アウトシステム ―幸福な家畜として生きる君へ―

ジョウジ

第1話:重力のある朝

 喉が鳴った。 ヒュー、ヒュー、という、潰れた笛のような音が、自分の気管から漏れている。


 四ツ谷 海(よつや かい)は、その不快な呼吸音で目を覚ました。 瞼を開けるよりも先に、首元に食い込んだ異物の感触が脳を刺す。 硬く、太く、そして生温かいケーブル。 寝返りを打った拍子に、首から下げた鉄塊――『アウトシステム(OS)』のケーブルが喉に巻き付き、気道を締め上げていたのだ。


「……ぐ、え……」


 海は咳き込み、身体を起こした。 乱暴にケーブルを引き剥がす。 皮膚が擦れるヒリヒリとした痛みと、解放された気道に空気が流れ込む感覚。 首筋を触ると、脂汗でぬるりとしていた。 枕元には、放熱フィンの隙間に溜まった埃と、焦げた金属の臭いが澱んでいる。


 最悪の目覚めだ。 だが、この窒息感こそが、海が「個」として目覚めるための儀式でもあった。


 ワンルームの壁は、吸音材を兼ねた白い合成樹脂で覆われている。 窓はない。空調の低い駆動音だけが、耳鳴りのように響く。 デジタル時計の表示は『07:18』。 汎用AI《ハルシオン》が推奨する起床時刻を、十八分過ぎていた。 たった十八分。 だが、この秒単位で同期された都市において、そのズレは致命的な「ノイズ」だ。海は舌打ちをし、重い身体をベッドから引き剥がした。


 洗面台の鏡を見る。 酷い顔だった。 二十九歳。だが、鏡の中の男は、干からびた果実のように皺が寄り、目の下にはどす黒い隈が張り付いている。 猫背だ。 首からぶら下がった1.5キログラムの黒い鉄塊が、常に頚椎を前へと引っ張り続けているせいで、背骨が歪んで固まってしまったのだ。


「……ひでえな」


 海は、掌に水を溜め、顔に叩きつけた。 冷たさで神経を叩き起こす。 水滴が、無精髭を伝ってシンクに落ちる。 鏡の端に映り込む、自分の耳元を見る。そこには何も着いていない。 もし今、洗面台の横に置いてある極薄のARグラス――『アルシオーネ』を装着すれば、この憔悴しきった顔は、血色の良い健康的な美男子のアバターに上書きされるだろう。 狭く薄汚れたこの部屋も、北欧風のモデルルームに見えるはずだ。


 だが、海は手を伸ばさない。 代わりに、濡れた手で胸元の『OS』を握りしめた。 親指で、側面にある無骨なトグルスイッチを弾く。

 カチリ。

 ウィーン……。 内蔵ファンが唸りを上げ、筐体が急速に熱を帯び始める。 それと同時に、海のこめかみに鋭い激痛が走った。


『Boot Sequence Initiated...』


 網膜に走るノイズ。 脳の処理速度が、薬物を打たれたように強制的に引き上げられる。 視界の解像度が跳ね上がる。 空気中を舞う埃の粒子。鏡についた水垢のパターン。蛇口から垂れる水滴の表面張力。 膨大な「生の情報」が、フィルターを通さずに脳髄へ雪崩れ込んでくる。


「……ぅ、ぐ……」


 海は洗面台の縁を強く握りしめ、嘔吐感を堪えた。 痛い。熱い。 だが、その痛みの奥底から、脳が痺れるような「全能感」が這い上がってくる。 世界が見える。 嘘偽りのない、高解像度の現実が、海の中枢神経を直接レイプする。 このヒリつくような感覚。 これがあるから、やめられない。 海は、充血した目で鏡の中の自分を睨みつけ、歪んだ笑みを浮かべた。


 行くか。 地獄へ。


 ***


 高効率居住区の朝は、無音のパレードだ。


 駅へと続く大通り。 数万人の人間が川のように流れているが、そこには靴音も、衣擦れの音も、話し声さえもない。 全員が『アルシオーネ』のナビゲーションに従い、衝突しない最適な間隔を保って歩いているからだ。 誰もが、虚空に浮かぶ半透明のウィンドウを見つめ、指先を動かしている。 ニュースを読み、メッセージを返し、動画を見て、時折クスクスと笑う。


 その光景は、整然としていて、清潔で、吐き気がするほど不気味だった。


 海は、その流れに逆らわず、しかし混ざり合うこともできずに歩いていた。 一人だけ、足音がうるさい。 革靴の踵がアスファルトを叩くコツ、コツという音が、静寂な空間に異音として響く。 だが、誰も海を見ない。 彼らの視界(AR)では、海のような「和を乱すノイズ」は、リアルタイムでモザイク処理されているか、あるいは「風景の一部」として認識阻害がかけられているのだろう。


「おはよう! 今日のラッキーカラー、シアンだって!」


「本当? 空と同じ色ね。素敵」


 すれ違いざま、若いカップルの会話が聞こえた。 弾むような声。曇りのない笑顔。 彼らの肌はビニールのようにツルツルで、目には一点の陰りもない。 なぜなら、彼らは「悩み」という荷物を全てAIに預けているからだ。 今日の服も、朝食のメニューも、歩くルートも、交わす会話の内容さえも。 全て「推奨(レコメンド)」された正解をなぞっているだけ。 だから、彼らの身体は風船のように軽い。


 海は、胸元の『OS』の重みで肩が凝るのを感じながら、彼らを横目で見た。 ふと、カップルの後ろを歩いていた中年のサラリーマンに目が留まった。


 彼は、満面の笑みを浮かべていた。 口角を限界まで吊り上げ、頬の筋肉が引きつるほどの笑顔。 だが、その目からは、ボロボロと涙が溢れ出していた。


「……え?」


 海は足を止めた。 男は、嗚咽ひとつ漏らさず、ヒック、ヒックと肩を震わせながら、それでも笑顔を崩さずに歩き続けている。 涙がスーツの襟を濡らしている。 精神が悲鳴を上げているのか。それとも、感情制御のパラメータがバグを起こして、入力(悲しみ)と出力(笑顔)が食い違っているのか。


 異様な光景だった。 泣きながら笑う男。 だが、周囲の数千人は、誰一人として彼を見ようとしない。 カップルが、男の横をすり抜ける。 彼らの視界では、この不気味なエラー人間は、美しい噴水か、あるいは道端のオブジェにでも置換されているのだろう。


(見えていない)


 海は、背筋が寒くなるのを感じた。 ここには「救い」があるが、「人間」はいない。 あるのは、バグを自動的に修正・隠蔽する、巨大なシステムだけだ。


「……っ、くそ」


 海は視線を逸らし、再び歩き出した。 その時、前方から来た男と肩がぶつかりそうになった。 海はとっさに身体を捻ったが、重たい『OS』に振られてバランスを崩した。


 よろめく海。 対して、相手の男――清潔なスーツを着た青年――は、まるでダンスのステップのように滑らかに身体をスライドさせ、接触を回避した。 AIのアシストによる、物理演算じみた完璧な回避。


 青年は、足を止めて海を見た。 その瞳には、悪意など微塵もなかった。 あるのは、純粋な善意と、理解不能なものを見る「困惑」だけ。


「おっと、大丈夫ですか? 足元、悪いわけじゃないのに」


 青年は、爽やかに微笑んだ。 彼は、汗だくで肩で息をし、鉄塊をぶら下げた海を、まるで「舗装された道路を、わざわざ匍匐前進している変人」を見るような目で見ている。


「……ああ、すまない」


 海が呻くように答えると、青年は「気をつけて」と言い残し、再び軽やかなリズムの中へと戻っていった。 その後ろ姿は、重力など存在しないかのように軽かった。


 海は、その場に立ち尽くした。 睨みつける気力さえ湧かなかった。 青年は正しい。この世界では、彼こそが「正解」なのだ。 重力を背負い、汗をかき、バグ(涙)を見つけて立ち止まる海の方が、「間違い」なのだ。


 海は、首元の『OS』を握りしめた。 熱い。 放熱フィンの熱が、掌を焦がす。 この痛みだけが、海が世界と繋がっている唯一の証だった。


 海に見えている世界は、彼らの見ている楽園とは違う。 『OS』がARの虚飾を強制的に解除(クラック)した、剥き出しの「現実」だ。


 彼らが「美しい花壇」と呼んで愛でている場所には、植物など一本も生えていない。 そこにあるのは、ひび割れたコンクリートの枠と、乾いた土だけだ。植物の維持管理コストを削減した結果の「無」。 土の上には、誰かが捨てた吸い殻が一本、黒い染みのように落ちている。


 彼らが「並木道」と呼ぶ歩道の脇には、等間隔に無機質な金属のポールが立っているだけだ。 ビルの壁面は塗装すらされず、薄汚れたコンクリートが剥き出しになっている。 かつて川だった場所は、完全に護岸され、工業排水のような濁った水が流れるだけの巨大な水路と化している。


 色はなく、匂いもなく、生命感もない。 徹底的に効率化され、コストカットされた、灰色の廃墟のような都市。 それが、この世界の「素顔」だった。


(……どっちが狂ってるんだ?)


 海は、乾いた土の上で「花が綺麗だね」と微笑み合う人々を横目に見ながら、自問する。 この殺風景な真実を直視し、重い鉄塊をぶら下げ、汗と脂にまみれて歩く自分か。 それとも、美しい虚構のフィルター越しに世界を見て、悩みもなく、責任もなく、ただ軽やかに笑って生きる彼らか。


『我思う、ゆえに我あり』 古い哲学者はそう言った。 だが、この都市を行き交う数万の「適合者」たちは、その命題を嘲笑うかのように幸福だ。 『我思わず、ゆえに我幸福なり』。


 海は、こみ上げてくる胃液を飲み込んだ。 それは、彼らへの嫌悪感ではない。 彼らと同じになりたい、あの軽やかな列に加わりたいと願ってしまう、自分自身の弱さへの吐き気だ。


『OS』のケーブルを引き抜けば、一瞬で楽になれる。 灰色のビルは七色に輝き、ドブ川は清流に変わり、この重たい疲労感は嘘のように消え去るだろう。 今日のランチに悩むことも、売れない商品のセールスに胃を痛めることもない。


「……でも、それは『俺』じゃない」


 海は、奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。 その痛みだけが、彼を現実に繋ぎ止めていた。 苦悩こそが、俺の輪郭だ。 迷いこそが、俺の重力だ。 この重苦しい肉体を引きずって、自分の足で選び、自分の頭で考え、自分の心で傷つくこと。 それだけが、システムに消化されずに「個」として在り続ける唯一の方法だと、海は信じていた。 たとえそれが、どれほど滑稽で、非効率な生き方だとしても。


「……行くぞ」


 海は、誰に聞かせるでもなく呟き、一歩を踏み出した。 その足音は、周囲の完璧なリズムとは決して調和しない。 ズ、ズ、という、泥を引きずるようなノイズ。


 駅の改札を抜ける時、海はふと、ガラスに映った自分の姿を見た。 極彩色の幸福な群衆の中で、一人だけ色が抜け落ちたような、灰色で猫背の男。 それはまるで、美しい絵画に混入した、取り除かれるべき「シミ」のようだった。


 自動改札機が、海を通すときに一瞬だけ、嫌そうなエラー音を立てた気がした。 今日もまた、誰も望まない「選択の自由」を売り歩く、長い一日が始まる。

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