だって、これは盲愛だから

木曜日御膳

Opening Act:眩しい地獄

 骨の軋む鈍い悲鳴が、体の内側で響き渡る。自分の周りに流れる鼓膜を破りかねない暴力的な音楽よりも、強く痺れるくらいの音だ。

 自分の肋骨のすぐ下辺りに食い込む太い鉄柵と、背中にかかる人間の圧による挟まれた痛みで、身体の至る所から脂汗が吹き出していた。


 中年太りで蓄えた脂肪が、一切役に立たないなんて。

 苦痛に耐える哀れな人――佐野雅彦は少しでも楽になるよう、奥歯を食いしばり、必死に腕力で人間を背中で押し返そうとする。けれど、背中側の肉壁は少しも動くことはなく、無駄な力を使っているため呼吸さえままならない。


 しかも、やっとの思いで息を吸っても、肺に溜まる空気はロクなものではない。

 湿った地下のカビ臭さと、他人の汗、甘ったるい香水。

 汚泥のよりも酷い混ざりものが、気道を塞ぐ。


 ここは、渋谷の雑居ビルの地下にある小さなライブハウス。

 激しくも爽やかな音楽は、会場内を駆け抜ける。

 狭いステージでは、色違いの衣装を着た七人の青年達が歌い踊る。

 そして、彼らの足元に伸びる暗闇の箱の中で、七色のペンライトが光り彩り舞う。


 世間では、ステージにいる彼らを男性地下アイドルといい、ファンたちはアイドルファンまたはアイドルオタクと呼ばれていた。


 生み出された眩しい地獄を前に、佐野はステージ一番目の柵にしがみ付き縮こまる。ペンライトも持たず、ステージにも視線を向けず、太い柵を押し返していた彼は、明らかに異質な存在だった。

 佐野自身もよく分かっていた。45歳の中年太りの男が、何も知らずに居ていい場所ではないと。

 特に彼が今立つ場所はステージ中央が目前——最前と呼ばれる場所には、絶対に。

 背中には悍ましいほど柔らかい肉の壁が重く乗っており、ステージと客席を隔てる鉄の柵は自分の弛んだ腹に食い込む。どうにか苦しさを耐えるしかない。

 

「なんで前にいるの」「おっさん邪魔すぎ」「推しが見えない」「後ろ行けよ」

 金糸雀のような高い声で、小さく囁かれる周囲からのお気持ちは、佐野の耳にもしかと届いている。もっともな意見だ。佐野だって来たかったわけではないのだ。出来ることなら、不可抗力だと叫びたい。

 けれど、佐野の身体は、ただ縮こまり震え続ける。背後のヘビに気付いたカエルのように、現実から目を背けたい一心で、振り返ることすらできなかった。


 心ない言葉だけでは無い。どさくさに紛れペンライトや誰かの靴が身体の至るところに当たり、強い痛みがほとばしる。たとえ、長年蓄えた厚い脂肪を纏っているとしても、人間の皮膚には神経があるのに。早く逃げ出したいが、すでに退路は断たれている。

 どうにか地獄から抜けるには、恐る恐る顔を上げると、目の前で歌う青年の一人と視線が交わる。

 珍しい物を見るように微笑む可愛らしい顔の彼。

 一生懸命な彼らに対して。逃げる中年はどんなに滑稽だろうか。


 ああ、なんで、こんなことになってしまったのか。


 曲が終わりとともに暗転する世界で、後ろの誰かが呟いた。

「あのジジイ、が……」


 自分の右隣に頭ごと視線を向ける。

 一番目に入るのは、メンバー色に光った七本のペンライト。一本ずつ指の間に挟み込むように持っている彼女。事件について知りたかっただけの俺を、ここに引きずり連れてきた張本人だ。


「何目的なのあれ」「気持ち悪い」「もしかして?」

 悪意ある噂と嘲笑なんて無いかのように、ただ真っ直ぐにステージだけを見ながら、彼女こと通称・リアコと名乗る女性は大きく両腕を天に掲げた。


「グロウルズ、愛してるー!!」

 腹の底から出されたリアコの愛が、響き渡る。次の瞬間、ステージに強い光が灯った。

 スポットライトの明るさに、隠れていた姿がありありと浮かび上がる。

 手入れの行き届いた艶やかで長い黒髪、まるでアニメキャラのような濃いメイクに、今時のヒラヒラとリボンのピンク色の服。地雷系女子の化身のような彼女。


 ただ、それ以上に目を引くのは、彼女の顔や耳の至る所に付けられた銀色のピアス。

 金属特有のギラつきが、ステージのライトを反射していた。

 


「俺たちの女神ウルズちゃぁん!!」

「もっと盛り上がっていこう!」

 彼らもまた愛の言葉に呼応するように客席を煽る、耳をつんざくように愛を語る歓声は、彼らに向けた愛を示すペンライトと共に振り乱れ始める。先ほどまであった悪意なんて、全て消し去るかのように。


「聞いてくれ、今日初めて公開する新曲! 『ALL IN』!」

 彼女は口を大きく開き、言葉にならない黄色い声を上げている。口の中の舌につけられたピアスがギラリと光る。

 誰もが目を引くほどに、奇抜な彼女。しかし、その瞳に佐野が映る隙は無い。もう隣に立つ男の存在なんて、彼女の頭から抜けているだろう。彼女が無理矢理連れてきたというのに。


 けれど、リアコだけではなく、今は誰も佐野のことを見ていない。

 それはそうだ、リアコも他のファンも、汚いおじさんを見に来たわけではない。


 観客達の愛のこもった視線は、一心にそれぞれの推し達に注がれている。



 疎外感でいたたまれない佐野は、改めて自分の状況を呪う。

 ただ、知りたかっただけなのに。

 二週間前に起きた被害者は三万人強、被害総額二億円以上を出し、本当なら無関係だった佐野を、渦中へと放り込んだ事件。


 千葉アイドルフェスステージ乱入殺人未遂事件。


 奥歯で痛くなるほど噛みしめ、佐野は隣の女から視線を逸らす。前を見れば、年寄りには眩しすぎる世界に眉間の皺を寄せ、頬を持ち上げるように目を細めた。人生で決して交わることはなかったアイドルと呼ばれる存在。

 誰が、佐野を、事件の渦中に引きずり込んだのか。 

 ゆっくりと最悪な始まりを思い出す。


 あの事件が起きた——佐野の人生を変えた日を。

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