愛情は恐怖を超越するか?~ある夏の親子の場合~

長月透子

愛情は恐怖を超越するか? ある夏の夜の親子の場合

 人間、誰しも苦手なものがある。

 私の場合は、虫。娘の場合も、虫。息子の場合も、虫。

 男の子なら、虫が得意。そんなステレオタイプな母の希望を、息子は、あっさりと粉砕した。一定以上の大きさの虫が出ると、すすーっと自分の部屋に去っていってしまう。

 娘は、もっとひどい。小さな小さな羽虫に出会っただけで、まるでお地蔵さんのように固まる。ひどいときは、泣き出したりする。

 考えてみれば、母親がワーワーキャーキャー言って逃げるのだから、子どもたちだってそりゃもう虫を怖くて嫌なものだと学習するのは当然だ。これはひとえに私の責任である。


 そして、唯一虫を排除できる夫がいないとき、奴らは好き勝手に飛び回り、私たち無力な人類は逃げ惑うしかないのである。


 娘が小学校高学年だった頃の話だ。理科の宿題に、月の観察をするというものがあった。 夏の夜に、時間と方角、見える角度を観察して絵を書くというアレだ。汚れた大人としては、月の出の時間から角度を計算して、あるべき月を描けばよいのでは?と思わないでもなかったが、さすがに言葉にするのは控えた。学校の宿題、ちゃんとやらないと駄目だよね!


 ところで我が家はマンションである。そこそこ都会に建っている。しかし、マンションの足元には木がいっぱい茂っていて…、何が言いたいかわかるだろうか?

 夏になると、出るのである。アレが。Gではない。夏の風物詩。重量級の……セミが!!


 その夜、宿題をサボりたがる娘を説得して、私は玄関から外に出た。何気なく。 途端に耳を襲う重低音。総毛立つような振動と、目の前を猛スピードで乱舞する何か。私は絶叫した。直後、背中でドアが閉まった。ガチャリ。鍵までかかった。私はもういちど絶叫した。


 お分かりだろうか? 後に続くはずだった娘は、私の悲鳴を聞いて、無情にもドアを閉めたのである!あまつさえ、鍵まで閉めて、私の脱出路を絶った!


 パニックになっていると思われるセミ。パニックになっている私。猛スピードで飛び続ける黒い物体。怖気の走る重低音!


 鍵もなくスマホもなく、哀れな母親は悲鳴を上げながら、玄関にすがりついた。開けてー! と叫んだ。しかし、セミを家に入れるというわずかの危険も許容できない娘は母を見捨てた。全く愛情深い娘である。


 パニック映画のような一幕を救ってくれたのは、近所の方の善意だった。 きっと、悲鳴があがってて、何事かと思ったのだろう……その方は、あっさりとセミを追い払ってくださった。なんと親切な方か。ありがたやありがたや。マジで後光が見えたものである。


 そして、娘はセミがいなくなったことをチャイム越しに知るまでドアを開けてくれなかった。本当に(再)。

 もちろん、家の中にいた息子も助けには来てくれなかった。頼りになる息子である。かなしい。


 かくして娘の理科の宿題のために、母は多大なるストレスを支払うことになったのである。宿題は、結局、私がスマホで夜空を撮って、家の中で写真を参考に絵を描かかせた。これも観察には違いない、うん。そもそも、この宿題に、何の意味があるのかなんて、考えてはいけないのだ!


 この事件からずいぶん経った今も、娘は虫が大嫌いだ。今年なんて、セ○ノックとゴ○ジェットを持ち歩いてもいい? と言い出した。


 虫嫌いとして、娘の気持ちはすごく分かる。夏。エレベーターに乗り込んだセミは最悪である。カナブンみたいにじっとしていればいいものを、あのクソ狭い空間で、すぐにブンブン飛び回る。


 私は、以前、殺虫スプレーを手にしてマンションのエレベーターに乗ってきた方を見たことがある。乗り込むときもものすごく腰が引けていて、こわごわとエレベーターの天井を覗き込んでいた。


 その方と、セミがいると嫌ですよね、と会話しつつも、私の視線はスプレーに釘付けだった。まさか、虫がいたら、噴射するつもりだったの? この狭い空間で? 私も乗ってるのに???


 娘もそんな風になるのだと思うと、ちょっとおかしい。いや、やめて。お願いだから、誰もいないときに使ってね?

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