかなって」
「ならないよ!?」
「んー……あと太腿の付け根あたりにも――」
「ホクロ以外にしてくれる!?」
「ん。じゃあ……」
彩河さんはスマートフォンの画面を俺に突きつけた。 そこに映っていたのは、タクシーの中で撮影したと思しき映像だ。
映像の中では、アイリちゃんがタクシーの後部座席で靴と靴下を脱ぎ捨てていた。 それだけではない。彼女は脱いだばかりの自分の靴下を鼻に近づけ、あろうことか、深々と息を吸い込んでいる。
『あー、くっさ! 今日も頑張ったわー、私の足! ねえ嗅ぐ? 汐理も嗅ぐ?』
スマホのスピーカーから、紛れもないアイリちゃんの声が再生される。
「こっ、こんな動画はSNSに上がってなかった……」
これほどまでに素を見せられる人物。本当に二人は姉妹なんだろう。
「ん。完全プライベートだからね……っていうか流す動画間違えちゃった。お姉ちゃんのあんな姿、見たくないよね。タクシーで靴脱いで、自分の足の匂い嗅いで喜んでるとこなんてさ」
「……いや、素晴らしい」
俺は思わず感嘆の声を漏らしていた。
「……えっ……今なんて?」
「感動したよ、彩河さん。この映像は、生命の神秘そのものだ」
俺は椅子から立ち上がり、窓の外の玲瓏館を見上げながら熱弁を振るう。
「野生動物が自らの縄張りをマーキングで確認するように、彼女は自らの体臭を確認することで、アイリちゃんという個の輪郭を再定義しているんだよ。過酷なステージを終え、虚構から現実へと着陸するための、あまりにも神聖な儀式……!」
彩河さんが口を半開きにして、ポカンとしている。普段のクールな仮面が剥がれ落ち、純粋な困惑が顔に張り付いていた。
「……ね、キミ……本気で言ってる?」
「大真面目だよ。むしろ、その『臭い』という感覚すら、彼女が生きている証として尊い。フローラルヘヴンの香りと混ざり合ったそれは、もはや一種のアロマテラピー効果を持つと言っても過言ではないね」
「要約すると?」
「アイリちゃんの足が臭いなんてありえないよ」
「……うわ」
汐理が一歩、明確に引いた。 彼女の瞳に関わってはいけないモノを見る憐憫の色が浮かぶ。
「や……わっ、わかったわかった。キミがそこまでの重症だとは思わなかったよ……計算違い」
彼女はスマホをポケットにしまい、深いため息をついた。
「とりあえず……私がお姉ちゃんの妹だってことは信じてくれる?」
「うん。まぁ……俺からしたら妹の姉がアイリちゃんって感じだけどね」
「ふふっ。それはちょっとうれしい」
「なっ……なんで?」
彩河さんは俺を指差してクールに笑う。
「キミには、まだ早いかもね。ね、もしかしてアイドルはオナラしないとか信じてるタイプ?」
「え? そうなんじゃないの? 可愛い女の子は皆、腸内で圧搾しきるからオナラも大便もしないんじゃないの?」
俺が持論を述べると、彩河さんの顔が固まる。
「やっぱり……ふふっ。君、面白いね」
「そっ……そうかな……?」
「ん。すごくいいよ、その発想。だけどね――」
彩河さんがほとんど俺に密着するくらいまで距離を詰めてくる。
「アイドルでもそうじゃなくても、本物はもっと汚いよ? 無修正は特に、ね」
「えっ……えぇと……」
「だから、見せてあげるよ。お姉ちゃんのオフショット。ここで。たまに」
「いっ……いいの!?」
「ふふっ。いいよ。それで少しでもキミが現実に戻ってきてくれるなら安いものだから」
俺の平穏なモブキャラとしての日常が終わり、何か得体の知れない「現実」という名の泥沼に、片足を踏み入れてしまった。
だが、不思議と不快ではなかった。
「じゃ、一ノ瀬くん。教室に戻ろ」
彩河さんは倉庫を開けると一人でスタスタと教室の方へ歩いていく。
「待ってよ。BPMが速すぎるって」
俺がそう言うと彩河さんが立ち止まって俺の方を振り向いた。
「ふふっ。お姉ちゃん達の持ち歌のテンポと同じだよ。どれでしょうか?」
「『隘路にアイロニー』でしょ?」
「わ、正解。ガチオタクじゃん」
俺は小走りで彼女を追いかけた。 窓の外では、玲瓏館の窓ガラスが日差しを反射して眩しく輝いていた。
―――――
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