68.目を覚ました先

「ここ、は……」


 瑞々しい緑の匂いでラズールは目を覚ます。どう進んだのかはわからなかった。ただ水路を進むと、次第に水嵩は増し、そして顔まで埋もれるほどになり、それでも進むといきなり流されて、そうしてここにたどり着いた。

 

 ラズールは、周囲を見渡して驚く。鮮やかな緑の絨毯のような芝生。そして、小高い丘には凸凹した岩が立ち並び、背後には透明な水を湛えた沢がある。


「見えて……る?」


 ハッと顔をこわばらせて、ラズールは抱きしめたままのシャーラを芝生に寝かせる。


 まるで眠っているかのように、穏やかな顔つきのシャーラ。動かない、皮膚も冷たい。

 ラズールはシャーラの頬に触れて、愛おしげに見下ろす。なぜか頬も唇も赤みが戻っているかのよう、温かそうだ。


 シャーラの硬く握りしめた拳を包み込む。何を握っているのか、まるで赤ん坊が拳を必死で握りしめているみたいだ。


 指で、シャーラの唇をなぞる。

 この唇に、何度も口づけした。

 何度しても、足りなかった。きっと足りることなんてない、これからもずっと。


「――ずっと、好きだ」


 ――唇を重ねる。


 顔を上げて、小高い丘を見上げる。ここは、イラムなのだろうか、それともシャーラが来た都か。ただ風化しつつある巨石が並ぶばかりで、住居らしき建物さえない。


 指でなぞったシャーラの唇は暖かい気がした。

 ラズールは眉を寄せて、何かを感じて顔を上げる。


 視線の先に、白い服の女性が佇んでいた。目を見開いたラズールに女性が指を伸ばす。 


 その指し示す先は、地面のシャーラ。もう一度シャーラを見下ろすと、わずかに開いた唇が震えている。


「シャーラ?」


(まさか……)


 ラズールはシャーラを見つめて、それから慌てて彼女に手を伸ばす。肩に手を触れて揺すろうと伸ばした手を、一度息を吐いて気を落ち着けて、そっと触れる。


「……シャーラ?」 


 半信半疑、だった。けれど、間違いなくシャーラの華奢な胸が、上下している。


「シャーラ? おい?」


 肩を揺すると、突然シャーラが咳き込む。まるで幽霊を見たかのような気分で、でも必死で横を向かせ、背中をさする。まだ血の気が薄い唇が、息をケホッと吐き出す。


 ……生きて、いる?


「っ、シャーラ、シャーラ!!」

「……?」


 生理的に出た涙を浮かべて、潤んだ銀色の瞳が、ラズールを見返す。


「ラ……ズール……?」 


 することは、ただ一つだけだ。



 ――抱きしめる。


 シャーラを強く胸に抱きしめる、何がどうなったのかなんてどうでもいい。何でもいい。魔神の仕業で、この後何が待っていてもいい。何の代償を求められてもいい、ただ、本当に、シャーラがいれば。


 ラズールは一度シャーラを離して、見つめ返す。

 手の平に伝わる感触、確かに胸が動き、目がラズールを見つめている。幻でも、白昼夢でもない。

 

 シャーラは生きて、ここにいる。

 

 そのシャーラがラズールに手を伸ばして、そっと頬に触れる。案じる眼差しだ。


「ラズール、目は見えているの?」

「ああ、確かに」


 シャーラがどうして自分が目を失ったことを知っているのか、と思ったが、シャーラの手が目に伸ばされるから、目を閉じて瞼に触れるままにされる。


「ラズール、目の色が――変わっているの」


 ラズールは瞼をあけて、再度シャーラを見つめ返す。

 視界は全く変わりがない、シャーラの銀の瞳、銀の髪も、可愛らしい顔もそのままだ。


「茶色に……みえるわ。瞳の色が」


 ラズールは首をかしげて、困惑して困ったような顔のシャーラに手を伸ばす。


「どうでもいい、シャーラが見えれば」


 ラズールはただ子供のように微笑んで、シャーラを抱きしめて、その胸に顔を埋めて深く息を吸う。


「どうでも、よく……ない。だって――」

「いいんだ、見えてる。アンタが、それだけでいいだろ」

「そう、ね」


 シャーラは唇をかみ締めてラズールの頭を見下ろし、手を伸ばして抱きしめ返そうとして、手の平を広げる。


 その手の中には、銀製の表裏一面に文様が刻まれた古めかしい指輪があった。


「ラズール、これ」


ラズールは顔をゆるりと億劫そうにあげて、それから指輪を手に取る。その目が驚愕に見開かれる。


「アミナさんに会ったの。アミナさんは……あなたを憎んでもいないし、とても思っていた。これをあなたに託されたの。そして目も」


「アミナが……?」

「アミナさんの目の色、だわ」


 ラズールが、半信半疑でそっと手を上げると、シャーラがその手を包んでラズールの瞼に触れさせてくる。わからないが、そうなのかもしれない。


「そして、ビルキース姉さまが私を助けてくれた」

「ビルキース? 誰だ?」

 

 シャーラからでてくる名前は思い当たらない。よくある名前だ。

 ただシャーラが生きて、口を開く。それだけで満足だ。


「黒髪のオリーブ色の肌の姫様。ビルキース姉さんが、門を作ったの。私達を逃がすためにずっと、見守っていてくれたのね」

「黒髪でオリーブ色の肌? バシャマか?」

「え?」

「予言者バシャマ。アンタがあらわれると予言した女だ。最後に会ってから行方不明だ」

 

 それどころか、周囲に聞いてもそんな店も女も知らないという。

 彼女の思いが姿をとり、時をかけてきたのか。


 シャーラの守り手だったのであれば、救うようにラズールをけしかけたのもわかる。むしろ、バシャマに選ばれたのだとわかり、ラズールは礼を言いたい気分だった。

 

 だが、彼女はもう二度と姿を見せないだろう。


 そういえばとラズールは、周囲を見渡す。


 いつの間にか白い服の女性は消えていた。目を眇めたラズールは、ハッと慌てる。これまでの呆けていた顔から一転、険しい顔でシャーラの腰を掴んで、後ろを向かせる。


「ラズール、なに!?」


 ラズールはシャーラの混乱の声を無視し、躊躇なく彼女の濡れて張り付いた衣装を引き摺り下ろす。そして白い肌を見つめる。


「消えた……」

「え?」


 そこには、蕾も、花も、数字も、模様などなかったかのように、ただ雪のように白く透き通る肌があるだけだった。


「『――魔王の印は死ぬまで、なくならない』」

「え」


 ラズールが再度シャーラを抱きしめて、肩に顔を載せる。

 甘えた仕草に、シャーラが顔を赤らめる。


「やっぱり、アンタは一度……死んだのか? だから花押トゥーラが消えたのか」


 シャーラは考え込むようにしばらく黙った後、いいえ、と首をふった。


「たぶん、私は解放されたの。もう王様は大丈夫よ、ビルキースお姉さまがそばにいる」

「そいつの名は……?」

「名前? 王様の? わからないわ」


 キョトンと首を傾げるシャーラ。

 魔神の名前を知ることは一定の拘束力が働くから、駆け引きに有利になる。

 まだシャーラの呪いが解けていないときのことを考えて、名を知っておきたいと思うラズールだが、彼女は終わったことだと朗らかに笑う。


「魔神はいなくなったわ。王様から追い払われたの。だからいいのよ」


 ラズールも息をついて、それから苦笑した。

 シャーラの笑みで、不思議と気分は晴れやかだ。

 多分、本当に大丈夫なのだろう。終わったのだろう。


「そうだな……シャーラ。――それにしても」


 ラズールはシャーラの肩越しに、目の前の緑色の芝生を見つめる。


「ここは、どこ――」

「――お前たち、誰だ!」


 鋭くも甲高い声が響いた。



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