第2話

 村田が結理と離縁してから移り住んだ自宅は、駅から遠く、築年数が五十年以上になる、単身者用の木造アパートだ。さすがにトイレは水洗だが、和式便器にかぶせ物をして座れるように改造してあるタイプだ。築年数にふさわしい、掃除ではぬぐえない臭いもある。家具や家電も大して置いていない。本棚が欲しいと思ったこともあったが、本を捨てることができない性分なので、本と本棚を買うのをやめた。おかげで、一Kの割には広く感じる。

 村田は湯を沸かして、ティーバッグのほうじ茶を淹れた。病院のお茶とは違って、色も香りも味もある。全身でほうじ茶を主張しているお茶だ。何だかんだで、やはりこちらが旨いと村田は思う。そう思うということは、自分はまだ健康だということなのかもしれない。


 次の日は月曜日だった。その次の日は火曜日だった。その次の日は水曜日だった。そうやって、村田は毎日を過ごした。朝起きて会社に行き、益体もない電話の相手をしたりつまらない書類を作成したり、合間には同僚と他愛もない会話をして、夜には帰って寝る。残業をする日もあるし、早く帰る日もあるが、概ね毎日に変化はない。辛くも楽しくもない。テレビやラジオから流れてくる音と同じで、何も残さずにただ過ぎていくだけだ。

 ただ、結理を見舞ってからというもの、村田は帰宅した時の家の暗さが気になるようになった。結理と結婚する前も、離縁した後も、村田は一人暮らしだったが、そんな気持ちになったことはなかった。自分の心境の変化に首を傾げつつも、村田は週末に家電量販店でLEDの小さな照明を買ってきて、常時玄関を照らしておくことにした。帰ってきた時にちっぽけな明かりが灯っているだけでも、少し心が温かくなるから不思議だ。


「おーい、お茶。」

 ある日、誰にともなく呟いて、村田は職場の給湯室に向かった。役職者でも平社員でも、女でも男でも、自分のお茶は自分で淹れるものである。どれほど愛らしく若い娘であっても、お茶くみやコピー取りをするだけの社員を雇っておくゆとりはもはや日本中のどこにも無いのだ。そんな見世物を置いておくくらいなら、ごく普通に仕事のできる人間が欲しい。村田の属する会社でも、どこの部署も常に人員増を人事部に訴えている。そして、その願いが叶うことはほとんど無い。

 大きなマグカップに熱湯を注ぎ、ティーバッグのほうじ茶を沈める。ふと思い立って、ほとんど色の出ないうちにティーバッグを上げてみた。色合いは限りなく薄く、その儚いお茶っぷりは病院のお茶をほうふつとさせた。しかし、試しにすすってみると、意外と風味がある。村田はティーバッグを湯に戻し入れ、うーんと腕を組んだ。

「どうしたんだ、村田さん。随分と悩ましげじゃないか。」

「ああ、荻野さん。別に、大したことじゃないですよ。」

 荻野は年齢も入社も少し上の先輩である。先輩ではあるが、上司ではない。本人に上昇志向というものがまるで無いからだ。どう見ても余裕綽々で過ごしているのに、自分で手いっぱいだから他人の管理までしていられない、とうそぶいている。しかし、誰とでも気さくに会話ができるという得難い長所を持っている。

「病院で入院患者が飲むお茶、あれはどうやってあの味になっているんですかね。」

「え?ああ、それで薄いほうじ茶を試していたってわけか。」

 村田は頷く。

「年寄りから子どもまで、体の弱った人が飲むんだから、カフェインレスだよな。となると、ほうじ茶ではない。麦茶の薄ういものじゃないか。コスト的にも、麦茶が安いし。」

「なるほど。」

「あのお茶は、ほんのりいいよな。何というか、村田さんに似ているよ。」

 突然自分とあのお茶を比較され、村田はかなり驚いた。危うく、手にしていたお茶をこぼすところだった。

「どうしてですか。」

「ちょっといいところかな。大分じゃなくて、ちょっと。」

褒めているのかけなしているのか判然としない。

 村田の宙ぶらりんな気持ちをよそに、萩野は共用の冷蔵庫から彼のアーモンドチョコを取り出して、一粒小気味よく噛み砕いた。

「まあ、概ね褒めてるって思ってくれればいいよ。」

 出世コースからは大きく外れ、上司の覚えもめでたくない。しかし、村田の見るところ、萩野は観察眼の鋭い男だ。誰とでも気兼ねなく会話し、情報を得て、相手がどんな人間であるのかを厳しく見極めている。よく理解している。出世街道を歩く者と違うのは、観察から得た情報を自分の昇進のために便利に使おうとしないことだ。

 そんな萩野から概ねとは言え褒められたのは喜ぶべきことなのだろう、どちらかと言えば。

「ほい、チョコレート。」

 村田は礼を言い、差し出された箱から一粒チョコレートを摘まんで口に放り込んだ。美味しい。アーモンドの歯ごたえと香ばしさ、チョコレートの粘度の高い甘さ。お互いの主張が強いのに、よく融合している。この組み合わせを考えた人は、実に賢い。

「村田さんは美味しそうに食べるよな。ある意味、それも長所だよ。お菓子をあげたくなる。」

「餌付けされて、太らされるばっかりじゃないですか。」

「そんなカリカリの体形でよく言うよ。そういうセリフは、落合課長みたいになってから言ってくれ。」

 村田の背丈は平均より少し高い程度だが、ズボンもシャツも男性用品の最も細いサイズでさえ緩いくらいに痩せている。都市で生活を送るのに最低限必要な筋肉だけを身にまとって、他のものは一切彼には寄り付かないようだ。この体形は幼い頃から変わらない。

 それに対し、落合課長は背の低い肥満体だった。それも、かなり重度の肥満である。腹に巻けるベルトが見つからないので、スラックスはサスペンダーで吊っている。階段で足を踏み外してもゴムまりのように弾んで転がるだろうとか、包丁を刺しても脂肪の層を貫けないだろうとか、部下の間では頻繁に暗い冗談の対象にされる。保持している質量に比例するかのように肥大した自尊心と、それによる自己中心的な振る舞いは、部下からの信頼を損ねるのに十分過ぎるものだった。

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