第5話 仮初めの平穏の中
孤児院の朝は早い。外光の入らない教会の中で、今が朝なのか夜なのかを知る術は、至る所に置かれた時計しか存在しない。
部屋に置かれた目覚まし時計は六時半を示している。部屋の外の物音に身体を起こして、アプリコとレドは部屋を出た。
「レド、途中から何も喋らなくなったね」
「スリープモードにしてた」
「へえ、なんで?」
「オマエが一晩中喋り続けてうるさすぎるからだよ……」
子ども達は、朝食に湿気たシリアルと缶詰の野菜少しを口にして、「お仕事」を始める。各自教会の部屋に向かい、そこで毎日の生活に必要な電力の発電をしたり、部屋や設備の清掃を行ったりするのである。
それぞれに課されたノルマを達成すれば、あとは自由時間。だから子ども達は存分に遊ぶために、さっさと「お仕事」を済まそうと奔走している。
「これもスレイトが作ったのかい?」
「あはは、好きの延長だよ。戦争がなかったら、もっとこういう事勉強できる大学に行きたかったのよね〜わたし!」
電力を節約する為に薄暗い部屋の中、何本ものコードに繋がれた自転車を、数人の子ども達が必死に漕いでいる。部屋の窓の調整をしながら、スレイトは少し照れながら笑った。
教会の電力は、子ども達の「お仕事」と、屋根に取り付けられた太陽光発電で賄っているらしい。ただし、子ども達の体力は有限だし、天気の悪い日はどうしても電力が足りず、仕方なく電池を調達して懐中電灯で過ごす日もあるという。
水道が止まったこの街では水も貴重で、排水を処理して再利用できるようスレイトが設備を整え、彼女と子ども達は何とか命を繋いでいる。
「ま、わたしもこの孤児院育ちで、ここの人たちに恩もあったから、こうやってシスターになったことに後悔はないけどねえ」
「へえ、ところでスレイト! あとでこの構造を見せてもらってもいいかな。この『天才』アプリコが、より良く動くよう教えてあげよう!」
「えーっ、いいの⁉︎ 知りたい知りたい!」
ドンと胸を張るアプリコとはしゃぐスレイトを見ながら、レドは何とも言えない顔をした。
子ども達が「お仕事」に勤しむ間、スレイトは教会の全ての窓と扉を確認する。外れかけたネジを締め直し、錆びたパーツを新しく取り換える。毎日、内と外から細やかに確認を行い、中と外界の遮断を維持している。
そうしてそれが終われば、完全防護で教会の外に出て、その日の食材を確保しに出て行くのだ。
「ねーアプリコさんたちって、外から来たんでしょ? 外って今どんななのー?」
「お仕事」を終えて図書室で本を広げる子どもは、アプリコの顔を見上げて首を傾げた。純粋な問いに、少女は思わず口籠る。彼女の脳裏にスレイトの言葉が浮かぶ。
子ども達に、教会の外のことを伝えてはならない――それは彼らの絶望を誘い、好奇心を誘い、紙一重で成り立っている安全な生活の破滅を招くからだ。
「外? えーっと、うーん、霧がすごくってよく分かんなかったかなあ」
「あ! 毒霧でしょ? 吸ったら死んじゃうんでしょ? アプリコさんたちは不死身だから死なないんだ、いいなー」
「そ……そう!」
わざとらしいくらいに目を逸らして、ぎこちない声色で話すアプリコに、幸い特に違和感を抱くこともなく子どもは目をきらきらさせる。
ほっと安堵の息を吐く彼女の背後で、ハラハラしながらやり取りを聞いていたレドは、緊張と疲弊で少しやつれて見えるくらいだった。
アプリコたちは図書室で子ども達と本を読み漁り、ホールで身体を動かして遊び、リビングルームでボードゲームを楽しんだ。夕方に教会に戻ったスレイトを出迎え、夕食の準備を手伝い、そして二日目の夜が巡ってきた。
「――そういえば、スレイトたちはいつまでこの生活を続けるんだい?」
薄暗い部屋の中、スレイトの作った発電機の構造について話をしている中で、ふとアプリコがそう切り出した。
「……アプリコ! オマエ……」
「あ、いいのいいの! レドくん、気にしないで! それについては、わたしも困ってるところだし……」
「街から食料を掻き集めたって、有限だよね。無くなった後、どうするんだろうって」
相変わらず人間の心に無頓着な言葉を述べる少女に、レドはきつい口調で諫めるが、当のスレイトは穏やかに笑っていた。ふわりと笑顔を浮かべているものの、その表情には苦渋が滲んでおり、眉を下げて困ったように目を伏せる。
「街の外には行けないの?」
「うう~ん、まず街にはあの化け物がいるし、それが何とかできても、壁がね……あの近くは特に霧が濃いし化け物も多くて……」
「壁に出入り口もなかったしな」
彼女の顔をじっと見つめて、アプリコはふと思い立ったように呟いた。赤い瞳とばちりと目が合って、スレイトは何度か瞬きをする。そして、困ったように唸り声を上げた。
霧、化け物、壁――この教会から一歩外に出るだけで身の安全の保障は無く、数々の災難が降り注ぐ。日々生きることに必死な彼女たちは、その現実を前にして、最終的な問題を先送りにしていた。
「壁なら、登れば越えられるよ! ボクらもそうしてこの街に来たし」
「の、登るったってねえ……あの高さを越えるのは難しいかな……子ども達なら尚更……」
「それなら、ボクらがキミ達を運んで壁を登ろうじゃない!」
どうも言い淀んでいるスレイトの心情などお構いなく、少女は溌剌とした口調で続ける。アプリコの提案に渋い表情を浮かべていた彼女だが、その前向きな言葉に揺さぶられるように徐々に顔色が変わっていく。
「でも、霧が濃いと……危ないし……」
「それは、ぴょーんとジャンプで飛び越えてしまえば一瞬だから、ちゃんと防護してれば大丈夫だよ!」
「……そう、なの? ほ、本当に……?」
「一度、スレイトだけでいいから試しにやってみようよ! ボクらがいれば、あの化け物だって怖くないし!」
狼狽えるスレイトに対し、アプリコの表情はキラキラして自信に満ち溢れていた。レドは俯いて、ふう、と息を吐いた。
レドは「人間の心を開くような言動をしろ」とは言ったが、アプリコの言葉はそういった意図ではない。媚びるための偽りの言葉ではない、彼女の本心の言葉だ。
少女は停滞を嫌った。停滞は死と同じなのだと、口癖のように語っていた。だからアプリコの言動は当然だった。
閉じ込められてただ仮初の平穏を維持しているだけ、そして文字通り死に向かっている彼らは、アプリコにとって変化すべき存在だった。その術を知らないのなら、この「天才」が教えてあげるべきじゃないか!
差し伸べられた手を見下ろして、スレイトは困惑したように目を伏せた。その胸中に渦巻くのは、期待、疑念、そして作り上げた日常から外れる恐怖――
「……分かった。明日、やってみたい!」
けれど、この停滞に未来はない。
わたしも子ども達も、生きる為には現実から逃げられない。
力強く答えるスレイトに、アプリコはニッと笑みを浮かべ、レドはその口元を緩めた。
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