第二章 最後の晩さん
第3話 壁に囲まれた街
辺り一面、見渡す限り白い景色。五メートル先の景色ですら、白く霞んではっきりと捉えられない。
霧掛かった街道を暫く進んだ先に、高い壁に囲まれた街がある。人気のない静かな道に、小さな人影が二つ。アプリコはかちかちと左手を触りながら、覚束ない足取りで歩いていた。
「うーん……あ、よし! こんなもんかな」
いじくり回した左手を前に突き出すと、真っ白い視界に四角い画面が投影される。地図といくつかの丸い点、沢山の数字が表示された画面を見ながら、少女は腰に手を当てた。
「これが、残りの生物の数か? 人間も思ったより残ってるな」
「これでも全盛期の十分の一より少ないし、どんどん減ってるみたい。ほら!」
「へえ……んで、そこの街は……ほぼ残ってないな」
画面が示す、生き物の残数――世界滅亡までのカウントダウンは、二人が思っていたよりは進んでいないようだ。とは言え大きく数を減らした人間は、目の前の壁の中には僅かな数しか表示されていない。
それならあの町に向かう意味ってあるのか……? 思わず口に出たレドの疑問に対し、アプリコは「楽園はすべての人間の願いを満たす世界なんだよ? そこに人間がいるのに、話を聞かないなんてとんでもない!」と答えるのだった。
「それにしても、変な霧だな~、少し採取しておこう。後で街に着いたらゆっくり成分分析でもしようっと!」
「……その肝心の街に入るのがなあ……一体どうなってんだ、この壁……」
その霧は通常でないくらいに濃く、異様な白さは街とその周囲を包み込んでいる。不明瞭な視界をなんとか進んで、ようやくたどり着いた先で、二人はその金属質な壁を見上げていた。
濃い霧に覆われた壁は、数メートル先すら見えないので、いったいこれがどれだけの高さなのか分からない。だから、まるで遥か上空、雲を貫くくらいに高いようにも感じられる。
ただ、二人を最も困惑させたのは、「出入口が存在していない」ことだった。
「これ、もう一周したよね? 門もドアも穴も、何もなかったねえ……」
二人は円形の壁の外周をぐるりと一周歩いてみたが、金属質の壁はただつるつるした壁面が続いているだけで、出入口もなければ継ぎ目もない。頬に手を添えて考えるアプリコは、少しの沈黙の後、顔を上げた。
「ま、仕方がないね! 登ればいっか」
「……それしかないだろうな」
そう言って、無機質な音と共に二人の両手両足は形を変えた。ぺたりと壁に手を貼り付けると、がしゃがしゃと音を立てて爬虫類のように壁を這い始めた。
少年と少女はギア――完璧な生命に、疲労や体力の限界など存在しない。がしゃがしゃと音を立てながらひたすら壁を登り、やがて最上部に到達するまでそう時間は掛からなかった。
壁の高さは思っていたより平凡で、さほど高くは無いようだった。壁の最上部から見下ろす二人の視界には、街全体が一望できている筈だ――この霧が無ければ。
当然だが、霧だらけの視界は真っ白で、街の中がどうなっているかは見当がつかない。ただ先程のアプリコの画面が示すように、人間はほとんど残っていない様子で、人気がないどころか物音すら聞こえない。
「……本当に、こんなところに人間がいるかね……」
仕方なく、また壁に張り付いて下っていく。霧に沈んでいる街に、ゆっくりと降下していく。
そうしてアプリコとレドは、閑散とした静かな町に降り立った。
「……あれ、街の中は思いの外霧が薄いね?」
人間のいない街を、地図上の点が最も多く集まっている方向へ進む。街の中に入ると幾分か視界は改善し、白く霞むが先の建物も見えていた。
白昼夢のようにぼんやりとした街の景色は、以前の「眠れる病」の街同様に廃れており、割れた窓ガラスと崩れかけた建造物や瓦礫が散らばっている。ただ、あの街と違って、匂いや空気から人間の営みがある事が全く感じ取れない。
そして明確に違っているのが、謎の生物がそこら中を徘徊しているということだ。
「こ、この街の人間は、こういう品種なのかな……?」
「そんなわけないだろ……それにしても気持ち悪い生き物だな……」
大人の腰くらいまでの背丈にずんぐりむっくりした四肢、顔には横長の細い目が縦に四つ、ぽっかりと空いた鼻腔と裂けるくらいに大きな口。ふらふらと彷徨うように歩き回るそれに、レドは嫌悪感を示す。
ただしそれらはアプリコたちに興味を示さず、向こうから近づいてくることもないのが彼にとっては救いであった。レドはその生き物を大層嫌がり、アプリコが近づいて調査しようとするのを断固阻止するくらいである。
「まあでも、恐らくこれは人間にとっては脅威なんだろうね。だから残りの人間の多くが一箇所に集まってるんだ」
アプリコは左手を差し出して、再度画面を確認する。いくつかの点が集まっている場所――既に視認できる距離にある一際大きな尖った建物へ、二人は歩みを進めていく。
静かな街に、二人の靴の音が響く。風の音と、生き物の足が地面に張り付いて離れるペタペタという気持ちの悪い音が聞こえる。レドが不快そうに表情を歪める――
「――!」
――瞬間、パララララ、と発砲音が響き渡った。
発砲音は断続的に続き、徐々に近づいてくる。即ち、この気持ち悪い生物以外の何者かがいるという事だ。二人は音に向かって早足で進み始めた。
「……あ! 人間発見!」
「⁉︎」
小走りで向かった先で、アプリコは黒い人影を視認する。長いスカートがふわりと揺れて、黒いベールが美しく靡いていて――たおやかなシルエットに似つかわしくない黒光りする銃火器を抱えたその人間は、少女と同様にこちらを視認して硬直していた。
その足元には潰れた生物の残骸が転がっている。
「ちょっと話を聞いてみよう! おーい!」
「! ……ッ、っ!」
手を振って駆け寄ろうとするアプリコに対し、黒いベールの人間はあたふたと周りを見回し、すっと手を前に突き出した。何か言っているようだが、よく見るとその顔はガスマスクとゴーグルで覆われていて声は聞こえない。
「……って……! い……、と……りな……ッ!」
「? 何か言ってる? ここからだと聞こえないな……」
くぐもってはっきりと聞こえない声に、首を傾げながら二人はその人間のもとへ走る。制止するような動きに反し、聞こえなければ意図が掴めない二人はどんどん近づいていく。
そしてその場に存在するのは、人間とギア二体だけではない。混乱する最中、まるで獲物を見つけた野生動物のように、生物たちは人間に群がっていく。それに気づいた黒いベールの人間は、慌てふためきながらガトリングガンの引き金を引いた。
「うわっ……キモ……ん? あれ、来るなって言ってるんじゃ……」
「おーい……え? うおっ」
震える手で放たれた散弾は生物の頭に命中し、身体をズタズタにし――すり抜けたいくつかが、アプリコの腹部に命中した。
「ひゃああああああああ‼︎ ああっ……こっ、こどっ……っ子ども撃っちゃった‼︎」
素っ頓狂な声を上げて、動転した女は腰を抜かしたように尻餅をついた。持っていた銃が手から滑り落ちて、重たい金属音が響き渡る。
しかし、少女の腹を撃ち抜いた時に聞こえたのは、随分と冷たく無機質な金属の音――少女は完璧な生命、不死の存在。当たり前だが、人間ごときの兵器では傷の一つもつくわけがない。
アプリコの足元に散らばる銃弾。腹部どころかその衣服すら、何一つ変わらぬ元の状態で堂々と立っている。気持ち程度についた砂埃を払うと、すっかり残骸だらけになった道を駆け足で女の元へ向かったを
「……はぇ……⁉︎ い、生きて……あれ、わたし、撃って……?」
「こんにちは、ボクはアプリコ! こっちはレド! ボクらは『楽園』からやってきたギアという不死の存在でね」
「あ……ええ……生きて……あれ……撃っちゃったよね……?」
「ボクらはこの世界が終わった後、楽園を作るんだ。その為に今は色んな街を回ってて……この街は一体どんな状況なの?」
アプリコの自信満々な自己紹介を、女はまるで聞いておらず、未だに腰を抜かしたまま脱力している。黒いゴーグルの奥のブルーの瞳は、驚きと困惑から震えて焦点が定まらない様子である。
「……アプリコ、聞こえてないみたいだぞ」
「ほへ……」
「あらら。どうしたらいいかなあ」
固まったままうわごとのようにぶつぶつ呟いている女を見下ろしながら、アプリコは困ったように腕を組む。レドは女をじっと見つめて、溜息を一つ吐いて、親指で少女を指差した。
「……あのさ、アンタ、こいつ一回撃ってみていいよ。死なないから」
「へ⁉︎ なっ、そんな……こ、こどっ、子どもを撃つなんて! 二回も!」
「ボクは平気だよ、どうぞ!」
ガスマスクの向こうから、くぐもった声が慄くのが聞こえる。ようやく意識を現実に戻した女だが、人間にはかなり無理がある提案に、ただ戸惑うことしかできていない。
平然とした様子の少年、胸に手を当ててどんと構えている少女。呆然とそれを眺めて、女は目を伏せた。
人間味のない提案。恐れを知らない赤い瞳。ぐるぐる回る思考の末、女は袖からもう一つの小型銃を取り出す。震える手で握って、少女の腹に照準を定めた。
「……ッ、うう……ええい、ままよ……っ!」
静かな街に、響き渡る発砲音――そして、少女の腹を撃ち抜いた弾丸は、コーン! と鉄琴を打ったみたいな小気味の良い音を奏でて、ぽとりと地面に落ちた。
勿論アプリコの腹に穴は空いていないし、その衣服の繊維の一つすら千切れることもない。彼女はにこりと歯を見せて笑った。
「ね? 分かったでしょ! ボクらは完璧な生命だからね」
キラキラと希望の溢れた笑顔を見上げて、少しの沈黙の後、女はホッとしたようにへにゃりと脱力した。
「……そ、そっか……なんだあ! 人間じゃないんだ、よかったあ……あなた達、無防備に素肌を晒してるから、わたしびっくりしちゃって」
吐息混じりの柔らかな声は安堵に満ちている。女は胸を撫で下ろしながら、ようやく力が入るようになった身体でゆっくりと立ち上がった。
「この街の大気……この霧に長く触れていると、あの化け物になっちゃうからね」
重たいガトリングガンをよいしょと持ち上げて、女はゴーグルの奥に柔らかな笑顔を湛えてそう言った。
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