ラクエンツイソウ

須賀雅木

プロローグ

楽園追放

 人々が暮らす世界から遠く遠く離れたところ。

 空の上でもなければ海の底でもなく、地中深くマグマの下でもない、遥か遠いところに、完璧な世界が存在していました。

 見えるもの全てが美しく、聞こえる音全てが調和していて、感じるもの全てが心地良く、全てが満たされていました。

 その世界に存在する生き物は老いることがなく、傷つくこともなく、死ぬこともありません。

 彼らは――「ギア」という存在は、完璧な生命として創られていました。ギアたちは人間と同じ形をして、その世界で毎日楽しく暮らしていました。

 美しく秩序の保たれた幸福が永遠に続く、完全で完璧なその世界を、彼らは「楽園」と呼んでいました。


 「楽園」の中央に存在する、美しい宮殿。細やかな装飾と煌めく宝石が施された内部は、繊細で慎ましく、華美さより品の良さを感じさせる。その長い廊下に、コツコツと忙しない足音が響いていた。

 長い黒髪を艶やかに靡かせ、早足で歩く足取りは堂々として自信に溢れている。その少女はスピードを緩めることなく、真っ直ぐに目的地へ目的地に向かっていった。


「女王よ! 今日こそボクの提案を聞いてもらおう!」


 大きな扉を勢いよく押し開け、大きな広間に高らかな声が響き渡る。少女の形をしたギアはよく通る声でそう叫び、そして再び忙しない足取りで歩みを進めた。

 目を引くほどに黒い髪と滑らかな白い肌は、人形のように可憐で愛らしい。その大きな赤い瞳はきらきらと輝いて、口元は自尊心に満ちた笑みを携えている。


「女王よ! 今こそ、この天才『アプリコ』の言葉に耳を傾けるべきだよ!」


 再び足を止めると、少女のギアは力強くそう叫んだ。まるで歌劇の主演みたいに胸を張って、仁王立ちで胸に手を当てる。

 大広間の一番奥――少女の見上げる先には、彼らが「女王」と呼ぶ、巨大な身体を持つギアが鎮座していた。


「転移扉の回路が複雑で無駄が多すぎる! あれは改善すべきだよ、無駄なエネルギーがかかるからね」


 少女は得意げな笑顔で、意気揚々と話を始める。真っ直ぐな瞳で見上げながら、ひらひらと身振り手振りを交えながら、つらつらと言葉を紡ぐ。


「あと、何回も言っているんだけど……転移時のあの変なモーションは何なんだい? あれの分時間もかかるし、とても必要とは思えないんだよね」


 眼下で必死な訴えを続けている小さな存在を、巨大な瞳はただ映していた。口元に携えた穏やかな笑みは微動だにせず、瞬きの一つもせずにそれを見下ろして、頬杖をついていた。


「あと、昇降機を大量の歯車で動かすのはやめた方がいい。効率が悪すぎる! それと領域遷移時に承認依頼を上げないといけないのも、あれ必要かい? どのみち自動承認だろう? 非効率だ、どうしても必要なら領域の区分けを大きくすべきだよ。ちょっと移動するだけその都度依頼をあげると、手間もエネルギーもかかるし無駄が大きい!」


 少女の回った口は止まらない。早口で捲し立てるように語る少女の声だけが、大広間に響いている。巨大な顔は表情を変えず、優雅に微笑みを浮かべたままそれを見下ろしている。


「あと自動清掃機の」

「――却下します」


 息継ぎの隙間もなく羅列された言葉を遮るように、艶やかな声が響き渡った。女王は穏やかな微笑のまま、読み上げるように淡々と続けた。


「回路に無駄はありません。美しい演出や噛み合う歯車は、我々の生活に必要です。領域遷移の承認は、秩序にとって必要不可欠です」

「でも、もっと効率化できるはずだよ。非効率は改善できる!」

「不要です」


 小さな存在の戯言に、初めから聞く耳など無かった。女王は表情は変えず、そのたおやかな笑みは微動だにしない。

 きっと睨みつけて抵抗の意思を示す少女に、女王は上半身を屈めて巨大な顔を近づける。骨張った長い人差し指を差し出して、彼女は粛々と言葉を突きつけた。


「でも――」

「我々のすべきことは、この完全な秩序を保ち続けることです。変化は不要、そして変化を求めることは、悪なのです」

「ぐっ……あっ、あわ、ぬあーッ⁉︎」


 そう言って、人差し指は少女のギアを弾き飛ばした。吹っ飛ばされた少女の情けない潰れたみたいな声が響く。ごろんごろんと転がって、彼女は大広間の壁に叩きつけられた。

 やがて女王の呼んだ自動操縦の衛兵に拘束されると、いつものように宮殿の入り口に弾き出されるのであった。

 静かになった大広間、女王は先ほどと変わらず慈愛に満ちた大きな目を少し細めると、徐に口元を歪めた。


「っふふ、面白いこと思いついちゃったぁ」


 くすくす、と子どもみたいな笑い声が広間に響く。その笑みは、悪戯を思いついた幼児の悪辣な笑みのようだった。



 宮殿の前の広場に叩き出されたアプリコは、ひっくり返ったまま大の字になっていた。眼前に広がる白くて何もない空を見つめて腕を組む。顰めっ面でため息をひとつ吐くと、ふと視界にひょこりと茶色の影が顔を出した。


「まーたやってんのか、アプリコ」

「レド!」


 アプリコを見下ろす、少年の呆れた顔。見知ったオレンジ色の瞳に、彼女はあっと声を上げた。帽子の下から覗く茶色い癖っ毛が目にかかるのを手で払って、彼は眉を顰める。


「んでまたこのザマ……結果は察するけど」

「ハハ、全くだよ! 女王も頭が固い、そろそろ一つくらいボクの提案を聞き入れたらいいのにねッ」


 寝そべったまま子どものようにぷくっと頬を膨らしている彼女の口調は、言葉に反して活気に満ち満ちている。とどのつまり、諦める気など毛頭ないのだろう。気が済んだのか漸く身体を起こす少女を見つめながら、レドは溜息を吐いた。


「オマエも、いい加減やめたらいいのに、それ……どうせ聞く耳も持たないだろうに」

「いいや、ボクはまた言うね! 何回だって! ボクは間違ってない、より良くできるのなら、より良くすべきだよ」


 少年の言葉に、間髪入れずに反論してぴょんっと立ち上がる。目の前の宮殿を見上げるその目は、真っ直ぐに先程まで彼女のいた女王の間を見据えていた。


「ボクらはギアだよ、完璧な生命だ。時間だって無限にある。けれど停滞は死と同然だよ! だからボクは諦めない、変わっていかなければ生命である意味がないもの!」


 胸を張ってそう言って、真剣な眼差しで少年の顔を見つめる。彼女がいつも主張している言葉だ。行き交う無垢なギアたちの白い人波の中で、いつだってアプリコだけが、ギラギラと色を発しているように見えるくらいだ。

 赤い瞳はキラキラと輝いて、その力強い笑顔を横目で見ながら、感情表現の乏しいレドは表情を変えずに呟いた。


「だろうな」

「そうだ、次はレドもやる?」

「いやだ、絶対やらない」


 彼よりほんの少し高い身長で、目線を合わせるよう覗き込む彼女から顔を背けて後ずさる。レドにとっては、彼女の革命ごっこに巻き込まれてはたまったものではない。

 それが彼らの日常であった。何百、何千と繰り返し、そしてこれからも何万と繰り返すのであろう。もはや停滞を受け入れていたレドにとっては、その瞬間まではそうだった。



「――『天才』アプリコ、『観測』レド、女王より出頭要請です」


 無機質な機械音声。取るに足らない雑談に興じていた二人を、不意に複数の影が取り囲む。先程アプリコを放り出した自動操縦の衛兵――生命を持たぬ白い機械は、二人が有無を言う前にその身体を拘束した。

 アプリコの戸惑いも、レドの文句も、白い機械たちは聞く耳を持たない。そうして、あれよあれよという間に先程アプリコが吹っ飛ばされた女王の間まで、今度はレドも合わせて二人で連行された。再び開いたドアの向こうに雑に放り投げられ、顔を上げた二人の目の前には、白い法廷が広がっていた。


「――それでは、『天才』アプリコと、『観測』レドに対する裁判を始めます」


 正面に鎮座する女王は、そう言って小槌を叩く。大広間に響く金属のぶつかる音に、アプリコとレドは目を見開いた。


「え、裁判?」

「は⁉︎ な、何で……いやこいつは分かるけど! オレ何もしてないんですけど⁉︎」

「裁判中は口を慎みなさい、『観測』レド」


 立ち上がったアプリコは、困ったように目をぱちくりとさせる。動揺して辺りを見回し、思わず文句を溢したレドに、女王は頬杖をついて二、三度小槌を打った。

 困惑する小さき存在を見下ろしながら、大きな顔は薄く笑みを浮かべる。艶やかに色づいた唇を愉悦から歪ませて、その間から品のある声が漏れた。


「判決、楽園追放」


 女王がそう告げた瞬間、傍聴していたギアたちの、自動操縦の機械たちの声がどっと湧き上がり、雨のような拍手が降り注ぐ。抵抗する間もなく下された裁定に、アプリコはまた困ったように数度瞬きをし、レドは言葉を失った。

 「楽園追放」とは、この完全で完璧な世界を追い出され、不完全で悍ましい世界へと堕とされることだった。

 その世界は醜く汚らわしく、主権を握っている「人間」という不完全な生命たちによって、滅びを目前に迎えているのである。動揺していた彼は、はっと正気に戻って噴き上がるように声を上げた。


「はあ⁉︎ おかしい、あまりにもおかしすぎる! そもそも罪状は⁉︎」

「えー、罪状は、まあいろいろ。そして判決は、楽園追放です。以上、閉廷!」


 反抗の言葉に女王は楽しそうに目を細め、そして彼らの意思など気にも留めない様子で、閉廷を示す小槌を鳴らす。納得できずに文句を垂れる彼の言葉は、閉じられた法廷の前では何の意味も成さない。

 乏しかった表情は何処へやら、余裕なく目を見開いて抵抗を続けている彼の横で、アプリコはにやりと笑みを浮かべた。


「なるほど、では貴方は負けを認めるというわけだ。ボクらを説き伏せることができないから、反抗するボクら恐れ、もはや追放するしかないというわけだね!」

「おいッ、余計なこと言うな! あと『ボクら』って何だ! オレは何もしてない!」

「ハハ、逃げるということは、負けを認めるというわけだよ!」


 少女は堂々と立って腰に手を当てる。キラキラした真っ赤な瞳で女王を見つめて、挑発的に微笑んで見せる。それを見下ろす女王の大きな瞳は変わらず余裕綽々で、ただ一人、レドだけが慌てふためいていた。

 焚き付けるようなアプリコの言葉にも、女王が動じることはなかった。含みのある笑みを浮かべたまま、女王は長い人差し指で二人を指差した。


「では――刑を執行します」

「いやっ、ふっ、ふざけるな! ちょっと待っ」

「楽園を出て、終わりゆく世界で、是非とも楽しく暮らしなさい」

「女王よ! 貴方は後悔するはずだよ、この『天才』アプリコを追放なん――あっ」


 アプリコが言い終わるよりも前に、大広間の床――アプリコとレドの足元がパカリと開いた。ぽっかりと口を開けた真っ黒の闇は、重力に逆らえない二人を飲み込んだ。


「アッハハ! 教えてあげる、お前たちの罪は――」


 最後に、そう聞こえた。言葉の先を聞くよりも先に、少年と少女は無力にも漆黒の中に落下していった。

 光のない暗闇の中、アプリコとレドはただひたすら落ちていく。落ちて、落ちて、落ちたその先――暗闇を抜けると、赤色があり、青色があり、黄色があり、全ての色があった。

 全てが混ざり合ったメチャクチャな混沌を落ちて、落ちて、目が眩むような混沌を落ちて、最後に白になった。

 何もない真っ白な世界に落下して、落ちて、落ちて、落ちた先。その出口に向かって、まるで放り投げられたみたいに、少年と少女は落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る