リミナル・スペース459
青出インディゴ
静かに暮らしたいだけ
私はその奇妙な薄黄色い空間で、途方に暮れていた。
思い返せば、今週はおかしなことが多い週だった。
月曜日の朝起きてみると、住んで13年目になる単身者向けアパートの、寝室のドアが少しひらいていた。神経質なたちの私はドアをぴったり閉める習慣だから、閉め忘れの可能性もなくはないにしても、少し変な気がした。
翌火曜日は、冷蔵庫の中のヨーグルトが消えていた。二つセットのよくある手ごろなカップ製品。一つ残していたはずなのに。私以外に食べる人はいない。遠方に住んでいる母親以外にこの部屋を訪れる人はいないのだ。
水曜日に異変があったのは、キッチンの床だ。仕事から帰って夕食を摂ろうとすると、シンクの前のフローリングがほかより少し黒い。さわってみるとひんやりと湿っている。朝はパンと牛乳だけでシンクは使わないから、留守中に湿る心当たりがない。雨漏りかもしれない。様子を見てまた起こるようだったら、管理会社に電話するべきだろうかと考えた。
木曜日は床は湿っていなかったが、キッチンの戸棚に入れている包丁の向きが、いつもと違っている。いつもは切っ先を壁側に向けているのに、その日はこちらを向いている。少しいやな気がした。
金曜日はさらにいやな気がした。帰って来てみると、例の包丁が見当たらない。焦って部屋中探したが、どこにもなかった。
ひとつひとつは小さな出来事だが、積み重なるとどうも居心地が悪い。それに刃物の紛失は何か危険な前触れのような気がした。土曜日にはいよいよ誰かに相談すべきか考え始めた。誰かって? 管理会社? 警察? 私には気安く相談できるような相手はいない。職場の同僚とはそれなりに楽しく雑談は交わせるが、プライベートでは顔を合わせることはない。この小さな事件に気づいたのも、私自身が包丁の向きを気にするほどの潔癖症だからだ。それはわかっているが治せないし、治そうとも思わない。とはいえ、週末に至って、朝から不安が芽生えてきていた。少なくとも、私以外に私の部屋を使っている者がいる。空き巣なのか、あるいはその下見なのか。
土曜の朝、私は大げさかもしれないが、ともかく近所の交番で相談してみようと思い立ち、エレベーターに乗り込んだ。それはまったくいつも変わらない、13年間幾度となく繰り返してきた日常の動作だった。無機質な灰色の箱に足を踏み入れ、行き先のボタンを押すために手を伸ばす。と、奇妙なことに気がついた。4、3、2、1と順に階数が表示されている下に、B1のボタンがある。
「……?」
このアパートに地階などない。これは今週起こった奇妙な出来事のうちのクライマックスだった。これまでの出来事は説明しようと思えば、たとえば私自身が寝ぼけてやったことなどと説明できることではあった。が、これについては異変が眼前にある。私は試しにボタンに人差し指を載せてみた。硬く、冷たいアクリルの感触。物理的にそれはそこに存在する。私は思わずボタンを押す。ガタンと振動がしてエレベーターは降下を始める。
そうしてたどりついたのが、今いる薄黄色い空間だった。
目の前には狭い通路が延びていて、天井も壁も床もみなぼんやりと薄い黄色を帯びている。空気は乾いているがかすかにカビ臭い。蛍光灯は点いているもののなぜか薄暗く、通路の先は暗闇に沈んでいる。音はまったく聞こえず、生き物の気配もなく、何のための場所なのかもわからない。
不安を覚えなかったといったら嘘になるが、一方で好奇心も生まれなかったとは言えない。なにせ、13年間も住んでいてこんな地下があるとは知らなかったのだから。いや、最近増築でもしたのか? それにしては壁も床も年数を経ているようにあちこちに水の染みができている。
私はおそるおそる踏み出した。
通路は曲がりくねっていて、壁の角がまるで迷路のように続いている。歩くたびに蛍光灯がブンと音を立てて点くが、数メートル通りすぎると必ず消えてしまうので、振り返れば来た道は闇。ドアなどのたぐいは一向になく、なんのための通路なのかわからない。装飾は相変わらずほの暗い薄黄色で、代わり映えのしない景色が延々と続く。鼓膜を震わせるのは自分の足音と息づかいだけ。私は恐ろしくなった。通路はあまりに広大で、アパートの敷地面積をとうに超しているように思われた。
いよいよ戻ろうかと考え始めた頃だった。ついに通路以外のものが現れた。それは突き当たりに見えた、ドアだった。なんの特徴もない木製の片手開きのドア。ここが最深部なのだろうか?
私はおそるおそるノブに手をかけた。妙に生温かい感触がした。
中は小部屋だった。物置部屋のように狭苦しい。天井、壁、床は相変わらずの水染みだらけの薄黄色。ただひとつ今までと違うのは、部屋の中央にテーブルがあり、その上に置き時計が置かれていたことだ。近づいていって、時刻を見る。
4時59分を指して止まっていた。
ポケットからスマホを取り出して時刻の正確さを確認しようとしたが、黒い画面から切り替えることができなかった。充電が切れたのかもしれない。
時計の前に立ったまま、ざっと室内を見まわしてみたが、ほかにはなんの物体も見つからない。そのとき、動物的本能だろうか、突然背中に悪寒が走り、私は振り返ってドアに駆け寄る。
ドアがひらかない。
乱暴にノブを動かす。押しても引いてもひらかない。
この何もない部屋に閉じ込められたとわかった途端、叫び、地団駄を踏み、壁や床を叩きまくった。何も起こらない。置き時計を壁に投げつけてみるが、欠けさえしない。泣き叫び、髪をかきむしり、ドアを殴りつける。やがて疲れて床に寝転ぶ。
それらを何時間も繰り返しているうちに、ふと気がついた。
4時59分――459――じごく。止まった時計は、この部屋そのものが地獄の階層だと告げている。出入口だと思っていたドアも、実は地獄の間に入るための門だったのではないか?
アパートのドアの隙間、ヨーグルト、濡れた床、向きの変わった包丁……あの痕跡たちは地獄へいざなわれていることの前兆だったのでは? そういう直感が背を冷やす。部屋にいたあの見えないルームメイトは地獄への水先案内人……ひょっとすると悪魔だったのか?
なぜ私がこんなところに閉じ込められるのか。いや、心の底ではわかっている。私は漫然とした生活を過ごしていたから悪魔に見入られた。朝起きて、仕事に行って、帰って寝る。その繰り返しだった。誰かを愛したこともないし、愛されもしなかった。思いやりをかけなかった。自分さえよければよかった。
ドアの外で何かが動く気配がした。衣擦れのような息づかいのような。ひょっとしてやつなのか?
「悪魔なら契約を結んでくれ!」
私は両拳でドアを叩いて叫んだ。木製ドアの木目の間を通り抜ける隙間風のようないやな声が聞こえた。
「そうこなくちゃ。地獄から救う代わりにお前の差し出すものは何かね?」
私は叩くのをやめ、言いよどんだ。隙間風は続ける。
「財産かね? 魂かね? それともお前自身の名前かね?」
私はすぐには答えられず、考えて考えて考えて……。
気づいたときにはもう声はしなくなっていた。そのことに気づいたときにはもう遅かった。最後にやけになってノブをめちゃくちゃに揺さぶっていると、ノブは外れてしまい、ドアをあけることはできなくなってしまった――永久に。
閉じられた小部屋。
止まったままの時計は永遠に459を指し続ける。ドアは二度と開かず、外の廊下の気配も消えた。——ここが終わりであり、始まり。
地獄とは炎でも拷問でもなく、ただ 同じ部屋・同じ時刻に永久に居続けること。
そうして私は、悪魔に名前を奪われずとも、存在を削がれていく。「呼ばれることのない人」として、時の外れに閉じ込められたまま。
リミナル・スペース459 青出インディゴ @aode
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