第2話:セールストーク・オブ・ザ・デッド

 四ツ谷 海(よつや かい)の職場は、死んだように静かだった。


 高効率居住区のオフィスビル、その最下層にある、窓のない区画。 壁一面に貼られた吸音材が、海のため息さえも逃さず吸い取っていく。 空調は常に摂氏24度に保たれているはずだが、海の背中には冷や汗が伝っていた。 首から下げた『アウトシステム(OS)』の放熱ファンだけが、ウィーン、ウィーンと低い唸り声を上げ、首元の皮膚をじりじりと焼いている。


 海は、デスクに浮かぶホログラムの顧客リストを弾いた。 赤い文字が並ぶ。 『見込み:低』『拒絶』『不在』。 リストの端から端までスクロールしても、緑色の『成約』は一つもない。 彼が売っているのは「選択の自由」だ。 だが、この街においてそれは、砂漠で「乾いた砂」を売るようなものだった。誰もが潤沢な水(AIによる最適解)に満たされ、喉など渇いていないのだから。


 ピンポーン。


 無機質な電子音が、静寂を裂いた。 海は、反射的に立ち上がった。椅子がガタと音を立てる。 珍しいことに、予約客が時間通りに現れたのだ。


「いらっしゃいませ」


 ドアが開く。 そこに入ってきたのは、驚くほど「軽い」男だった。


「やあ、こんにちは! ここが『アウトシステム』のオフィスかい?」


 内田(うちだ)と名乗ったその青年は、海と同年代に見えた。 だが、纏っている空気がまるで違う。 肌は内側から発光するように艶やかで、姿勢には一点の歪みもない。 彼が歩くと、甘い香水の匂いがふわりと漂い、オフィスの淀んだ空気を切り裂いた。 典型的な「適合者(サブインテリジェンス層)」だ。


「内田です。AIのリコメンドでね、『たまにはアナログな刺激も脳の活性化に良い』って出てきてさ。興味本位で予約してみたんだ」


 内田は、勧められたパイプ椅子に腰を下ろすと、物珍しそうに室内を見回した。 薄汚れた壁。剥き出しの配管。埃の匂い。 だが、内田は顔をしかめない。 彼が装着している極薄のARグラス『アルシオーネ』が、この殺風景な部屋を、即座に「レトロで隠れ家的なカフェ」のような内装へと書き換えているのだろう。 カビの浮いた天井はヴィンテージウッドに、配管はインダストリアルデザインの照明に。


「ようこそ、内田様。……刺激、ですか」


 海は、営業スマイルを作った。頬の筋肉が強張るのが分かる。 目の前の青年は清潔で、自分は汗と金属の臭いがする。 同じ人間なのに、生物としての種族が違うような疎外感。


「単刀直入に伺います。内田様は、ご自身の人生における『選択』に、満足されていますか?」


 海が切り出すと、内田はきょとんとした顔をした。 まるで、「空気の味に満足していますか?」と聞かれた時のような、質問の意図を測りかねる顔だ。


「満足……? まあ、不満はないかな。ハルシオンの予測は正確だし。昨日のランチも、来月の旅行プランも、全部AIが決めてくれた通りで完璧だったよ」


「……そうですか。では、少し失礼して」


 海は手元の『OS』を操作し、解析モードを起動した。 ファンの回転数が上がり、海のこめかみに熱い痛みが走る。 視界に赤いグリッドが表示され、内田の行動ログと、微細な生体反応が数値化されて浮かび上がる。


「内田様、AIは完璧と言いましたが……ログは嘘をつきません」


 海は、空中に浮かぶグラフを指し示した。


「あなたの深層心理ログには、明確な『マンネリ(飽和)』の警告が出ています。あなたは昨日のランチの味に、0.8秒ほどの『飽き』を感じていた。ハルシオンが提供する『80点の正解』の繰り返しに、脳は無意識下で刺激を求めているんです」


 海は畳み掛けた。 これこそが『OS』の力だ。隠された真実を暴き、人間に「自覚」を促す。 だが、内田はそのグラフを見ても、感心したように頷くだけだった。


「へえ、すごい分析だね。僕自身も気づかなかったよ」


「……ええ。ですから、このデバイスを使えば――」


「でもさ」


 内田は、朗らかに笑って遮った。


「昨日のパスタ、本当に美味しかったよ? 店員さんも親切だったし、僕はすごく幸せだったけどなあ」


「……は?」


「0.8秒飽きたのかもしれないけど、残りの時間は楽しかったんだから、トータルではプラスじゃないかな。わざわざ悪いところを探さなくてもいいと思うけど」


 海は言葉を詰まらせた。 海の提示した「論理的な真実(データ)」は、内田の「実感(幸せ)」という分厚い壁の前に、紙屑のように弾き返された。 彼らは、自分の感情すらも、AIが「満足」と定義すれば、満足だと信じ込めるのか。 いや、違う。 彼らにとって「真実」とは、自分がどう感じたかではなく、システムがどう評価したかなのだ。


 ふと、海は『OS』の解析画面に表示されている、ある奇妙なデータに気づいた。 ――視線ベクトル(Gaze Vector)。 内田は海を見て話している。目が合っているように見える。 だが、『OS』が示す緑のラインは、海の顔ではなく、その左耳の横、何もない空間(虚空)に固定されていた。


 海は背筋が寒くなった。 内田が見ているのは、薄汚れた海の実体ではない。 ARが生成した、清潔で愛想の良い「海のアバター」だ。 彼は今、海という人間ではなく、システムが作り出した幻影と会話しているのだ。 同じ部屋にいながら、二人は全く別の世界にいる。


「あの、内田様……?」


「ん? どうしたの?」


 内田の視線は、やはり少しだけズレていた。 海は、諦めて話を戻した。


「……いえ。商品の説明を続けます」


 海は熱弁した。 汎用AIのリスク回避主義。それに対し、『OS』を使えば、リスクを負ってでも「150点の最高解」に到達できる可能性。 そして、それが人間本来の「思考」であること。 海は、自分の胸にある鉄塊の熱さを伝えようとした。この痛みが、生きている実感なのだと。


 内田は、ニコニコしながら聞いていた。 時折、「へえ!」「すごいね!」と相槌を打つ。 だが、その視線は時折、虚空の通知ウィンドウへと逸れる。 「次の予定まであと10分」「今日の天気」「新作スイーツの広告」。 海の話は、彼にとってそれらの情報と同列の、ただの暇つぶしコンテンツに過ぎない。


 説明が一通り終わると、内田は感心したように溜息をついた。


「すごいなあ。本当にすごい。君は、毎日そんなに大変なことを考えて生きているんだね」


 その言葉に、海は微かな期待を持った。伝わったのか?


「では、導入をご検討いただけますか? このデバイスを使えば、あなたも――」


「あ、いやいや! 買うわけないじゃないか」


 内田は、朗らかに笑って手を振った。 悪意など微塵もなかった。純度100%の「拒絶」だった。


「だって、それ、『疲れる』でしょう?」


 内田の言葉は、あまりにもシンプルで、それゆえに反論の余地がなかった。


「150点なんていらないよ。80点で十分幸せだし、もし失敗したら誰が責任を取るの? 僕? 冗談じゃないよ」


 内田は肩をすくめた。その動作すらも、洗練されたダンスのようにスムーズだ。


「自分で選んで、自分で間違えて、自分で責任を取る。……うわあ、想像しただけで胃が痛くなりそうだ。なんでわざわざ、そんな『罰ゲーム』みたいなことをしなきゃいけないんだい?」


 海は口を開けたまま固まった。 罰ゲーム。 海にとっての「人間の尊厳」は、彼らにとっては「不合理な罰」でしかなかった。


「それにさ」


 内田は、海(のアバター)を覗き込むようにして言った。 その瞳には、海が最も恐れていた色が宿っていた。 侮蔑でも、敵意でもない。 深い、深い、「憐れみ」の色だ。


「君、かわいそうに」


 内田は、傷ついた野良犬を見るような目で、汗ばんだ海の方角を見た。


「AIに任せればいいのに。ハルシオンは君のことだって、ちゃんと愛してくれるよ? なんでそんな重いものをぶら下げて、わざわざ苦しい思いをしてるの?」


「……これは、重りじゃない。武器だ」 「武器? 戦争なんて、どこにもないのに?」


 内田は不思議そうに首を傾げた。 そうだ。彼の世界には、争いも、貧困も、不衛生も存在しない。全てがAIによって最適化された、美しく平和な楽園。 そこで武器を構えている海は、平和な遊園地にナイフを持ち込んだ狂人か、あるいは見えない敵と戦う哀れな道化にしか見えないのだろう。


「……帰ります」


 内田は立ち上がった。興味は失せたようだった。


「話は面白かったよ。昔の小説を読んだみたいだ。でも、現実はもっとスマートでいい」


 彼は出口へと向かう。その足取りは軽く、迷いがない。 ドアを開ける直前、彼は振り返り、爽やかな笑顔で言った。


「君も、早く楽になれるといいね。お大事に!」


 バタン、とドアが閉まる。 内田の澄み切った瞳には、自分が相手を傷つけているかもしれないという想像力の濁りなど、一滴も混じっていなかった。 再び、死んだような静寂が戻ってきた。


「……お大事に、か」


 海は、デスクに両手をつき、深く息を吐いた。 『OS』の熱が、シャツを通して皮膚を焦がす。 内田が残していった甘い香水の匂いが、海の鼻腔にこびりついて離れない。それは、腐敗を隠すための防腐剤の匂いのように感じられた。


 海は、自分のシャツの襟元を嗅ぐ。 鉄錆と、脂汗と、生きている人間の酸っぱい匂い。 どちらが「人間」の匂いなのか、今の海には分からなくなっていた。


 彼らは死んでいるわけではない。 よく笑い、よく喋り、人生を謳歌している。 だが、海には彼らが「セールストーク・オブ・ザ・デッド」――意思を持たぬ死体たちの幸福な会話――を繰り広げているようにしか見えなかった。


「(……違う。死んでいるのは、俺の方なのか?)」


 ふと、そんな疑念が頭をよぎる。 重力に縛られ、汗をかき、誰にも理解されない言葉を吐き続ける自分こそが、この美しい世界における「亡霊(ノイズ)」なのではないか。


 その時、海の手首のデバイスが短く震えた。 『OS』の無骨な通知画面に、メッセージが表示される。 ハルシオン経由ではない、暗号化された回線からの着信。 送信者は『蓮(れん)』。 この世界でたった一人、海と同じ言葉を話せる親友からだった。


『海、今いいか? 飲みたい。……ちょっと、話があるんだ』


 短い文面。だが、海はそこに滲む微かな「ノイズ」を感じ取った。 いつもスマートな彼にしては珍しい、迷いを含んだ誘い。 海は『OS』のケーブルを強く握りしめ、返信ボタンを押した。


「……了解。いつもの場所で」


 この痛みがある限り、俺は生きている。 海はジャケットを羽織り、誰もいないオフィスを後にした。

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