1章⑤

 翌朝。

 なんとか起き上がった唯は、9時ギリギリに出勤した。期末の多忙な時期、しかも週の中で1番忙しい月曜日に、欠勤するという選択肢は無かった。

 通勤中はずっとQUEENの曲をかけていた。海外ドラマは気持ちがざわつく気がするから止めなさいと言う、広樹のアドバイスに従ったのだ。

 この日は受付チームのリーダーで中国籍の女性、李 旻(みん)が出社していた。唯のここ数日の出勤状態をマネージャーに聞いたのだろう。唯を見て驚いたような安心したような表情を浮かべた。

 朝礼が全て済んだタイミングで、唯は李の席に近づいて話しかけた。

 途中、山瀬の席の後ろを通った。山瀬の視線が唯を追っている気がしたが、目を合わせる勇気はなかった。

「李さん、おはようございます。ちょっとご相談いいですか?」

「うん、いいよ。下に行こうか」

 日本の永住権も持つ李の日本語は流暢だが、少しだけカタコト混じりだ。それがとても可愛くて魅力的だった。

「お願いします」

 山瀬の耳の届くところで、パニック障害の事を打ち明ける気にはならなかったので、李の提案を快く受ける。

 ちょうど空いていた応接室に入り、李と向き合う。

「どうかした?」

「実はパニック障害になりました…先週仕事早退して、病院にかかりました」

「そっか…今日は平気なの?」

 心なしか李の瞳が潤んでいた。唯は我が身のことばかり考えて、サブリーダーの任が重いと嘆いているが、李だって辛いはずなのだ。そう思うのは唯の誤解だろうか?

 頼りにしていた山関マネージャーが異動し、リーダーに昇格。精力的に行動していたその矢先に、サブリーダーが新人とトラブルを起こし、精神疾患にかかるなんて。

 唯は申し訳ない気持ちで一杯だったが、それを思って言い淀んではいけないと思った。

「はい、頑張ります。で、業務のご相談なんですけど…」

「なに?」

「当分の間、団信の回答担当にしてもらえませんか?」

 団信の査定結果の回答業務を精査し、審査担当者へ伝達する、重要な業務だった。

「受付チームのメンバーとあまり深く関わる仕事はしたくないんです。また何かあったらと思うと怖くて…団信の回答なら、審査担当者と関わる方が増えるし…山瀬さんや、小林さんと関わらなくて済めば、発作も起きにくいかなって」

 と、一晩考えたことを李に訥々と伝える。李は頷きながら最後まで聞いてくれた。

「うんうん、わかった。回答、任せるね」

「ありがとうございます」

「でも、くれぐれも無理しないで」

 そう言いながら、李はそのつぶらな瞳から涙を一粒だけこぼした。そして、小さく冷たい右手で、拳を強く握ったままの唯の手をそっと包んだ。

「自分の心、大切にね」

 そう、心。ボロボロで悲鳴をあげている唯の心。誰かに見せたい、いや見せられないその傷だらけの心。その傷口に、李の優しさが染みた。

「はい」

 唯も釣られて泣いてしまう。慌ててハンカチで拭う。

「耐えられなくなったら、帰ります。無理はしません」

「約束ね」

「はい」

 李の真摯な瞳が、唯の止まらない涙を見つめている。

「ごめんなさい」

「好きなだけ泣くといいよ」

 そしてぽんと肩をたたいて立ち上がる。

「先、戻ってるね」

 チェックのスカートの裾がふわりと揺れた。李は静かに部屋を出た。唯もすぐにあとに続く。

 李の後ろ姿は、とても華奢なのに泣きつきたいくらい頼もしく見えた。

「鈴元さん、心配そうだったよ」

「ご迷惑おかけしてます…」

「いいの、いいの。それが上の仕事なんだから」

 李はふふっと笑って言う。こともなげに言うから唯は面食らった。

「唯さんは、自分の事だけ考えたらいい」

「はい、精進します」

 李らしいアドバイスに、唯は笑みをこぼした。フロアに戻る途中、喫煙所から出てくる鬼頭と一緒になった。

「鬼頭さん、昨日はすいませんでした」

「いいから、いいから。それより今日は?」

「とりあえず団信の回答当番なら出来るかなって思って」

「そうか、そりゃ心強い」

 鬼頭は唯の正確でスピーディな事務処理を信頼してくれている1人だった。その信頼を思うと、乾いたばかりの瞳がまた潤むのを感じた。

「無理は、するなよ」

 パニック障害からうつ病に移行する人は、とても多い。唯はネット検索してそう捉えていた。だから鬼頭の視線にも、危ういものを見守るような熱があった。

「限界来たら暴れますね。その時は止めてください」

 唯は自身の不安も払拭したかった。わざとおどけて答える。

 少しだけドクンとした胸の動悸を抑えつつ、フロアに戻った。大きな胸の鼓動が、耳の奥から体中に広がっていくようで、ひどくうるさかった。


 午前中は期末の部署の忙しさに溶けるように過ぎていった。

 団信の回答は保険会社とのやり取りの都合で土日祝は完全に止まる。その分月曜日は繁忙する。

 唯の狙い通り、正確さとスピーディな作業を心がけていたら、発作と無縁の午前を過ごせた。それとも、薬が効いて来たのだろうか?

 休憩室でお昼ごはんを食べながら、母、百合のLINEを確認する。

“今日は仕事かな?”

“無理するなよ”

 心配そうなメッセージに、唯の胸はキュンと痛んだ。

“今日は、来れた

今のところ発作もないよ”

 唯はそう返すと、ふうっとため息をついて、スマホの画面をHuluに切り替えた。

 広樹に海外ドラマの代わりに勧められた映画を見ようと思ったのだ。なにか優しいものに触れて、ホッとしたかったのかもしれない。

 殺伐としていて、広樹に言わせるとドロドロした海外ドラマを見ていると、唯の精神衛生に良くないと考えたらしい。Bluetoothイヤホンをし、接続の確認をする。

 広樹に勧められたのは、ALWAYS三丁目の夕日という映画だった。オリンピックと高度成長期に沸く昭和時代の日本の映画で、唯は何度観てもポロポロ泣ける良い映画だと思っている。

 さて、再生しようというところで、右肩を叩かれた。そちらを見上げると、ももが心配そうに唯を覗き込んでいた。

 唯はイヤホンを外して微笑む。

「ももちゃんも、お昼?」

「心配でついてきちゃった」

 隣に腰掛けながら、ももは唯に微笑んだ。ももの優しい視線は午前中何度も受け止めていたが、改めてありがたいなと、唯は噛み締めた。

「ありがとう。でも今日は今のところ大丈夫」「そっか、そっか」

「昨日は休んじゃったんだけどね」

「いくらでも休んでよろしい。わたしが許可する」

「朝から薬漬けなんだよー。仕事くらい出来なきゃ困るよ。起床時にセラニンでしょ、花粉の鼻水を止める漢方の小青竜湯、朝食中に今朝から生理が来たから痛み止めのロキソニン、朝食後にまたセラニン。ね?薬漬けでしょ」

 朝の薬についてまくしたてる唯が面白く、少し可愛かったのだろう。ももは愛おしそうに唯の事を見つめていた。

 唯はその視線に気付いてくすぐったくなる。

「仕事なんて後回し。唯ちゃん自身のこと、大切にしてね?」

「うん、そうする。柿本さんと午後1番で面談お願いしてる。少しシフト調整してもらおうと思って」

「シフト?」

 唯は手元のフロア用の透明鞄から、シフトの紙を取り出した。

「土曜日のメンバー見てよ。多分、無理」

「確かにねぇ。うん、調整してもらった方がいいね」

「でしょ?」

 その日は唯の他に、山瀬と小林の名があった。今の唯には想像するだけで、胸がジクジクと痛むようなシフトだった。

「昨日からずーっとこの日のこと考えてるんだ。無理無理無理無理って」

「もう、唯ちゃんたら思い詰め過ぎ」

 ももが吹き出しながら言う。唯も釣られて笑う。

「考え出したら止まらなくて」

「今日はよく来れたね」

「ももちゃんが居ると思ったら安心して来れるよ」

 唯は心からの感謝が伝わるよう、ひたとももを見つめた。

「いつも優しくしてくれて、ありがとう」

「こちらこそ、いつもありがとう」

「わたしはなにもしてないよ」

「そんな事ない、いつも話聞いてくれるじゃない」

「ももちゃんを愛してやまない旦那さんの惚気話しとか?」

 唯が茶化すように言うと、ももはふっと笑った。

「惚気じゃなくて、愚痴なんだけどな」

「愚痴じゃなくて、惚気だね」

 唯も笑い返す。

「さてと、お昼買ってこようかな」

「いってらっしゃい」

「またね。辛くなったらいつでも言ってね」

「うん、ありがとう」

 唯はももの少しふっくらした背中に手を振った。


 その日の午後は、部長である柿本 隆正と、担当部長の鈴元との面談から始まった。場所はお馴染みの応接室である。

 柿本は鋭い目つきで、唯の方を見やった。しかしその鋭さの中に、そこはかとない優しさを感じて、唯は戸惑った。

「お疲れ様です。お時間いただき、光栄です」

「堅苦しいのは、いいから。病院、行ったんやって?」

 柿本は関西出身である。普段は標準語だが、不意に出る関西弁が、唯は好きだった。素の部分を見せてくれてる気がした。唯の緊張が、一気に解けた。

「はい、行きました。パニック障害って診断されて、薬を飲んでます」

「うん、聞いたわ。今日は?どうなん?無理してへんか?」

 グイッと近寄り、唯の心の奥底まで見透かそうとするかのような、力強い目つきで、柿本は唯を見据えた。

 その隣では鈴元が、いつもの優しげな目で唯を見つめていた。

「李さんに頼んで団信の回答当番に固定してもらったので…山瀬さんと、関わらなくて済むように」

 山瀬の名を出すと、唯の中でドクンと大きく動悸がした。

「そうか、そうか」

「柿本さん、わたし、昨日も休んじゃって…申し訳ありません」

 唯の声がか細く震えた。柿本は大きく手を降って、

「何でもない、それぐらい気にするな」

 と、鷹揚に答えた。

「辛かったら休んだ方がええ」

「ありがとうございます。ご迷惑ばかりおかけして…」

「薬はどれくらい飲んでるんか?」

「1日4回は飲んでます」

「多いなぁ。身体、だるくならんか?」

「もう凄くて…それで遅刻しちゃったりも…」

 唯は一拍置いて、意を決したみたいに言う。

「わたし、薬を飲んだらすぐ治るもんかと思ってたんです。なのに全然駄目で。今日は来れたけど、明日からもわからないってゆうか…」

「そんなもん、すぐに効くかいな」

 柿本が、呆れたように目を見張って笑う。

「ですよね、母にも言われました」

「まずその短気を直さんと」

「なかなかそれは…で、ご相談なんですけど」

 唯はまたシフト表を引っ張り出した。

「この土曜日、おやすみさせて頂けたら、と」

「別に構わんが、どうした?」

「山瀬さんと出勤がかぶっていて、その日は少人数なので…」

 むっつりした柿本の表情から、唯は怒らせてしまったかと、ハラハラする。

 しかし再び口を開いた時、その声音がとても優しかったので、ホッとした。

「山瀬さんとは、関わりたくないか?」

「いえ、そんな…関わらない方がいいかと…」

「2人は合わないと思ってたよ」

「え?」

「山瀬さんは、のんびりマイペースだから、チャキチャキ働く佐々木さんとは、合わなかったでしょ?」

 叱りつけるのかと思いきや、その目は悪戯っ子みたいに輝いていた。

 合わなそうな2人を引き合わせてみて、どんな結果になるか楽しんでた、そんな空気だった。

「わたしの未熟さが原因です」

「そんなことないよ、あまり自分を卑下しないことだよ」

 鈴元がそこで初めて発言した。その優しさに唯はこらえ切れずに涙した。

「いえ、だって…」

 病院に行って病気と診断されて、そんな自分を受け入れる事すら出来なくてもがいている、卑下する以外何が出来るの?と、叫び出してしまいたかった。

「泣かんでもええやんか、誰も責めてないからな」

「はい、ありがとうございます。勿体無いくらいみんな優しくて…」

 唯の脳裏に次々と優しい同僚が浮かぶ。そしてまた、泣けてきた。

「次はいつ病院行くんや?」

「木曜日です。おやすみなので」

「そうか」

 柿本は言葉を探すように沈黙した。

「まぁ…ゆっくり治していけばいい。焦らんようにな」

「はい、肝に銘じます」

「他に困ってることはない?」

 鈴元がそっと訊く。

「大丈夫です、ワガママ言ってすいません」

「じゃあ、フロアに戻って李さん呼んできてくれるか?土曜日の件、話しとく」

「はい、失礼します」

 唯は応接室を出ると、肩の荷が降りた気がした。これで昨夜考えついた業務上の不安点は解消されたからだ。

 あとは団信の回答をミスのないよう処理していくだけだ。

 その日は午後も発作は出ず、1時間程度の残業もこなして、唯は職場をあとにした。

 シフト制なので明日はおやすみ、気楽な気分で電車に乗って母、百合にLINEする。

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