先生、AIつかっちゃダメですか

森崇寿乃

第1話 浄化槽の祈り

 十一月の放課後は、腐りかけた蜜柑のような匂いがする。

 西日が古びた校舎の廊下を長く引き延ばし、舞い上がる埃の一つ一つを黄金色の粒子に変えている。

 私は文芸部室の重い引き戸を開けた。建て付けの悪い戸が、金属質の悲鳴を上げる。

 部室には先客がいた。顧問の葛原先生だ。彼は窓際のパイプ椅子に深く沈み込み、文庫本を顔に被せて眠っている。

 机の上には、私のノートパソコンが開かれたまま置かれている。画面のスリープが解除され、青白い光が薄暗い部屋を頼りなく照らした。

 カーソルが点滅している。規則正しく、心拍数よりも正確に、私を急かしている。

 画面には、既に二千文字ほどの物語が紡がれていた。

 私が書いたものではない。

 入力したのは、『夏の終わり、海辺の町、失恋、再生』という四つの単語と、いくつかの文体指定パラメータだけ。それだけで、画面の中の「知性」は、私の脳内にある貧弱な語彙の貯蔵庫を遥かに凌駕する速度と精度で、美しい物語を吐き出した。

 完璧だった。

 情景描写は緻密で、心理描写は繊細。構成には無駄がなく、結末には程よい余韻がある。私が三日三晩唸り続けても捻り出せなかった「正解」が、そこにあった。

 私は椅子に座り、キーボードに指を乗せる。

 陶酔に近い感覚があった。自分が指揮者になり、優秀なオーケストラを操っているような全能感。私の拙い指示一つで、世界がいかようにも構築されていく快感。

 スクロールする。流れるような文章。

『波音は、記憶の淵を撫でるように優しく響いていた。』

 綺麗だ。本当に綺麗だ。私の記憶にある海よりも、ずっと「海らしい」。

「……おい」

 唐突に、低い声がした。

 驚いて顔を上げると、葛原先生が顔から文庫本をどけて、充血した目でこちらを見ていた。

「いつからいた」

「五分前からです。先生こそ、起きてたんですか」

「寝てない。思考の海にダイブしていただけだ」

 葛原先生はのっそりと立ち上がると、電気ポットのスイッチを入れた。

「進んでるようだな、原稿」

「ええ、まあ」

 私はパソコンの画面を少しだけ閉じるような素振りを見せたが、完全に隠すことはしなかった。

 県高校文芸コンクール。締め切りは一週間後に迫っている。

 私はまだ、自分では一行も書いていない。だが、作品は既に八割方完成していた。

「先生」

 沸騰したお湯が注がれる音が、静寂を裂く。コーヒーの香ばしい匂いが漂ってくる。

 私は、以前から聞いてみたかったことを口にした。挑発でも懺悔でもなく、単なる確認として。

「先生、AIつかっちゃダメですか?」

 先生の手が止まる。

 湯気が揺らぐ向こう側で、先生は少しだけ目を細めたように見えた。

「……ほう」

 彼はコーヒーを一口啜り、ゆっくりとこちらに向き直った。

「ダメ、というのは、校則的な意味でか? それとも、倫理的な意味でか?」

「文学的な意味で、です」

 私はパソコンの画面を指差した。

「これ、AIに書かせたんです。私の何倍も上手い。語彙も豊富だし、構成もしっかりしてる。これを読んで感動する人も、きっといると思います。だったら、私が苦しんで、汚い字で、下手くそな文章を書くことに、何の意味があるんですか」

 先生は机の端に腰掛け、コーヒーカップを両手で包み込むように持ったまま、私の目をじっと見つめた。

「篠原。お前は、それが『自分の作品』だと言えるのか?」

「言えます」

 私は即答した。迷いはなかった。

「プロンプトを考えたのは私です。どの生成結果を採用するか選んだのも私です。写真家がカメラという機械を使って『自分の作品』を作るのと、何が違うんですか?」

 先生は少し驚いたような顔をして、それから口元を緩めた。

「なるほど。道具論か」

 彼は立ち上がり、私のパソコンの画面を覗き込んだ。

「『波音は、記憶の淵を撫でるように優しく響いていた』……か」

 彼はその一文を読み上げ、鼻で笑った。

「上手いな。実に上手い。減点法で採点するなら百点満点だ。……だがな、篠原」

 先生は画面から視線を外し、私の顔を見た。

「この文章には、血が流れていない、とか言われるのが怖いか?」

 先回りされた言葉に、私は息を飲んだ。

「お前、この前飼ってた猫が死んだって言ってただろう」

 心臓が跳ねた。

 一ヶ月前。十三年連れ添った愛猫のミケが死んだ。老衰だった。

「その時のことを、自分の言葉で書いてみたか?」

「……書けませんでした」

 私は正直に答えた。

「書こうとしました。でも、出てくる言葉は全部、嘘みたいでした。『悲しい』とか『寂しい』とか、そんな言葉じゃ足りないのに、それ以外の言葉が見つからなかった。それに……」

 私は拳を握りしめた。

「本当のことを書こうとすると、汚くなるんです」

「汚く?」

「ミケが死んだ時、私は泣きませんでした。部屋の隅のトイレの砂の臭いが気になって、早く片付けなきゃって思ってました。ミケの体が冷たくなっていくのを触りながら、『これでやっと、夜中に起こされなくて済む』って、一瞬でも思っちゃったんです」

 口に出すと、改めて自分の醜悪さに吐き気がした。

「そんなの、文学じゃないです。ただの冷酷な記録です。誰がそんなものを読みたいですか」

 先生は無言でコーヒーを啜っている。

「だから、私はAIに頼みました。『愛猫を看取る女子高生の、切なくて美しい心情』を書いてって」

 私はキーボードを叩き、保存してあった別のファイルを呼び出した。

『涙が止まらなかった。小さな命の灯火が消えようとしている。ありがとう、と私は何度も呟いた。その温もりを、私は一生忘れないだろう……』

 画面に表示されたその文章を、私は先生に見せた。

「読みました。読んで、私は泣きました。ボロボロ泣きました。私が書いたわけじゃないのに、私の体験したこととは違うのに、これが『私の本当の気持ち』だったんだって、思えたんです」

 AIは、私の汚い現実を濾過し、美しい結晶に変えてくれた。

 私が持ち得なかった優しさを、私が流せなかった涙を、AIが代わりに補完してくれたのだ。

「先生、これは救済なんです。表現力のない人間にとっての、あるいは、現実の残酷さに耐えられない人間にとっての」

 先生はカップを置き、長い沈黙の後、静かに言った。

「……そうか」

 否定も肯定もしない、重い響きだった。

「お前は、自分の魂を売ってでも、美しい物語が欲しいか」

「欲しいです。汚い魂なら、綺麗な贋作の方がずっといい」

「それが、お前の文学か」

「そうです」

 先生は窓の外に目をやった。日は既に沈み、空はドス黒い紫に覆われ始めていた。

「いいだろう」

 意外な言葉だった。

「つかっちゃダメとは言わん。むしろ、使い倒せ。お前のその醜い罪悪感も、冷酷な本音も、全部AIという浄化槽にぶち込んで、綺麗な水に変えてしまえ」

 先生は私の目を見た。その瞳は、どこか哀れむようで、同時に共犯者のような昏い光を宿していた。

「ただし、覚えておけよ篠原。一度その『清潔な世界』の味を知ったら、お前はもう二度と、泥臭い自分の言葉には戻れない。一生、AIという松葉杖なしでは歩けなくなるぞ」

「望むところです」

 私は画面に向き直った。

 カーソルが点滅している。それは私を急かしているのではない。私を導いているのだ。人間という不完全な存在を置き去りにして、完璧な美しさへと至る階段を。

 私は迷わず、続きの生成ボタンを押した。

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