第4章 もう一度、手をつなぐ

第18話

 その日、村田は定時きっかりに仕事を切り上げた。今日は、結理の手術日である。手術の終わる予定時刻の頃には落ち着きなくスマホの画面を何度も確認したが、病院からも誰からも連絡は無かった。無事に済んだということだろう。定時で上がって病室に直行すれば、麻酔も醒めて丁度良い頃合いになるはずだ。

 恒例になりつつある焼き芋を買おうかと思案するが、さすがに外科手術後すぐには焼き芋を食べられないかもしれない。食べてはいけないのに良い匂いを嗅ぐのは辛かろうし、食べる元気も無いくらい気分が悪ければなお食べ物の匂いはまずいだろう。村田は焼き芋をやめて、病院に向かうことにした。

 約束していたとおり、村田は病室の前で扉を軽くノックした。はい、と思いのほかはっきりとした返事が聞こえる。村田がそっと中の様子を窺うと、結理が横たわったままこちらに手を振っていた。

「無事で良かった。」

 結理は顔色も悪くない。村田はほっと胸をなでおろした。体中から力が抜ける。便りが無いから大丈夫だろう、と自分に言い聞かせてはいたが、こうして会うまではやはり心配だった。杞憂に終わってみて、自分の肩にずっと余分な力が入っていたことに村田は気付いた。

 起き上がる元気は無さそうだが、結理はぽんぽんと布団の上から胸をたたいて見せた。

「あたりきしゃりき。大成功で、変な転移も無かったってお医者が言ってたよ。でも、おなか痛いわー。」

「鎮痛薬は?」

「飲まないよりはマシなんでしょうけどね。切腹だからねえ。」

 そうか、と村田はベッド脇の椅子に腰を掛けた。

「話をしていても、大丈夫?」

「明るい話ならね。あ、でもお笑いはやめてね。腹筋使うのは辛い。」

村田は頷いた。暗い話にはならないつもりだし、お笑いはもともと得意ではない。

 村田はポケットからスマホを出して、少し操作した。

「実は、食客が増えた。」

「へ?」

「ほら。」

村田はスマホの画面を結理に見せた。今朝、日の当たる窓辺でネコを撮影してきたのである。綿毛のような薄茶色の毛に陽が当たって、透けるように輝いている。青灰色の目がじっとカメラを見つめている。素人ながら、なかなか良く撮れていると村田は考えている。

 ぽかんとしていた結理も、スマホの画面を見て納得がいったようだった。くつくつと抑えた声で笑い、そして顔をしかめた。

「笑わせないでって言ったのに。」

「ごめん、ウケるとは思わなかった。でも、いいだろ、これ。」

「きちゃない。」

 パシッと言い切られ、村田は少ししょげた。確かに、まだ顔が禿げているから見た目は芳しくない。

「でも、可愛い。」

「そうか、良かった。」

 村田はネコを拾った経緯を話した。と言っても、拾ってからの日は浅い。それほどネコについて語ることを持ち合わせているわけではない。名前は、同僚が一生懸命考えてくれたものだと説明した。嘘ではないだろう。

「多い、夢、と書いて、たむ。」

「漢字なんだ。響きも可愛いし、いい名前だね。」

 これだけ褒めてもらえたのだから、ネコの名前に使われたって文句はあるまい。村田は心の中で改めて萩野に礼を言った。

「でも、意外だな。あなたが動物を拾って飼うなんて。」

「うん。二度も会ったら、さすがに見殺しにはできなかった。ただ、拾っても、すぐに里親に出しちゃうつもりだったよ。」

 そうだろうね、と結理は頷いた。村田の性格からして、余分な責任を負うのを避けるであろうことは結理にもよく分かっている。

 村田は苦笑して、だけど、と続けた。

「今は、ちゃんと自分で飼おうと思ってる。」

「そうなんだ。情が移っちゃったの?」

「いや、必要とされるもの悪くないかもって思っただけ。ネコなら、何とかなるかもしれない。」

 人の期待を背負うのは重すぎるが、ネコならば勝手に生きてくれる。人に期待したり、失望したり、嘘をついたり、取り繕ったり、自分を殺して尽くしたりはしない。逆に、人も、ネコに何かを求めはしない。ネコが村田を必要とするのは、生きるための食べ物と寝床が欲しいからというだけだ。それくらいの関係ならば、そばにいても良い気がした。

 結理はふうんと鼻を鳴らして、村田をじっと見つめた。

「私はネコじゃないから、あなたを必要としても一緒にいてくれないの?」

 村田は答えに詰まって、結理の視線を避けるようにうつむいた。

 考えなかったわけではない。村田に子どもを作れないが故に離縁したのだから、結理もまた子を為せなくなった今、別れて暮らす理由は無い。だが、それを言い出すと、別れたのが村田のわがままではなく、結理に原因があったかのような物言いになってしまう。結理が子どもを欲しがったから意を酌んで別れてやったのに、結局ダメだったのか、それでも五年頑張ったんだからもう気が済んだだろう?今、復縁を提案したら、そう聞こえるではないか。そればかりか、「お前はもう子どもを産めないのだ」という現実を突きつけて、傷をえぐることになる。子を為せない者同士で傷をなめ合おうとでも言うのか。そんな、結理の尊厳を傷つけるようなことを言いたくはなかった。

 村田が黙りこくっているので、結理は眉を八の字にして、長いため息をついた。

「まあ、いいや。あなたじゃないけど、いろんなことを諦めないと生きていけないものね。」

 村田は顔を上げて、呟いた。

「君には僕が必要なのか?」

強いて諦めなければならないほどに。

 村田の顔を眺めて、結理は無理に押し付けたような平板な声を出した。

「どうしてそんなに意外そうな顔をするの?」

「僕に、君から求められて応えられるものがあると思っていなかったから。」

結理は再び深いため息をついた。黙ったまま、顔を天井に向けてゆっくり目を閉じる。

 明るい話だけをするつもりだったのに、結局、結理にとって快くない会話になってしまった。これ以上術後の身体に負担を掛けたくはない。村田は早々に帰ることに決めた。

「ごめん、何だか嫌な思いをさせたみたいだ。もう帰るよ。」

 村田の言葉に、結理は目を開いて村田に顔を向けた。ベッドの中から手を伸ばして、村田の膝の上の手に重ねる。

「ちゃんと握って。」

村田は言われるがままに、結理の手を握った。

「冷たい手だねえ。」

「外は寒かったから。」

結理の手はしっとりとして温かい。村田の手に温みが十分に移った頃、結理は手を離した。

「退院の時もちゃんと来てね。たむちゃんの写真と一緒に。」

「うん、分かった。」

村田は温かくなった手を結理に向かって振って、病室を後にした。

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