第16話
萩野はつまらなそうに軽く顔しかめたが、すぐににやにやと笑いだした。
「そうだ、村田さん。俺はちゃんとペンネームを考えてきたぞ。」
要らないと言っているのに、と村田は断りかけたが、萩野の考えたペンネームが気になった。萩野はマグカップを置くと、胸ポケットからメモ用紙とペンを取り出し、さらさらと書き綴った。村田が渡されたメモを見ると、田村多夢、とあった。
「…たむらたむ?これ、む・ら・たをこねくり回しただけじゃないですか。」
意外と普通なのか、思っていたより捻ってあるのか、何とも判断が付かない。萩野はぐふふと含み笑いをした。
「村田さんは恥ずかしがり屋だからさ、正体不明にしたんだけど、村田テイストも残したくて。苦労したぜ。」
「それはどうもご苦労様でした。でも、使いませんから。」
村田はそっけなくメモを返そうとした。そこで、ふとある考えが頭に浮かぶ。
「そうか、これにしよう。」
一旦差し出したメモを、村田は引っ込めた。萩野が嬉しそうな声を出す。
「何だ、使う気になったか。」
「はい、ネコの名前にします。たむ。」
ええー、と萩野がのけぞる。俺はネコの名前を一生懸命考えたわけじゃないぞ、と抗議するが、村田は意に介さない。天から名前が降ってきて、ラッキーというところだ。村田はにこにこして萩野に礼を言い、田村の部分をペンで塗り潰した。そのまま加藤の席まで行き、事の次第を報告する。
「萩野さんが名前を考えてくれましてね。」
「多夢、たむちゃん。あら、可愛い。萩野君、意外とセンスいいじゃない。」
「俺はネコの名前を考えたわけじゃないんですよ、加藤さん。」
情けない顔をして、萩野がぼやく。
「イヌかウサギのつもりだった?まあ、いいじゃないの、あなたの創り出した作品が世に出て活躍していくんだから。」
物は言い様だ、と村田は感心する。萩野は加藤に言いくるめられて、コーヒーとともに自席に戻っていった。
もしかしたら、萩野はまた懲りずに別のペンネームをひねり出してくるかもしれない、と村田は考える。だが、それはそれで面白い。村田は一人で頷いて、鳴り出した電話の受話器をさっと取り上げた。
「村田さん、お世話になります、柴山です。」
くだんのコミュニティ雑誌からの電話であった。何とタイミングの良いことか、と独り言を言いそうになって、村田は咳払いでごまかした。
読者投稿を記事にした紙面の感想を聞かれ、村田は正直に良いできばえだったと答えた。家に帰ってからじっくり読んでみたが、思っていた以上に面白かった。同じ組織に属するのでもなく、家族や友達でもなく、てんでばらばらな人たちが記事を書いているので、視点が多様になる。それでいて、読者投稿のような書きっぱなしではなく、それなりに調査も重ねた内容になっており、読みごたえもそこそこにある。文体や調子がそろえられているのは、柴山達編集員が一体感を出すために腕を振るったのだろう。
柴山は、ネット以外の出典を明示して記事を作成するように依頼してある、と言う。
「ネット記事の孫引きだったら、スマホでまとめサイトを見れば十分ですからね。」
確かにそのとおりだ。紙面に奥行きが出ているのも、柴山の指示が効いているためかもしれない。
「それで、村田さん、どうですか。ご一筆。」
「すみません、お断りします。」
村田はあっさりと断った。
「どうしても、ダメですか。」
ひどく残念そうな柴山の声を聞いて、村田は首を傾げる。
「柴山さんは、なぜそこまで私にこだわるのですか?今回の紙面を拝見して、私でなくとも素晴らしい記事を書かれる方がたくさんいらっしゃることはよく分かりましたよ。」
「それはもちろん、私が村田さんのファンだからです。」
柴山の答えに、村田は返す言葉を失った。想定の範囲から逸脱し過ぎた答えだ。こうして電話のやり取りはするが、柴山には会ったことも無いはずだ。柴山にこれまで渡した原稿も、大したものは無い。映画の男女が突然恋に落ちるのとは話が違うのだから、ファンになる要素が全く思い当たらない。
「村田さん、私と大学が同じなんですよ。」
「そうなんですか。」
「私は校内誌を作るサークルだったんです。古いデータを見ていたら、村田さんの名前がありまして。お友達に頼まれて寄稿されたんじゃありませんか。」
あまり読む人のいない校内誌をせっせと作るサークルに、友人がいた。学内の裏情報半分、文芸色半分、という構成で、文芸部で生真面目な純文学の同人誌を作るほどではないが文章を書き散らかしたい、という学生が文面を作っていた。SFもロマンスもミステリーも何でもありだったが、一番の悩みは、寄稿者がどんどん減っているということだった。学食を一週間おごるよ、との友人の甘言に惑わされ、村田も随筆のようなものを寄せたたことがある。結局、一週間ずっと素うどんしかおごってもらえず、全く割に合わなかった。
あいつめ、と苦笑いして、ふと村田は少し前のことを思い出した。実家から転送されてきた郵便物に、あいつからの結婚報告の葉書が紛れ込んでいたのだ。恥ずかしげもなくピンクのハートマークに囲われた男女の写真を見て、あいつも人の子であったか、と妙に感心したものだ。
「そういえば、柴山さん、最近ご結婚されたとおっしゃっていましたね。」
まさかと思いながら村田が尋ねると、柴山は笑って答えた。
「はい。村田さんの心当たりの柴山が、私の夫です。覚えておられましたか。」
その素うどんの友人の名が、柴山だった。
「ああ、そうですか。」
「そうなんです。不思議と、縁ってつながるものですよね。」
そうかもしれない。いつ自分が消えてなくなっても誰も困らない、と思って生きている村田でも、知らぬ間に誰かとつながっている。自分が思っている以上に、世界に与えている影響は大きいのかもしれない。少なくとも、ゼロではないらしい。
「それで、村田さんの文章を読む機会が私にはあったわけです。学生の頃に、この人の文章が好きだなって思って名前を覚えておいたら、ひょんなところで同じ名前をお見かけしたから、もしやと思ったんです。夫に確認したら、大当たりでした。」
あいつめ、と村田は再度胸の内で呟く。
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